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仮初めの休息

午後の書斎は、灰色の光に満たされている。

カーテンの隙間から洩れる雨音と、蝋燭の火が小さく揺れる気配だけが空間を満たしていた。

手紙を読み終えてからというもの、しばらく身動きが取れなかった。蝋燭の灯がわずかに揺れ、書きつけられた文字の輪郭まで淡く震えるように見える。


(……なぜ、今になってこの手紙が? そして誰が、私の部屋に……)


封蝋に刻まれていた紋は、五枚花弁のサクラリス。

それはセラフィーナと深く関わりのあった人物からのものに違いなかった。けれど内容は曖昧で、誰の手によって届けられたのかも記されていない。明らかにされたのは、過去と向き合うための鍵がまだ残されているということだけ。


「……お母様……」


囁きは書斎に満ちる静寂へと溶けていった。

リシェルはそっと深呼吸し机を撫でる。その仕草には、揺れる心の奥に芽吹いた小さな決意があった。

やがて沈黙を破るように呟いた。


「……いるんでしょ? ネーヴァ」


呼びかける声に、部屋の隅がわずかに揺れた。

天蓋の陰、淡くゆらめく火の明かりに照らされて人影が音もなく姿を現す。灰黒の髪、夜の銀を閉じ込めたような静かな瞳。リシェルの影として仕える侍女。


「お見通しですね」


どこか淡々とした声音にほんのかすかに笑みが滲んでいた。


「今は……少し、話してもいいかしら?」


「構いません」


簡潔な返答とともにネーヴァは一歩進み、自然な動作でリシェルのそばに膝をついた。その姿勢は、まるで最初からそうあるべき場所であったかのようだった。

数拍の静寂が流れ、リシェルは目を伏せたまま問いかけた。


「……あなたは、お母様のことを知ってる?」


その問いにネーヴァはほんのわずか目を細め、静かに頷いた。


「はい。私はあの方の命で、ここへ参りました。お嬢様を影として守るようにと」


その言葉に滲むのは、深い敬意とかすかな哀惜。けれどリシェルの記憶にある母の姿とは、どこか印象が異なっていた。


「あなたにとって……お母様は、どんな人だった?」


問いは穏やかに。

けれど、その奥には芯の強さがある。

ネーヴァは一瞬だけ視線を泳がせた。

感情ではなく、言葉を選ぶための沈黙。


「何よりも、使命に忠実な方でした」


「使命……?」


「はい。あの方は王家との関係、そしてルヴェール家に流れる血に責を感じていたようでした。だからこそ、あなたに未来を託す覚悟をされたのだと、私は……そう理解しています」


未来を託す。

その響きに、リシェルの胸がふと痛んだ。

セラフィーナは優しかった。けれど今思えば、ずっと『何かを抱えていた』ようにも思える。その影が、今ネーヴァの言葉の端々にもにじんでいる気がした。


「……あなたは、お母様のすべてを知っていたの?」


さらに深く踏み込んだ問い。

ネーヴァはふと視線を伏せ、ひと呼吸置いてから言葉を返す。


「……私が知るのは、影として共に過ごした時間の中だけです」


それ以上は語られなかった。

けれど、それで十分だった。

リシェルの中には、はっきりとした確信が芽吹いていた。


──セラフィーナには、もう一つの顔がある。


それは母としての姿とは別の、使命を背負った一人の女性の面影。リシェルは目を閉じ、そっとその気配に触れるように息を吐いた。


「ありがとう、ネーヴァ。少しだけ、心が軽くなったわ」


「私は、ただ夜に在る者。お嬢様の影であり盾であり続ける。それが私の使命です」


その声はどこまでも静かで、どこまでも揺るがない。

けれどリシェルの胸には、別の小さな疑念が生まれ始めていた。


(……なぜ、お母様はネーヴァを私のもとに? なぜ、今になってこの手紙が現れたの……?)


