2-7 束の間の休息
「あぁ、屋根がある、ベッドがある……!」
バフッ
子供のようにベッドに大の字で飛び込んだセイラを見て、ライナの頬が緩む。
人目を避けて山野を歩き、リーツェ家を発ってから三日後にようやくガルド領の辺境の町に辿り着いた。
安全の保証は何もなかったが、もうそろそろ疲労も限界だったこともあり、二人は一度町に降りることにした。
とはいえ何も対策をしなかったわけではない。
セイラはなんと、あの長くて美しかった金髪をばっさりと切った。あまりにもったいないとも思ったが仕様がない。本人は動きやすくなったと言って割とケロッとしていたが。
それと顔には火傷か何かを隠してる体を装って少しばかり包帯を巻いた。これはこれで人の目を引くかもしれないが、彼女の面は軍関係に割れ過ぎているので、まだマシだと判断した。
ライナは古典的だが付け髭をした。唇の上と、顎に。セイラにむちゃくちゃ笑われた。
変装道具についてはアリアンの用意してくれた荷物の中に色々と紛れ込んでいた。どこまでも感謝するしかなかった。……だが、なんで付け髭なんて用意できたのだろうか。唐突なことだった上に、見張られていて怪しい行動はとれなかったろうに。
降りた町は南側からガルド領に入ってもう少し進んだところにある宿場町で、それなりに人の賑わいはあるが、治安はあまり良くないようにも見えた。行き交う人々の出で立ちはとても雑多でなかには柄の悪そうな者も少なくなく、先の戦争の傷跡なのか古傷のある人間もちらほら見かける。ライナは今までフィルグラント領のような平和な街で暮らしていたものだから、余計にそれらが目に止まった。
けれど、そのおかげで深くフードを被った少し怪しげな風貌をしていてもそこまで悪目立ちしない。
そして実際のところ治安もそう悪くない。領境の関所で厳しい取締りがあるため、本当に問題のある人間はそもそもガルド領内に入ることが難しい。もっとも、今回はセイラがライナを抱きかかえて、ステップアーツによって普通は人の通れない地形を跳び越えて越境したわけだが。
そうやってガルド領に侵入し、この宿場町に紛れ込んだ二人は真っ先に手配書の有無を確認した。さすがにこれだけの日数が経っていれば、通常の連絡手段であろうと国王崩御の報せも二人の手配書も届いているはずだが、この町では崩御の報せしか見つけられなかった。
とはいえ、リーツェ領ではあえて手配書を張り出さずに安全だと思わせて罠にしていたから油断はできない。少し町中をうろうろして聞き耳を立てていたところ、国王暗殺の疑いで追われている人間がいるとの噂は聞こえた。けれど、関所での取締りは普段より厳しくなっているようだが、領内での取締りの動きは特になさそうだった。実際に一通り町中をうろついてみても、特にそんな様子はなかった。
そこで二人はそろそろ疲労が限界だったこともあり、あまり目立たない質素な宿に泊まることにした。
「ねぇー……」
ライナがとりあえず横になるより先に鞄を下ろして中身の整理、確認を始めると、約10日ぶりのベッドに燥いでいたはずのセイラがなにやら情けない声を発した。
「ん、どうしたの」
「……このベッド、思ったより硬かった。痛い」
そう言って彼女は横向けた顔の鼻をさする。
「子供か!」
「だってー……やっとふかふかのベッドで休めると思ったら……」
路銀の節約や今後の相談、安全面のこともあったので、宿では二人で一室にしてもらった。
セイラのほうがどう思っているのかは分からないが、見掛けだけなら宮中でも見劣りしないほどの美女と相部屋だというのに、ライナはまるっきり緊張しなかった。――なんでなんだろう、もう姉か妹みたいに思っちゃっているのだろうか。本当に見てくれだけは美女なのに。象徴とも言えた美しいロングヘアをばっさり切ってショートにしても、見てくれだけはやはり美女だというのに。
「で、明日はどうする?」
「とりあえず寝るぅ……」
セイラは完全に子供モードになっていた。ライナは色々と諦めて肩を竦めた。
でも、ここしばらくは引き締まった険しい武人の顔のほうが多かったので、なんだか心地よく、安心した。言うなら、懐かしい気さえした。
「……じゃ、朝は起こす? ほっとく?」
「適当にお願い―……」
