2-1 魔手
約一週間ぶりとなる、セイラの故郷にして本拠の地であるフィルグラント領の領都ルチアにて、二人は信じられない光景を目の当たりにした。
「バカ、な……」
セイラはその光景に愕然とし、膝から崩れ落ちた。
まず、領都ルチアを東西に貫く街道の入り口は、何人もの見知らぬ兵装の兵士たちに封鎖されていた。
街の全貌が眺められる近くの小高い丘へと登って確認したが、入り口だけではなく、街全体に大量の兵士が配置されていた。数十人という規模ではない。下手をすると100人を超える中隊規模かもしれない。しかも、どうやら騎兵も含んでいる。……そして街の至るところに何本も、見知らぬ紋様の描かれた旗が掲げられていた。
「どうして、あれほどの規模の兵団がルチアに……どうやってこんなに早く……。それにうちの領軍は、騎士たちはどこに……」
呆然とするセイラの声にはもう覇気がなかった。
彼女は陛下崩御の報せを聞いたあの夕刻以来、ずっと騎士の顔をしていた。深夜に休息を取ったときに少し弱気に陥りそうになっていたようだったが、それでも凜々しい騎士の表情を保ち続けた。……けれど、今目の間に広がる光景を前に、ずっと張り詰めていた緊張の糸がとうとうぷっつりと切れてしまったようだった。
「……あれは隣領の、領都へ戻る途中に通過した隣領の領主、ヘグレンツェ家の家紋だ。確かに現当主はうちにあまりいい顔をしていなかったが……まさか陛下に牙を剥くなんて……。いや、そういえば奴もヘンツェルに近い立ち位置にいたか……。でも、だからといってどうやって、どうやって領都を……私の故郷を………」
「セイラ!」
ぶつぶつと独り言を呟きながら、明らかに意気消沈し続けているセイラに大声で呼び掛けた。
セイラはハッとしたような顔でこちらを向いた。やはりその顔には覇気も闘志も見えなかった。その顔にはもう、怒りさえもなかった。今の彼女は……ただ絶望に打ちひしがれた、ただのひとりの女性に見えた。
「とりあえず移動しよう。ここは目立つ」
「あ、あぁ、そうだな……」
二人は少し離れた場所に停めてきたアテナを連れに戻り、そのまま領都の外を囲う林の中に身を潜めながら、ゆっくりと移動した。
「あの規模の軍は……ヘグレンツェ伯爵の領軍であれば、全体の七割か八割は駆りだしているはずだ。それだけの規模の兵団を周囲に気づかれないように動かしたというのか……?」
本当に数えきれないほどの兵士がいた。どこを見ても、見知らぬ兵装の兵士が居た。長槍を持って佇む者。剣を携え巡回する者。騎馬に乗り、堂々と街中を闊歩する者。
まだ幸いなことに街に被害は見受けられなかったが、フィルグラント本邸と行政庁舎には戦闘の痕跡があった。二件の周囲には特に兵の数が多く、どうやら現在拠点とされているようだ。
「やっぱりあれは相当多い数の兵士なんだね」
「あぁ、大貴族や国軍ならともかく。王都に近いとはいえ、地方貴族と同程度の力しか持たないヘグレンツェが簡単に動かせる量じゃない。それがいったい、なぜ、どうして私の……」
「そのヘグレンツェ伯爵ってどんな人だったの?」
歩きながら、ライナはセイラから少しずつ、現状を知るために必要な情報を聞き出していった。セイラが弱気になりそうになる度に、会話の流れを修正した。
セイラの生まれ故郷であり、育った家であり、遊んだ庭でもあるこのルチアの街が、余所の軍勢にわかりやすく占拠されている光景は、彼女の心に相当大きな傷を与えてしまったらしい。それまで気を張り続けていた反動もあるのだろう。
故郷の記憶を持たないライナはそれに共感することができなかったが、この二年の間見てきた彼女からは想像できないほど憔悴しきった様子から、それがどれほど重いことなのかは理解できた。
「あぁ……隣領の領主だというのにあまり知らないんだ。あちらがこちらを避けていたから。あまりよく思われていなかったのは確実だけど。だとしても……陛下に牙を剥くほどの奴だったかと言われれば……わからない。思い起こせばヘンツェルに近い立ち位置にいたような気もするから、奴に唆されたのやもしれない」
「そのヘンツェルはどんな奴なの? これほどの事をしでかすほどの能力や権力はあったの?」
