2-5 罠を抜けて
「……イナ……きろ……」
誰かの声がする。とても安心する声だ。
ここは何処だろう。今はいつだろう。そして自分は――。
「起きろライナ!」
ベシッ
頬をはたかれたのが分かった。
「ん……セイラか………。――ッ! どれくらい経った!?」
ライナは一瞬で目が覚めた。自分で思っていたよりも心身が疲れ切っていたらしい。ただ壁に凭れかかっていただけだというのに、ぐっすりと眠りに落ちてしまっていた。
「よし、起きたか。じゃあいくぞ」
「……駄目だったか」
「かなり分が悪い。最悪すでに囲まれている」
やはり敵は狡猾だったようだ。街中に手配書がなかったのは、誘い込むための罠だったのだろう。
「詳しい話は後だ、これを持って付いて来て」
そう言って彼女は何かを投げて寄越した。少し大きな革鞄だった。上手く受け止めたはいいものの、思ったより重みがあって少し体勢を崩しかける。とはいえ、元々アリアンに用意されていた鞄よりは一回り小さく、馬に乗せるのではなく人が背中に背負うタイプのものだ。
「これは?」
「話はあとで。じゃあドア開けるぞ。たぶんまだ大丈夫だろうけど、静かに、細心の注意を払って」
ライナはこくりと頷いた。
セイラはほんの少し、自分が通れるぎりぎりの幅までそっとドアを開けて廊下に出て、ライナもそれに続く。
付近に灯りはなく、前を行くセイラの輪郭すらほとんど見えない暗闇の中、壁伝いにゆっくりと音を殺して進む。
「ここだ、入るぞ」
セイラがひとつの小さな扉をみつけ、そっと開けて中に入り、ライナも後に続いた。
扉の向こうは本当に真っ暗で何も見えない部屋だったが、セイラが床に置いたランタンの灯りをつけ、漏れ出した光が部屋の中をほんのり照らす。ランタンは黒布を被せぎりぎりまで光量を絞っていたが、それでもこの部屋がまた物置部屋であることがわかる程度には明るくなった。
先程と似たような部屋で少しばかりの家具はあるが、どれも分厚い埃のカーペットを被っている。先程の部屋よりずっと放置されていて、もう何年も手がつけられていないのかもしれない。
セイラはいくつか並んでいた大きな木箱のうちの一つに上り、天井を軽く叩き出した。
コンコン、コンコン
手の甲を向け、指の根元の関節で軽く、数度天井を叩く。それを何度か繰り返した。
「……よし、あった」
次は何かを探すように手探りしているかと思えば、ガタッと音がして、彼女は木造の天井の一部を引き剥がした。酷く埃が舞ってライナは思わず咳き込む。
「静かに!」
「ごふ……え、何やってんの……けほ」」
「いいから。ちょっとこれその辺に置いて。静かに」
そう言って天井の一部だった木の板を上から手渡された。その一面には埃がこびり付いているかのように溜まっていて、また咽せそうになるのをなんとか堪えた。これ以上埃が舞うのも勘弁願いたかったので、慎重に、そっと壁に立て掛ける。
「いける。付いて来て」
セイラの頭上からまた、ガタッという音がして、彼女は天井の上へと登っていった。ライナは埃にまたもや咽せそうになりながらも、木箱を踏み台にしてそれに続く。
天井を抜けた先にはさらに小さな部屋があったが、ここは物置部屋ですらないらしく、ほとんど物がなかった。一応木箱が一つあったが壊れて割れていて、中には何も入っていないようだ。
「ここ、なに?」
「私も知らない。昔一度来たときに教えてもらったが、アリアンも何なのか知らなかった。この屋敷は元々リーツェ家の物じゃなくてね」
そうだ、アリアン……! 彼女は――。
「状況を軽くだけ説明しておこう。アリアンの説明はその半分以上が嘘だ。真逆のことを言っていた。私にだけわかる合図を混ぜて。
……暗号、という程のものではないのだが、昔ちょっとした遊びのつもりで取り決めたことがあったんだ。とても単純なものなんだが、瞬きを二回してから喋ることは、一文だけ真逆のことを言うってね」
「えーと……、それでどういうことだったの?」
