<4・Repeat>
ドナ自身にも、何が起きているのかさっぱりわからなかった。
鏡の中にある、明らかに若返った自分の姿。
十七歳の誕生日おめでとう、という盛大な誕生パーティの光景。全ては、確かに見覚えのあるものばかりであったからである。
――私、何か夢でも見ているの?
「あら、どうしたのドナ。まるで夢でも見ているみたいな、おかしな顔しちゃって!」
姉がにこにこと笑いながら近寄ってくる。十七歳の誕生日は、今までと違うイベントがいくつもあったからよく覚えている。確か、彼女はこの時あたりから緑色のドレスを好むようになったはず。今日も緑色の、肩がふっくらと膨らんだデザインのドレスを着ていた。そして、胸元には薔薇のブローチ。これも覚えがある。元々は母のものだ。幼い頃、あまりに綺麗なので“自分に頂戴”と母に何度もごねて叱られたものであったはずだ。最終的にはこの赤い薔薇のブローチが十五歳になると同時に姉に譲られ、自分は代わりに白百合のブローチを貰うことでまるく収まったと記憶している。
そのブローチをつけるようになったのが、丁度この頃だったはず。そして、ブローチは彼女が二十歳になる少し前に留め金が壊れてしまって、それ以降は身に着けることがなくなったのではなかっただろうか。
つまり。
破損していないブローチをつけている、この姉は。
というか、姉も自分と同じように年を取った筈だというのに、顔に皺一つない若い姿である時点で――。
「い、いえ……」
ドナは慌てて、笑顔を取り繕った。パーティ会場で他に、ドナのおかしな様子に気づいた人間はいない。
「そ、その」
ちらり、と視線を投げた先には巨大な誕生日ケーキ。野苺を大量に乗せた、それはそれは豪華なピンクのケーキは、姉の発案によるものだったと後で知った。よくよく思えば結婚式のはっちゃけぶりの片鱗は既にこの時点であったというわけである。
「こ、こんな大きなケーキ作って貰えるだなんて、わたくし思っていませんでしたから。お姉様、大胆なところもおありなんだと思って」
「ふふふ、私も結構それ言われるのよ。何でかしらね、結構フリーダムに生きてるつもりなのに。上品なお姫様みたいに誤解されるみたいで!でも、素の私はこんなかんじよ?派手だろうとちょっとルールを逸脱していようと、楽しいものをぱーっと盛り上げるのが大好きなの!」
「そ、そうなんですね」
それはよーく知っています、とは心の中だけで。
――そういえば、十七歳の誕生日って、セシルはどうしていたんだっけ。この日の誕生日ケーキが巨大だったことと、姉さんのブローチについてはおおよそ記憶していたんだけど……さすがに前のことすぎて、何もかも覚えてるわけじゃないな……。
自分の記憶違いでないなら、セシルが自分の誕生日に来てくれなかった日は殆どなかったはずである。彼はどんなに勉強が忙しくても仕事が大変でも、自分の誕生日パーティへの出席を欠かせることはなかった。休んだのは確か、十九歳の誕生日の時突然熱を出して倒れた一度くらいなものではなかっただろうか。本人は行きたがっていたのを、家族が死ぬ気で止めたというエピソードがあったはずである。
まあ、この世界が本当に十七歳の時のものであるのなら。その未来が同じようにやってくる、という保証は何処にもないわけなのだが。
――もし、本当にこれが私の都合の良い夢ではないのなら。
ぎゅっと、手元のワイングラスを握りしめる。
――セシルが、生きている。……生きた彼にもう一度会えるはず、だ。
あの日。
射殺されて、冷たくなっている彼を見つけたという悲報を聞いたあの日から。
そして、司法解剖を終えて棺に眠る彼を見てから。
自分の中のセシルの記憶の多くは色褪せ、悲しみの中で霞んでしまっていた。もう二度と、彼と言葉を交わすことはない。彼と触れ合うこともできない。正式な結婚式をしてお互い落ち着くまでは、とキスより先に進むということもなかった。彼に触れられないまま自分の体は冷えて、彼の死の真相も彼の仇を討つこともできないまま年ばかり取っていくであろう自分に耐えられず――ドナは命を自ら断ってしまったのである。そのようなこと、けしてセシルは望まないであろうと知っていたにも関わらず。
彼がいない世界なら、もう生きていく意味などないと思っていた。
でも、もし本当に時間が巻き戻ったのなら。奇跡が起きたというのなら。
自分はもう一度、生きた彼に逢えるはずということで。
「お、お姉様……」
震える声で、ドナは彼女に声をかけた。
「セシルは、今、何処に……?」
***
招待客の中には、小さな子供も存在する。勿論伯爵家の誕生日パーティであるから、招かれるのも貴族の子供ばかりであるのだが――それでも、幼い頃から何もかもの教育が徹底できるわけではない。退屈になって鬼ごっこを始めてしまう子供がいるのは、なんらおかしなことではなかった。母親からすると頭が痛いことであるに違いないけれど。
