異世界は突然に
見知った道を曲がった先に、頭が三つある馬鹿でかい犬がいたら、誰だって目を剥くと思う。
「ケルベロス……?」
思わずつぶやいた俺の声に、ピンと立ち上がった犬耳がこっちを向いた。
頭三つ分の犬耳。動物はけっこう好きなはずなんだけど、これはノーセンキューだわ。無理。だって俺の顔くらいあるんだよ、あの犬耳!
「グルゥ」
「ひぃっ!」
頭のひとつがあげた唸り声で俺は腰をぬかした。
──現実逃避してる場合じゃない。逃避はしたいけどっ!
逃げ出そうと思ったんだ。来た道を戻ってご近所の誰かの家に駆けこもうと地面を這ってから、振り向いた先に見知った道が無いことに気が付いた。
「えっ、なんで」
じゃり、と膝がすれた地面はいつの間にかむき出しの大地になっていた。さっきまで踏みしめていたはずのアスファルトはどこへいったんだ。
建ち並んでいたはずの家々が消えたのはいつだった? 帰る家どころか駆けこもうと思っていたご近所の家が鬱蒼とした木立ちに変わるはずがないのに。
「嘘だろ……」
呆然と目を見開く俺の耳元に「ハッハッ」と熱い息がかかる。
振り向きたくない。でも振り向かなくてもわかる。
だって、固まった俺の左右からのぞき込んでくるデカい鼻づらが視界の端に映ってる。ずしりと背中にのしかかる重みは、見えないもうひとつの頭だとしか思えない。
──死んだ。
ケルベロスの呼吸の音を打ち消すほどの音でぜいぜい言ってるのはなんだ。俺の呼吸だ。必死で息を吸ってるのにすこしも胸に空気が入ってこない。
──確実に死んだ。
俺の身体はがたがた震えて四つん這いのまま動けないでいる。
ラノベとかアニメだと主人公はどうにかしてピンチを切り抜けるものだけど、俺は身動きすらできない。だって無理だ。怖すぎる。
──どうせ死ぬならいっそ酸欠で眠るように楽になりたい。
そう思ったのが、いけなかったのか。
ぶわりと背後から熱い風が吹いて、思わず振り向いた俺の視界は赤黒いもので埋め尽くされた。
──あ、これって口のなかか。
呆然と見つめる俺に、ケルベロスの大きく開かれた顎が迫る。
不気味な熱気を放つ顎にずらりと並ぶ黄ばんだ牙が刺されば、俺のうすっぺらい腹から背中までかんたんに貫通してしまうだろう。
けれど、暴れる暇もなくケルベロスの顎は迫ってきて俺の腹と背中に牙が触れて。
「えっ」
ぐいっと持ち上げられた。
腹のあたりを甘くくわえたのは、ケルベロスの真ん中の頭。
左右の頭となにやら視線を交わしたあと、俺の視界がぶれる。
「ええっ!?」
ぐん、と衝撃を感じて咄嗟に閉じた目を開いた俺は思わず大声をあげていた。
見開いた目に映る景色がぐんぐん流れている。車より大きなケルベロスが駆けているのだ。俺を咥えて。
「うえっ、ぐえっ、ちょぉ! まぁっ!?」
太い脚が地を蹴るたびに激しくシェイクされて、そのたび意味のない声がくちから漏れる。いや、声以外にも漏れそうだ。シモの話じゃない。ゲロが出そうなんだ!
「やめっ、とまっ、まっ!」
がっくんがっくんと振り回されながらも必死で訴えるけれど、ケルベロスの脚は止まらない。
止まったらそこで食われるのでは、なんて考える余裕はなかった。
とにかくこの酷い乗り物から逃れたくて悲鳴をあげるけれど、ケルベロスはどんどん速度を上げていく。
立ち並ぶ木々が流れるように去って行くのを見る余裕もなく、この状況からどうやって生き延びるかなんて考えもつかず、俺は目を回すことしかできなかった。
※※※
「はっ」
気絶していたらしい。
無意識に口元のよだれをぐいっと拭ってから、気が付いた。まだ、巨大な化け物の顎に咥えられている。
そんなに長い時間、気絶していたわけではないのかもしれない。
──今ふいたの、俺のよだれか……?