「叛逆派から直接接触があった、二、三日もここに留まってはいけない、さっき彼女が示したガルド領を通る道筋も使えない、アテナはもう見つかっている。……実際のところ、一日すら留まる余裕はなさそうだけどね」
「……かなりまずくないか」
「あぁ、まずい。だが脱出する手段は用意してくれた。まずその鞄は彼女の指差した方向にあった。彼女は本当はあの大きな鞄よりさらに奥のベッドの下を指差していたんだ。そこにあったその鞄に、デカイ鞄の中身を必要な分だけ詰め替えた」
さっき受け取ってそのまま背負っていた鞄を彼女は指差した。確かにこれのほうが容量は小さくとも身軽に動ける。あの大きさの鞄を馬に乗せては、二人乗りで走らせることはできない。
そしてそんなダミーの鞄を用意していたということは、きっともう……。
「で……あった。ここだ、板で塞いだだけの窓がある。さっきちょっとした思い出話のように話していた部屋がここだ。わざわざ話題に持ち出したからそうだと思ったが、やはり脱出路に使えるということだったみたいだ」
ガタッ
セイラが小さな窓を塞いでいた板を取り外し、僅かな星月の明かりが差し込む。
「さて、ここは二階だ。ここから厩舎まで跳ぶ。直接はちょっと無理だが、たぶん数歩で済むはずだ」
そう言って彼女はライナに向かって両腕を広げる。どうやら彼女はまた、ライナを王子様がお姫様にするように抱きかかえて運ぶつもりらしい。
ライナが観念して素直に身を預けると、彼女は間を待つことなく抱え上げて窓から飛び出し、庭にある大きな樹の枝にふわりと着地した。そう思った次の瞬間には彼女は枝を蹴り、さらに空中へと勢いよく飛び出す。
「おい、今何か――」
下から誰か男の声がした。途中でもう一本、樹の枝を伝って、空を跳躍する。
「何かいるぞ、上だ!」
また別の男の声がした。すぐに脱出することにしたセイラの判断は正しかったようだ。やはり既に囲まれているらしい。アリアンもそれが分かっていたからこそ、わざわざ二階から飛び出す脱出路を教えてくれたのだろう。
セイラは次は一度地に足を着いてから再び跳躍し、館の表側の、敷地の角にある厩舎の前に着地した。
「アテナは?」
そこには見覚えのない馬が二頭ほど並んでいるだけで、彼女の愛馬アテナの姿はない。そうだ、確かアテナは裏手の厩舎に……。
「言ったろ? アテナはもう見つかっている、と。……そして表に立派な馬がいるとも話していた。うん、こっちかな」
先程のセイラの説明通りだと、アリアンの言っていた「……あそこなら人目につかないし」というのは事実と真逆の嘘であり、アテナはもう見つかっているとのことだった。……つまり、「敵」に見つかって抑えられているということなのだろう。
「よし、やはりこの子だ」
セイラは厩舎にいた馬の一頭を繋いでいた縄を外し、ひょいと背中に乗って手綱を握る。
「さぁ、早く!」
彼女に引き上げられ、ライナも後ろに乗る。まだ走り出してもいないというのに、数時間前まで共にしていたアテナとは随分と乗り心地が違う気がした。
「道を開く!」
セイラがいつの間にか手にしていた短い馬鞭を前方に振り上げると、まるで鞭の長さが延長されるかのように紫電の光が先端から伸びて、うねり、振り下ろされて老朽化の進んでいた石垣を破壊した。ガラガラと誤魔化しきれない大きな音が響いた。
「はいやぁ!」
竦む馬の尻を雷の消えた馬鞭で叩き、石垣を崩して切り開いた新たな道へと駆け出す。石垣から外に飛び出るとすぐさま両脇から兵士が現れたが、再び馬鞭の先から伸びた紫電の鞭に打たれ、地に伏せた。
「何それ!?」
「それはあとで! まだ終わりじゃない、しっかり掴まっておいてくれ!」
そのままセイラはうねる蛇のように宙を踊る紫電の鞭を馬上から振り回しながら、わらわらと集まってくる兵士を蹴散らしながら駆け抜けた。
年末年始が忙しく、更新が遅れてしまいました。
何事もなければ次話は土曜に更新予定です。