セシルが一度パーティ会場を離れたのも、その子供にぶつかってスーツの上着が汚れてしまうという事故が起きたからである。いくら彼でも、上着の裾にべったりオレンジジュースの染みを作ったままパーティに参加し続けるわけにはいかない。ゆえに、念のため持ってきていた予備の上着に着替えるべく、控室へと引っ込んだのである。
「あれ、ドナ?」
着替えを終えて廊下に出てきたセシルは――ドナの記憶にある通りの、童顔で可愛らしい顔の青年だった。
彼は二十一歳で死んだ時も、あまり容姿が変わっていなかった。さすがに十一歳で出会った時と比べると大人の男らしくはなったものの、背があまり伸びず男性にしては華奢な体格を最後まで気にしていたものである。ついでに、顔立ちが幼いせいでお酒を買おうとするたび身分証明書を要求されるということにも随分辟易していたようだった。
確かに、今目の前にいる彼は、まだまだ十代前半でも通りそうな見た目だろう。と、己を落ち着けるため、冷静に分析しようとできたのものそこまでだった。
「ど、ドナ!?」
気づけば、ドナは彼に抱きついていた。戸惑った彼の声がすぐ横から降ってくる。着替えたばかりのスーツを、化粧と涙で汚してはいけない――そうは思っても、目の前が滲むのを止められそうになかった。
――温かい。
オレンジの、甘い香水の匂い。彼が昔から好んで身に着けていたもの。
黒髪が鼻先を擽る。青い宝石のような眼も、白い肌も、温もりも、全部全部あの日に失って二度と戻らないはずだったものだ。
――生きてる。ここで、生きてるんだ。
抱きしめる力を強くすれば、心臓の鼓動さえも確かに傍に感じられた。彼の胸の中で、熱く血潮を全身に運ぶ、命の音がする。あの日誰かに壊されてしまった全ての幸せが今、此処にある。
「……どうしたの、ドナ。何かあったのかい?」
控室で着替えを手伝った執事らはまだそこにいるだろうが、きっと見て見ぬ振りをしてくれることだろう。他の家族や親戚、友人がいる場所でなくて良かったと思う。このような姿など見せたら、間違いなく余計な心配をさせてしまうに決まっているのだから。
私は名残惜しさを感じながらも、何でもないの、と彼からそっと離れた。
「……貴方の姿が急に見えなくなってしまったから、不安になってしまっただけです。ごめんなさいね」
「可愛いなあ。……いつも強気なドナにも、そういう時があるんだ?」
「ありますよ、私にだって。……むしろ、幸せだからこそ、不安になる時もあると思いません?だって、何もかもが上手くいきすぎてるんですから。貴方と出逢えたことも、婚約者になれたことも、こうして家族とたくさんの友人を交えてパーティができることも……今日までの満ち足りた暮らしも、全て。あまりにも幸せすぎると、不安になってしまうでしょう?いつか、それが突然壊れてしまう時が来るのではないか、って」
そう。
そんなこと、あの二十一歳の結婚式の翌日まで――思いもしなかったことである。
今の幸せが永遠に続くと信じて疑わなかった。彼の研究が成功して巨人を無効化し、戦争を回避して平和な生活が続く。自分と彼の間には可愛い子供達がたくさん生まれて、いつまでもいつまでも長閑で明るい未来が続いていくとばかり思っていたのである。
それがあんな風に理不尽に奪われるなんて、一体誰が予想していたことだろう?
「……じゃあ、壊れていかないように。大事に大事に守っていかないといけないね」
セシルはそんな、私の具体性も何もない不安を馬鹿にしたりなどしなかった。にっこりと微笑んで私の手を握り、言ってくれたのである。
「大丈夫。……何があっても、ドナのことは僕が守るから!」
彼が自分を、命がけで医者に運んでくれたイベントは随分前に終わっている。あの事件を契機に自分達の距離はぐっと近づいたし、改めて彼の事が好きになったと伝えたこともあったはずだ。
だから彼は、当然のように恋人として自分に接してくれる。思えば少し違う場面で、あの結婚式の夜以外でも殆ど同じ台詞を言ってくれたこともあったのではないだろうか。
かつての自分ならきっとただ、ありがとう、と伝えて幸せに浸るだけで終わっていた。
「……ええ。ありがとう、セシル」
でも、今は違う。
――……私は、約束された幸せに、甘えすぎていたのかもしれない。だから、罰が当たってしまったのかもしれない……何の罪もない、この人を巻き込んで。
だから、誓うのだ。
どういう理由で時間が巻き戻るなんて奇跡が起きたかはわからないし、そこに不安を感じるのも事実ではあったけれど。現実を前に、それは些末な問題だろう。一番大切なことは、ただ一つ。
――セシル。貴方のことは、私が必ず守る。……この命に代えても、絶対に……!
そして。
ドナの長く、孤独な戦いは始まったのである。