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1-2 名前

 ――「彼」がこの地に喚ばれてから二ヶ月ほど過ぎたある雨の日だった。

 ドクトルが報告を受けたときには既に雨音に紛れて無数の馬の(ひづめ)蹄が地を蹴る音が、忘れられた古城を完全に包囲していた。

「王国兵だと⁉ 儂の結界を全て気づかれずに破ったというのか‼」

 ドクトルは机をドンと拳で叩き、声を荒げる。(はた)から見ても何のものかも分からない資料がバサリと床に落ちる。

「既に完全に包囲されています! どうやら潜行の技法か何かに加え、雨音に紛れたことで察知が遅れたものかと……」

「ええい、そんなことはどうでもいい。今これからどうするかということだ。撃退はできそうか?」

「恐れながら……敵は騎兵が数十騎に合わせて歩兵も最低でも百以上。しかも、率いているのはどうやら閃光(せんこう)()かと……」

「くそ、あのお転婆(てんば)か‼ 脱出路は確保できるのか⁉」

「現在確認させておりますが、そのうちいくつかは既に抑えられているようで……」

「あのくそアマが‼」

 ドクトルは口汚く敵将を(ののし)り、思わず蹴った机からさらに資料がバサバサと、とっ散らかった床にさらに落ちて重なる。そこで彼は最も忘れてはならない事にハッと気づいた。

「奴は、あの男は無事なのか⁉」

「恐れながら……トラップを発動させて足止めはしているものの、既に正面を突破されており、こちらからあちらの部屋までの経路はほぼ寸断されています」

 ゴキッ

 そんな鈍い音がした。思わず石壁を殴りつけた老顔の男は、拳の骨が折れた痛みにさえ気づかず、吠えた。

「またか! またか‼ またあの一族は儂から奪うのか‼」

 彼は少し息を乱したが、そう時間をかけずに平静を取り戻す。

「……取り乱した」

「で、俺は何をすればいいんスか?」

 最初からずっと側にいながら(だんま)りだった男は訊ねた。彼らの組織の外部からの雇われながら、あの儀式の時より今の今まで、ずっとドクトルから直接の指示を受けて働き続けている、どこか食えない男。

「既に十分な料金は頂いているんで。なんなら俺一人で彼を救出に行ってもいいッスよ」

 その魅力的な提案にドクトルは咄嗟(とっさ)に心を揺らしたが、すぐに己の中で冷静に否定した。

「いや、いくらお前でもあやつらの合間を縫って、一人ならともかく一般人以下しか動けぬあの男を連れ出すのは厳しいだろう。そもそも連れ出して行く先がお前には分からんだろう」

「……確かにそうっスね」

 男はそう言って両手を広げ肩を(すく)める。この古城の構造上、ドクトルの居室でもある研究室と「彼」の部屋は反対の、両端の塔の上部にある。そちらの塔に向かうには正面エントランスを経由する必要があるが、そこは既に王国兵に抑えられている。

 ドクトルの言う通り、この男一人なら上手く敵を()(くぐ)り、「彼」の部屋までは辿り着けるだろう。だが、そこからどうする? 「彼」は未だに召喚の副作用なのか心身が弱っている上に、混乱し、錯乱状態に陥ることがしばしばある。そんな「彼」を連れて逃げることは、いくら高い身体能力も持ち合わせたこの優秀な学士にしても、現実的に考えて厳しい。

 そしてこの古城には隠匿された複数の脱出路が存在するが、新参である雇われのこの男はそのうちの一部しか把握していない。

「……いくつかの班に別れて脱出する。お前は儂の護衛をしろ」

「うい、了解ッス」

「……儂は……儂は諦めんぞ。生きている限りいつまでも、だ」

 ドクトルはそう小さく呟いて、脱出路へ向かった。

 結果をいえば、最終的にドクトルのグループとその他幹部らのグループのうちの僅かだけが包囲網から逃れられたものの、大多数は捕縛され、「彼」は古城にひとり残された。




「君が……異界から召喚された者か?」

 騎士セイラ・フィルグラントは男にそう訊ねた。

 彼女は綿密な調査から周到な作戦を立て、作戦開始からほぼ最短でこの忘れられた古城を攻略した。生憎(あいにく)まだ首領の姿は捉えていないが、既に城内のほとんどは制圧できている。

 そして彼女は一人で、おそらく今回の作戦の最優先事項と思われる男のもとに辿り着いた。

 見てくれはなんの変哲もない普通の男。やや痩せた体躯(たいく)、漆黒と呼ぶまでには至らない、そう珍しくもない濃さの黒髪。だが、焦点の合わない黒い瞳だけが、ただただ虚ろで異様だった。

 男がいた部屋は、こんな古びた城の中にしてはそれなりに快適そうに整えられていた。それはこの男がただの構成員や虜囚(りょしゅう)などではなく、重要人物であることを示している。それにこれだけの騒ぎだというのに、この男は逃げることも何をすることもなく、ただ虚ろな表情で(うつむ)き気味に木の椅子の背に凭れ、ただ其所(そこ)に居た。

 ――おそらく、きっとこの男が「彼」だ。

「言葉は分かるか?」

 セイラの問いかけに対し、数拍置いてから彼はぼそりと答えた。

「少シなラ」

 発音は少し不自然だったが、十分に聞き取れた。おそらくこの男はここで言葉の教育を受けていたのだろう。

「なら、改めて、聞こう。君は、異界から、喚ばれた、男、か?」

 どれくらい言葉が通じるかが分からなかった。だから、彼女はできるだけ分かりやすく、ゆきすぎな程に()を取ってゆっくりと、再び問い掛けた。

(これで通じてくれるとよいのだが……)

「……そうラしイ」

 ――通じた……!