午後の光が少しずつ傾き、書斎に長い影が伸びていく。

まだ、何も明かされていない。

それでも、確かに動き始めたものがある。

母の遺した手紙と、ネーヴァとの対話はリシェルにとって小さな転機だった。

──影の中で芽吹いた、静かな確信。

それが、未来へと続く扉を叩こうとしていた。


翌朝。

雨上がりの朝靄が、西の離宮の窓を淡く煙らせていた。前夜の名残のような湿気がまだ空気に残り、窓辺に吊るされたレースのカーテンが風にひそやかに揺れている。その部屋の中、リシェルは夜の重みをまだわずかに引きずったまま、鏡台の前に腰を下ろしていた。部屋には既に侍女たちの手によって、日常の清らかな空気が戻りつつある。

鏡の奥に映るのは、薄青のドレスを纏った自分の姿。

その背後で栗色髪のリシェル付きの若侍女リィナが、リシェルのを丁寧に編み込んでいた。


「お嬢様。今日は、ハイドランジアの髪飾りをお付けしてもいいですか? お城の庭園で、今朝やっと開き始めたそうです」


明るく軽やかな声。

部屋の空気までやさしく弾ませるような、柔らかい口調だった。


「ええ、お願いするわ」


リシェルは穏やかに応じたが、その声にはかすかに探るような色が滲んでいた。

鏡越しに映るリィナの横顔。

いつもと変わらぬ無邪気な笑顔──けれど、どこかそれが演じられたもの(・・・・・・・)にすら感じられるのは、昨夜のネーヴァとの語らいが残した影のせいなのか。


(……リィナ、あなたも何かを……?)


その疑念を読み取ったかのように、リィナがふわりと身を翻しリシェルの正面に立った。そして、ためらいのない瞳でまっすぐに見つめてくる。


「お嬢様……最近、ちょっと変わりましたよね?」


「……そうかしら」


思わず返したリシェルの声には、少しだけ戸惑いがにじんでいた。


「はい。なんていうか……すごく強くなった気がして。でも、少しだけ……遠くなったというか」


その言葉は責めるものではなく、むしろ心からの心配と親しみが混ざったものだった。年若い侍女の、正直で拙いけれど真摯な言葉。


「……前はもっと頼ってくださった気がします。今はちょっとだけ、手の届かないところにいるみたいで」


リィナの瞳には微かな不安と、変わらず寄り添おうとする気持ちが宿っていた。リシェルは少しだけ目を細めて、それを見つめ返した。そして自分の中に残っていた痛みの欠片に、そっと触れるように言葉を紡ぐ。


「……ごめんなさい。きっと、夢を見ていたのね。少しだけ……長くて悲しい夢を」


「悲しい夢……?」


リィナが首をかしげるように問い返す。

その仕草は昔と変わらない。けれど、どこかで彼女もまた演じているのでは……そんな違和感が拭えなかった。


「ええ。でも、あなたがいてくれて助かったの。何度も救われたわ。ありがとう、リィナ」


一瞬の沈黙のあと、リィナがふわりと笑う。

それは朝の花がひらくような純粋な微笑だった。


「えへへ……そんな、私こそ……です」


リィナの声はどこまでも澄んでいた。

まっすぐで、疑いようのない光を帯びていたように見えた。

けれど、その刹那。

リシェルがわずかに視線を落としかけたその瞬間だった。


(あれは──)


リィナの瞳の奥に、かすかに揺れる影を見た気がした。それは、ほんの一瞬の気のせいかもしれない。あるいは、リシェル自身の感情が生み出した幻だったのかもしれない。

けれど、確かに何かがある。


(……リィナ。あなたの忠誠は、誰に向けられているの?)


その問いはまだ言葉にならない。

けれど、心の奥で小さな形を取りはじめていた。

リィナは再び背後に回り、髪を整え終えたリシェルににこやかに言った。


「今日のドレス、本当にお似合いですよ。お嬢様は、どんなお花より綺麗ですから!」


「ありがとう、リィナ」


リシェルもまた微笑を返す。

けれどその瞳には、昨夜から続く静かな決意が宿っていた。


(私は見逃さない。この命がお母様の遺志ならば)


陽光が差し込む朝の一幕。

侍女と主、穏やかな少女たちのやり取りの裏で、リシェルの中にまた一つ小さな決意が刻まれていく。

それはまだ、誰にも気づかれていない。

けれど静かな戦の幕が、音もなく上がろうとしていた。

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