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離宮に訪う氷

それは、昼下がりの静けさを破る一報だった。


「……第一王子殿下が、こちらへ?」


届いた報せに、リシェルは思わず言葉を失った。

この西の離宮に王子が、しかも私的に訪れるなど常識では考えにくい。王宮からそれほど離れているわけではないとはいえ、この館は政治の表舞台から退いた者たちが過去の影と共に余生を送る場所。その扉をアレクシス・レオナールが私的に叩く理由とは。

思考が追いつかぬままリシェルは静かに瞳を伏せた。


(目的が見えない……でも、あの殿下なら目的を見せないことすら計算のうち)


一度は落ち着きを取り戻した離宮の空気は、報せひとつで再び張り詰めたものへと変わっていった。


「お嬢様、どうしますか……?」


傍らのリィナが不安げに問いかける。その声にリシェルは我に返った。

数日前、彼女の背負う秘密の一端に触れたばかりだ。忠誠は信じている。けれど彼女の瞳に一瞬宿った影、あれが何であったのかまだ見極めきれてはいない。


(……今は考えるべきことが別にある)


「準備して、リィナ。相手は第一王子。どんな訪問であれ、礼を欠くわけにはいかないわ」


「は、はいっ」


リシェルは立ち上がり背筋を伸ばす。

離宮の廊下を歩くたび、古い床板が微かに軋む。ゆるやかな緊張と共に、彼女は静かに呼吸を整えた。

アレクシス・レオナール。

氷のように冷たく、決して感情を表に出さぬ男。

だが、あの王子はただ黙しているのではない。


(見せない。そういう選択をしているだけ)


やがて、黒いの服装に身を包んだ姿が玄関に現れた。

その瞳はタンザナイトのごとく冴え渡り、けれどどこか湖面のような静謐(せいひつ)さを湛えていた。


「ご機嫌よう、アレクシス殿下。西の離宮へようこそお越しくださいました」


リシェルは裾を捌き、丁寧に一礼する。


「久しいな、リシェル嬢。あくまで私的な訪問だ。過剰な迎えは不要」


簡素な言葉と、控えめな頷き。それだけで王子の存在は空気を変えた。


「けれど、殿下は()の御身。その立場を思えば、この場所はあまりにも……静かすぎます」


リシェルの問いかけに、アレクシスは僅かに視線を細めた。怒りでも困惑でもなく、ただ何かを測るようなまなざし。


「ここはかつて、宮廷から離れた者たちが過ごした場所。その静けさ(・・・)がちょうどよかった」


その言葉にはどこか、自身への皮肉ともとれる静けさがあった。


「煩わしさから離れたかった……が正しいな」


それが本心かあるいは慎重な言い回しか。リシェルには測りかねた。ただアレクシスの声音は、何かを断ち切るように終始落ち着いていた。

応接の間に彼を通し、茶を運ばせたあともアレクシスはすぐには話し出さなかった。リシェルは言葉を急がず、静かにその沈黙に身を委ねる。そして、ようやくカップに口をつけた彼がぽつりと告げた。


「【封印された記録庫】を知っているか?」


淡々とした響き。

けれど、その言葉は確かにリシェルの胸を揺らした。


「……王家にまつわる、禁じられた記録の保管所。そう認識しています」


「……知っていたのか……。その中の一つにカロルと、ルヴェールの名が並んでいた」


その名が意味するもの。

リシェルの胸にひやりと冷たいものが落ちた。母が関係する名が、そこに記されていたという事実。


「……なぜ、それを私に?」


アレクシスは視線を伏せるようにして一度、茶の香を吸い込んだ。そして今度は真正面からリシェルを見つめ、はっきりと告げた。


「君も知っておくべきだと判断した。それだけだ」


感情を挟まぬ声。

けれどそこに虚偽の気配はなかった。だからこそ、リシェルは胸の奥に静かな重みを感じていた。


「……母の足跡を辿れと?」


「共に辿るか? その先にある真実(・・)を見るために」


その瞬間、離宮の空気がわずかに変わった気がした。澄んだ風が閉ざされた窓の隙間から忍び込むような感覚。彼の整った表情の奥に、言葉では語られない意思が宿っているようだった。