ふとそんなことを思って、腹のあたりが冷たいのが気になった。
いや、今はそんなことを考えている場合じゃない。顎にぶら下がる俺の顔にちらちらと光があたってる。
記憶にある見知らぬ場所は森のなかだったはずなのに、いつの間にか周囲に建物が並んでいた。ケルベロスの足音もチャッチャッと固い物を蹴る獣のそれに代わっている。
──べ、べつに犬っぽくてちょっとかわいいな、なんて思ってないんだからな!
「って、町!」
町だ。速度を落としたケルベロスの足の下は剥き出しの大地ではなく、レンガが敷かれている。ぶら下げられたまま頑張って顔を上げれば立派な町並みが広がっていた。
町があるということはひとがいるということ。
ひとがいるということは!
「たすけてーーー!」
助かるかもしれない。
希望を抱いた俺は! 今、全力を出す!
「助けてー! 無力で無害な男子高校生が化け物に食われそうになっています! 誰か助けてーーー!」
恥や外聞なんて生きていてこそだ。
そう腹をくくって叫ぶけれど、ケルベロスの前に立ちはだかる者は現れない。
というか、町を行くのはひとか……?
「西洋のひとって全身鎧を着て歩いてるんだっけ……あ、ガイコツもいる。わあ、肌が緑の……ひと、ひと……?」
必死で首をあげてさまよわせた視界をうろつくのは、どう見てもひとじゃない。
骨だけで歩けるひとがいるわけがないし、緑の肌をしているひとは百歩譲っているかもしれないけど、子どものような体型で背中を丸めて歩く、耳が尖ったその姿はあれだ。
「ゴブリンかよ……」
けれどまだ希望は捨てない。俺の命がかかってるんだ、捨てられるわけがない。
「そっ、そこの鎧のひと! 食われそうなんだ、助け……」
全身鎧のなかにはひとがいるものだ。だって歩いているんだから。
そう思って声をかけた俺の見ている前で、全身鎧のひとの足元に黒い影が立ち上った。
薄く透けた黒い影は、ゲームで言うならゴーストだろうか。足元に生じたそれを避けようとしたのか、身じろいだ全身鎧の兜がぐらつく。
「……っ!」
ガシャン、と音をたてて転げた兜の下を見て、俺は息を飲んだ。
そこにはなにもなかった。
ひとの頭があるべき場所は空洞で、転がる兜を拾うために身体を屈めた鎧のなかも真っ暗ながらんどう。
「あ……」
驚きに間抜けな声をあげることしかできない俺に、空っぽの鎧が視線を向けた。
顔はないのに、わかった。
全身鎧が腕に抱えた兜のバイザーのすき間から、こっちを見ている視線がある。
ひくり、と喉を鳴らして悲鳴を飲み込めば、鎧は俺に興味を失くしたようにまた歩き出す。カシャン、と無造作に頭の部分に乗せられた兜はもうこちらを見ていない。
「なんだよ、ここ……」
顔を上げる気力もなくしてぐったりした俺を咥えたまま、ケルベロスはチャッチャッと軽快な足音を立てて進んで行く。
どこへ連れて行かれるのか。
運ばれた先で食われるのか。
わからないけれど、無性に悲しくなってきて、嗚咽がもれる。
「うっ、ううぅ……うー……死にたくない……」
ぐすぐすと泣きじゃくるのが恥ずかしいだなんて思う余裕は、もう無かった。
一度は死を覚悟して、けれど助かるかもしれないと抱いた希望が打ち砕かれて、俺の心は限界を迎えていた。
だから、気づかなかった。
ケルベロスが向かう先にひと……異形のモンスターたちが少なくなっていくことに。
そして、静けさのなかから誰かの声が聞こえることに、気づく余裕はなかった。