そう言って、着替えもせずにあっという間に彼女は寝入ってしまった。本当に寝ているか確認するために頬でも指で突いてやろうかとも思ったがやめておいた。……やっと緊張の糸が切れたのだろう。王都を脱出してから約10日。その間気の休まる時間など、ほぼないに等しかったのだから。
「せめて、今ぐらいは……」
薄いペラペラのブランケットをセイラに掛けてから、ライナもベッドに横になって灯りを消した。ベッドは確かにフィルグラントの屋敷のものよりは随分と硬かったが、一般的な庶民の水準はこんなものなのだろう。むしろこの程度の町の安宿にしては質が良いほうじゃないだろうか。少なくとも、最早記憶も朧気なあの古城の一室のベッドよりは心地よい気がする。
そんなどうでもいいことを考えているうちに、ライナの意識はスーッと闇の中に落ちていった。
「もっとさー、裏工作とかそっち系のことも勉強しておけばよかったぁ……」
「いや、無理でしょ。君、ただでさえ目立つし、エリートだし、あと派手に強いし」
「わーかってるよー……」
翌朝から二人してとりあえず情報収集を試みた。国王暗殺についての噂は有力貴族の一家が手引きしたらしいという話は耳に入ったが、それがどこの家かまでははっきりしていなかった。フィルグラントの名が耳に飛び込んできたときは少しばかり冷や汗をかいたが、単に王に近しい有力貴族のうちの一つとして名が挙がっていただけだった。
ガルド領の南端にあるこの町の人流は、北からの流れ、つまり同じガルド領内からの流れのほうが多い。だというのにこの程度の情報しか流れてきていないということは、ガルド領内では二人の手配書は出回っていない可能性が高い。それはあえてガルド領主が中央からの手配書の張り出しの要請を止めているということなのだろうが、その意図は不明だ。
だが、二人を取り逃がしたリーツェ領などでは既に公に取締りが始まっているだろうし、この宿場町に明確な指名手配の情報が広がるのも時間の問題だろう。やはりのんびり滞在している猶予はない。
だからすぐに発つ準備をしようとしたものの、それが思うように進まなかった。
まずセイラは馬を借りるか買えるかしないか当たってまわったが、空振りで終わった。時期が悪かったのか、少なくとも表のルートで確保できる馬はいなかった。
きっとまったく手段がないわけではないのだろうが、セイラが愚痴っているように二人共情報収集や表だっていない取引への接触のスキルなんて皆無に等しい。
簡単な旅の荷物の準備こそはできたものの、午後になってから案の定二人の明確な手配の噂が何件も耳に入ってきたため、そこからはほとんど身動きがとれなくなった。
手配書が張り出されることは相変わらずなかったが、やはりリーツェや南の隣領の方向から情報が届き始めているのだろう。
そして別の宿でまた一室とって、現在に至る。明日にはここを発つ予定にしたが、やはり行き先の明確な当てはない。
「ガルド侯がなんで取締りをしていないかの真意が読めないことにはなぁ……」
セイラはベッドにうつ伏せに寝そべり足を子供みたいにぱたぱたさせながら、ぶつぶつと独り言を垂れ流していた。
本当に策がなかった。ガルド候の意図はさっぱり読めないし、領軍の動きの情報なども得られなかったため、このままレグラントへ越境できる道筋も立てられない。
無策で国境越えができるなんて到底思えない。でも、ぐずぐずしていれば包囲網に捕まる。手配書の噂は着実に広がってゆくだろうし、公の取締りもいつ始まるかわからない。
「明日の朝はどこかで最後に朝食を済ませてからこの町を出ようか」
「うんー……そーするー……」
宿に入ったときはまだ怪しまれていなかった。時々こっそりと様子を伺ったが、その後も不穏な動きはなかった。ここの宿の主人はぶっきらぼうで客のことに無関心そうだったのも助かった。少し小汚い上に裏通り側にあるので、訳ありな客が来ることも少なくないのかもしれない。
念の為すぐに宿を飛び出せるように準備はしておいて、ドアにも小細工をしてから布団に入った。昨日の宿より質は落ちるが、それでもやはりあの古城のベッドよりはマシか、同等ぐらいな気がした。
結局その晩は何事もなく、朝を迎えることができた。
この先、次にまともな食事が摂れるのがいつになるのか分からないから、最後にちゃんとした食事を済ませてから町を出よう。――なんて、抜けたことを考えていたライナは、後に猛省する羽目となる。
あれだけ敵が未知数で狡猾で恐ろしいと自分で言っていたというのに、間抜けにもほどがあった。