「いや、アレはただの俗物だ。少なくとも私はそう思っていた。平民が活躍し経済が活性化していこうとする時代の流れに逆行して、旧い貴族のくだらない錯誤した誇りに驕り、権益に固執する愚かな人物。そういう認識だった」
さすがに辛辣すぎるセイラの評価に、ライナはちょっと笑ってしまいそうになったのを堪えた。要は、絵に描いたような嫌な貴族ということらしい。
「ヘンツェル家の現当主ゲルリト・ヘンツェル伯爵はうちの父とは何かと確執があったらしい。と、いっても父はあまり気にしていなかった。何があったか少し聞いたことはあったが、私からしてもそこまで尾を引くような話ではなかったと思う。
だが、奴にとってはそうでもなかったのかもしれないな。……あぁ、そうだ、ライナを引き取るときにも一悶着あったか」
「あぁ、僕の身をフィルグラント家で保護することに横槍をいれてきた貴族の一人だったのか」
最初に裏界人の魂を呼ぶことに成功したという情報を掴んだのはフィルグラント家だった。だからこそ、セイラは国から許可を得て自領の騎兵隊を他領まで駆りだして、ライナの身を保護することに成功した。
その功績からフィルグラント家がライナの身を預かるという主張は最終的には通ったが、何人かの貴族や官僚からの反対があったそうだ。そのうちの一人がヘンツェルだったという話しだ。
「奴が一番最後まで食い下がっていたな……。けれど、私は君を守ると誓っていたから。君を保護したときに、君のことを絶対に守ると私は私に誓ったんだ。だから私は決して譲らなかった。……いや、でも、あれが原因の一つなのか……? あれは確実に奴らの反感を買った。私が無理を通したせいで――」
「セイラ!」
大きな声で名を呼んで彼女の言葉を遮り、足を止める。
「僕は君に本当に感謝しているんだ。君に名を貰ったからこそ、僕はこの地に立つことができた。君が一緒にいてくれたからこそ、今の僕はここに居る」
「だが――」
「僕は君に『ライナ』という名を貰ったことで、ひとりの人になれた。君はその場限りぐらいの気持ちでこの名をつけたそうだけど、この名のおかげで僕は『誰か』になれたんだ。
君のおかげで、僕は異界から迷い込んでしまった名も無き異物ではなく、この世界に生きて立つひとりの人になれた。
今、僕が僕としてここに立てているのは、すべて君が僕に名をくれ、そして一緒にいてくれたから。……だから、後悔して欲しくない。
これは僕の完全なエゴかもしれない。それでも、君には絶対にそのことを後悔して欲しくない」
少しの間が空いた。風で木の葉が擦れる音がした。
「……あぁ、そうか。そうだな、すまなかった。私はそのことを後悔しない。私は今の君を決して否定しない。……そうだ、私は君を守らなくてはいけない。そう誓ったんだ」
客観的にみると、もし本当に僕が今の僕になるために起きた一連の流れが起因してクーデターが起きたのだとすると、とんでもないエゴかもしれない。国家の危機と、一人の何の権力も持たない非力な人間を天秤にかけているようなものなのだから。
それでも、自分が今を生きている意味を失いたくはなかった。
……そしてそれは、どうやらセイラにとっても生きる意味を一つ思い出させたらしい。彼女の瞳に少し光が戻ったような気がした。
「ところで今、とりあえず街の情報をもっと得るために外側のこの林を進んでいるわけだけれど……具体的にどこか行き先の当てはある?」
「あ、そうだ。一つだけある。あそこなら何かあるやもしれない。……秘密基地だ」
「え?」
少しの間を置いてライナは思い出した。彼女が子供の頃、屋敷を抜け出して作っていたという、秘密基地という名の子供向けサイズの掘っ立て小屋の話を。彼女は度々屋敷を抜け出しては、そこを隠れ家のように使っていたらしい。
その話を聞いたとき、思わず「小学生男子か!」とツッコミをいれてしまった。そして「ショウガクセイってなんだ?」と聞かれ、思い出せた限りのあちらの学校制度を話す羽目になった。……その時は卒業以降の進路すら思い出せなかったが。
「覚えてないけど、何か役立つ道具とか、保存食とか隠してたような気がしなくもない。うーん、どうだったか……」
「とりあえず、この林をこのまま進めば辿り着けるの?」
「あぁ、位置もはっきりわかる」
「よし、どうせ他に当てもないのなら、とりあえず行ってみようか」