(この人は少なくとも私に、嘘はついていない)


かつて、誰かの嘘に翻弄され傷ついた記憶が胸をかすめた。けれど今それを引きずる暇はない。


「……わかりました。記録庫の件、私も調べてみます」


アレクシスは静かに立ち上がり短く告げる。


「また来る」


それだけを残し、彼は背を向けた。

まるでこの離宮に漂う澱んだ空気を、あえて自らの中へ引き受けるかのように。

その背にリシェルは小さく囁く。


「……氷の王子(・・・・)ね。けれどその奥にはきっと……」


まだ、誰も見たことのない本当の顔があるのだろう。

扉が静かに閉じる音が響いた。



アレクシスの姿が扉の向こうへと消えてなお、その場に残された空気は、まるで時が止まったかのように静まり返っていた。リシェルはしばし立ち尽くし、ただ黙ってその背を思い返す。

何も残さぬように、何も語らぬように去っていったはずなのに、そこには確かに何かを託された感覚が残っていた。


「……不思議な人ですね」


後ろからふと声がかかり、リシェルはゆっくりと振り返った。そこには、心配そうにこちらを見つめるリィナの姿があった。


「感情を見せないのに、なぜか印象に残るというか……忘れられなくて」


「……ええ。あの方の沈黙は、言葉以上に伝わるものがあるわ」


「……そうですね」


肯くリィナの横顔には、どこか陰りが差していた。けれどリシェルはすぐには問いたださなかった。少女の抱く不安に気づきながらも、それを無理に引き出そうとはしなかった。ただ静かに視線を落とし、自身の胸の奥に目を向ける。

アレクシスが口にした言葉。

王家の【記録庫】に眠る真実を、自分に共有すると告げたこと。それは、軽々しく受け止めていい類の話ではない。それほどのものを委ねるということは、彼自身にもまた深い覚悟があるということ。


(それなのに……なぜ、私に?)


信頼か──あるいは利用価値。

彼が私情で誰かを頼るとは思えない。アレクシスは「感情で国は動かさない」と公言する男。感情を削ぎ落とし、冷静と合理を武器に政治を動かす人間だ。そんな彼がなぜ……。


「……私が思っていたよりも、あの方には感情があるのかもしれない」


ふと口にした言葉に、リィナが驚いたように瞬きを繰り返し、やがて少し口元を緩める。


「えっ、アレクシス殿下が……ですか?」


「ええ。少なくとも、あのときの彼は嘘をついていなかったわ」


自分の声が、そのまま確信となって胸に落ちる。冷たい仮面の奥に、確かに人間としての何かが息づいていた……そう感じたのは錯覚などではなかった。


(……あれは、間違いなく本音だった)


──回帰前、誰かの甘い言葉に裏切られた日々があった。信じた手に毒を盛られ、優しさを信じた自分が最も愚かだったとそう思ったこともある。二度と誰かの「信じて」という言葉にすがることなどないと、誓っていたはずだった。


「リィナ、しばらくここの書庫を調べるわ。記録庫に関連しそうな文書があるかもしれない」


「はいっ。お手伝いします!」


明るく返事をするリィナの顔には、まっすぐな忠誠と変わらぬ信頼の色が宿っている。リシェルはその笑顔に、ほんのわずかに口元を緩めた。


(アレクシス殿下。あなたが私を信じたのなら、私もそれに応えましょう)


それは、打算でも情でもない。

ただ、自分の前に差し出された真実という名の刃に正面から向き合う覚悟だった。


──仮面の奥にあるのは、王子としての野心か。それとも一人の男としての願いか。


その答えを見極めるには、まだ時間がかかるだろう。

けれど確かに今、その第一歩を踏み出したのだ。

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