1-1 全て失いし者
――まず、音が聞こえた。人の声だった。
最初の記憶は、たくさんの人の声に囲まれ始まった。何を言っているのかは分からなかったが、大勢の人間が声高に喚いていた。それは歓声だったのか、それとも怒号だったのか。その時点では判別がつかなかった。
とりあえず、両目を見開いた。暗い、昏い場所だった。薄暗い空間の中、視線の先にまず突き当たったのは見るに冷たい石の天井。そして視界の端には灯りが見えた。複数の光源に囲まれていた。
ともかく状況を知りたくて、把握したくて起き上がろうとした。――が、身体が動かない。
感覚的におそらく拘束されているというわけではなく、そもそも身体に力がまるで入らなかった。頭が動けと命令をしているのに、手も足も、身体がそれに応えてくれない。呼吸はできているが、意図的な調整が上手くできない。瞼は開くことができたが、眼球の動きはやや鈍い。
なんとか身体を動かしてみせようと、頭の中で不毛な足掻き藻掻きを続けていると、カツカツと数歩、誰かが近づく足音が聞こえた。そう間を置かずして、ひとりの男の顔がぬっと視界に入り込んだ。老人と呼んでいいのかは分からなかったが、老け込んだ顔の男だった。男は何か硬そうな、細長い棒のような物を手に持ち、その先端を顔の、眉間のすぐ上の額に翳した。
思わず目を瞑ったが、その先端は予想外に優しくそっと額に触れ、それと同時に身体中を何か優しく温かいものが駆け巡った気がした。
――身体が、動く。
今までの無力感はどこへいったのか、身体中の筋肉という筋肉が動かせるのが、実際に動かさずとも分かった。試しに片手を上げ、自身の眼前に持ってくる。
――あれ、こんな手をしていただろうか。
何か違和感を覚えながらも、その片手を握り開きして問題なく動かせることを確認する。
それから全身に力を込め、頭を少しずつもたげながら、冷たい石の床に肘をつき手のひらをつき、なんとか上半身を起こして周囲を軽く見渡した。――訳が分からなかった。
なにか見慣れない格好をした人間がたくさんいた。皆ほぼ一律に似たような暗い色のローブを纏っていたが、立っている者、座り込んでいる者、そして倒れ込んでいる者と様子はばらばらだった。顔だけをざっと見たところ、若者から老人まで年代は様々、男も女もいるようだった。まさに老若男女といった様相だった。
カツン、カツン
上半身と首を捻り、音のする方を向いた。先程の老け顔の男が、つい今しがた額に触れた木製らしき杖で硬い石の床を突いた音だった。
男は真っ直ぐこちらの目を視て、杖を持っていないもう片方の手を差し出してきた。――この手を取ればよいのだろうか。とりあえず、僕は歓迎されているらしい。
――ん?
先程自分の手のひらを見たときより酷い違和感が脳裏をざわつかせる。
――「僕」?
男に対して差し出そうとした自分の手が無意識に止まる。
――「僕」はいったい……誰なんだ?
その場での記憶はそこで途切れている。何か大声で叫んだような気もするが、それ以上はうまく思い出せなかった。
「……ドクトル、あれは本当に成功したのですか?」
石造りの塔の薄暗い螺旋階段を登りながら、暗い草色のローブを着た男は自身の主に問う。
「裏界召魂の儀そのものは成功している」
老け顔の男は振り返らず、カツカツと硬い靴底で音を立てて冷たい石の段を登りながら、背中越しに答えた。
「ですが……あれは本当に裏界からの魂なのでしょうか」
「それは間違いない」
主は部下の疑心を一蹴する。
「あちらの人間とこちらの人間の魂はその作りに決定的な違いがある。あの男の中には確かに裏界の魂が入っている。それは儂が保証する」
「ですがドクトル、あの様子では……」
「だが、召喚には成功した」
ドクトルはドンと螺旋階段の終わりにある部屋のドアを乱暴に開けた。中には様々な研究資料や作りかけの道具の部品などが、乱雑に散乱している。
「この為にどれだけの時間を労したか。どれだけの私財を投げ売ったか。どれだけの犠牲を払ったか」
犠牲などという物騒な単語を語りながらも、彼の目はぎらぎらと輝いていた。彼はドカッと椅子に深く腰掛ける。部屋の中央より少し奥にある、大きな書斎机の更に向うにある背凭れの付いた大きな椅子。ここがこの部屋での彼の定位置だった。
「召喚って、そんなにすごいものなんスか」
今まで黙って荷物持ちをしていた三人目の男が、いささか無作法に己の主に質問を投げかけた。先の緑ローブの男が横目にキッと男を睨みつける。彼がそのまま叱責しようとするのを遮り、彼らの主は答えた。
「お前は確かに雇われの学士だったな?」
「えぇ、まぁ」
「……雇われ学士は元よりそのほとんどを使い捨てのつもりで集めた。そして案の定、ほぼ全員が儀式に耐えきれず、心神喪失となった。――お前以外は、だ」
「……みたいっスね」
「お前はあの中で確かに最後まで立ち続けていた。そして自我を保ち続けていた」
「まぁ、しぶとさだけが取り柄なんで」
「だからこそ、わざわざお前をここに連れてきた。――どうだ? 我らの同士とならぬか?」
うーん、と首を傾げる男をもう一人のローブの男が気に食わなさそうに横目で睨む。ドクトルはさらに「雇い主」らしく畳み掛けた。
「なら、契約を継続する気はないか? 相応の報酬は出そう」
それを聞くと、男は迷いなく提案を受け入れ、ドクトルは満足そうに口角を上げた。そして未だ不満げな顔をしている部下の男に命じた。
「奴は今はまだ錯乱しているかもしれぬが、なんとしてもその記憶を引き出せ。慎重に、絶対にあの男の精神を損なわないように、だ」