 まずは通じたことを喜んだ。だが、「らしい」とはどういうことか。

「らしい とは?」

 すぐには答えない彼だったが、言葉は一応通じてはいるようなので、逸(はや)る気を抑え彼女はじっと答えを待つ。

「ワカらなイ」

 ――?

「ぼく? ハいったい、だれナのだろウ」

 ――あぁ、そういうことか。

 彼は「裏界」と呼ばれる摂理の異なる世界から魂だけを喚ばれ、こちらの人間の肉体を与えられたらしい。だが、召喚された魂を肉体という器に入れることに成功していたとしても、その魂が正しく定着するとは限らない。もし定着に成功したとしても、記憶が上手く引き継がれず、そのまま廃人状態となった例も過去にあったと文献で見掛けたことがあった。

(奴らが時間を掛けて言葉を教えていたぐらいだから、ある程度は期待が望めるのだろうが……)

「だれナの、ぼくハわかラなイ、わかラなイ……‼」

 それは決して大きな声ではなかったが、まるで魂からの叫びのようだった。そう彼女の心には響いた。気づけば彼女の身体は自然に動いていた。

「今は落ち着いて。君がいったい誰でも、何者でも、君は此所(ここ)に居ていいんだ」

 そう言って項垂(うなだ)れた彼の頭を抱きしめた。

 自分でも何故こんな行動を取ったかは分からなかった。ただ、本能的にこうすべきだと思った。そんな気がした。

 少し待ってどうやら彼の気が落ち着いたところで、片膝を折り目線を下げ、椅子に座って項垂れたままの彼の両頬にそっと両手を添え、真っ直ぐに目を合わせた。

「私は王国の騎士、セイラ、だ。君を、保護しに、来た」

 彼がすべてを理解できるかは分からないが、ゆっくりと彼の目を見て言葉を続ける。

「君を喚んだ人は、とても危険な人物、だった。だから、私たちが、君を、守りに、来た」

 ここまで話して一旦彼の反応を待った。少し間をおいて彼は小さく頷いた。……目を見ているとよく分かる。彼は一応は状況の理解ができているようだった。

「私はこれから、君を、保護して、連れて行く。それで、いいかい?」

 本当のところ、彼に選択権なんてなかった。彼がどう答えようと、セイラは強制的に彼を保護して連れていかねばならない。それが今、騎士セイラ・フィルグラントに課せられている使命だったからだ。

 幾拍かの間を置いて彼はコクリと頷き、セイラは安堵してようやく彼の両頬に添えた手を離し、立ち上がった。

「さあ、行こうか」

 そう言って彼女は彼に(いざな)いの手を伸ばした。これから彼を激動の運命()へ導くこととなる手を。

 彼はまた少しの間を置いて、彼女の手を取り立ち上がる。背丈はセイラより少しばかり高い程度だった。彼女の背丈は成人女性の平均より少し高い程度だったので、彼の背丈は成人男性のほぼ平均か、やや下回るぐらいとなる。

 あの組織の行った裏界召喚の手法から、この見たところ平均的な体格の「体」の本来の持ち主は、既に人格と記憶を徹底的に破壊されたあとということになる。その器に、今の「彼」が居る。

 ――ん? これは少し不便だ。

「君、名前は、ないのかい」

 この言葉はすぐに通じたようで、彼はビクッと反応してから「ない、わからない、しらない」と、そんな風な返事をした。

(うーん、何か呼び名がないと不便だな)

 両腕を組んで考え込もうとしたとき。そこで何気なく、本当に何の気もなく視線を()らすと、何にも塞がれていない石窓の外に未だポツポツと降り続けている雨が目に止まった。城内への突撃時よりは弱くなっているが、空には遠くまでまだまだ薄暗い雲が続いており、当面は止みそうにない。そもそも、そういう天候のときを狙って襲撃をかけた。

(そうだ。確か……)

「……ライナ」

 彼はなんのことだろうという目で彼女を見つめる。

「君の名は、今から、『ライナ』、だ」

 組んだ腕を(ほど)いて彼を指差し、ほんの少しばかり得意気な顔で彼女はそう言った。

 ――彼女はただ呼び名がないと不便だからというだけで、その場限り、王都への帰還ぐらいまでのとりあえずのつもりで彼に「名」を与えた。ただの一時的な呼称のはずだった。

 だが間違いなく、この時彼はこの世界での新しい(せい)を得た。


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