<3・Wedding>
結婚式当日の夜。招待客達が既に帰り、片づけも何もかも終わった後。疲れているはずなのにどうしても眠りたくなくて、結婚式の興奮を引きずったままドナはセシルと語り合ったのだった。自宅のベランダから見える星空があまりにも綺麗だったから。あるいは――とにかくこの喜びが冷めやらぬうちに、二人で共有しておきたいと思ったのかもしれない。
『ごめんなさいね、姉さまがあそこまではっちゃけるとは全く予想していなかったんです』
披露宴のことを思い出すととにかく笑ってしまう。伯爵家同士の結婚式、もっと厳かになるかと思いきや――想像以上に、酒が入った招待客のぶっとびぶりは凄まじかったのである。
披露宴で演奏や歌を演出するというのはよくあることではあるのだが。まさか姉が、友人数名と共にコント劇を披露してくれるとは全く想像もしていなかった。美人でいつもぴしっと背筋を伸ばしているイメージの姉に、あのようなユーモラスな一面があったとは。しかも彼女も伯爵家の長女であり、夫も名のある家の貴族。友人達も、社交界のお上品なお嬢様方ばかりであるはずだというのに。
彼女は特設された舞台の上で、新聞紙をぶちまけてすっころぶドジっ子メイドを見事に演じて見せたのだった。しかも、アツアツの紅茶(まあ実際は火傷しないように冷めたものであっただろうが)を友人にひっかけ、互いのドレスを見事台無しにしてみせるという徹底ぶりである。同じ貴族のイケメンを狙うお嬢様方の、火花バチバチのお茶会を、ドジっ子メイドが乱入してくることによりよりいっそうカオスにしてしまうという話だった。いくらお互いお金があるからといって、ドレスを何着も無駄にしてまでやり抜くとは、どこまでも徹底している。
――いや、あの完璧主義な姉のこと。下手したら……練習段階でご自分とご友人のドレスを何着もダメにしてそうな気もするなあ……。
そこまで金に糸目もつけず、笑いに徹してくれた彼女たちの劇は大盛況だった。他にも友人達の生演奏や、無駄に長すぎる笑いを取った友人スピーチ、その他もろもろの余興。神妙に、上品に終わった結婚式とは打って変わって、伯爵家の子息と令嬢のそれとは思えぬほどフリーダムな披露宴だった。参列者たちも受け入れてくれて、楽しんでくれていたようで本当に良かったと思う。
自分達は恵まれている。家族にも、身分にも、友人にも――そして、愛する人に巡り合えた奇跡にも。
『正直、ラナさんはもっとこう……お堅い女性かと思っていたんだけど。思ったより仲良くやっていけそうな気がするよ。あれは絶対、庶民にも人気のコント番組をひとしきり楽しんでいると見たね』
『その様子だと、セシルも結構テレビを見るのがお好きなのですね。ラジオやテレビが普及してから長いのに、未だにテレビは庶民の俗物だと好まない貴族も多いというのに』
『見るよ。面白いものは何でも取り入れる主義なんだ。ましてや……テレビやラジオは情報が早い。テレビは映像があるからより一層イメージもしやすい。僕の仕事は情報の有無が鍵を握るからね。そういうものは頻繁に見ておくに限る。まあ……コント番組が好きなのは、単なる僕の趣味なんだけど!』
『ふふっ』
人間、誰しも表の顔と裏の顔がある。それは何も悪い意味だけではなく、表で取り繕っている顔の裏に、思いがけない良い一面やユーモラスな一面を隠していることもあるという意味でもある。
それは、ドナにとってのセシルも例外ではない。
『……今だから言うけれど。わたくし、最初セシルと逢った時……絶対この人とはうまくやっていけないと思ったんです。わたくしの意見を真正面から否定したのもそうですけれど、何より……もうすぐ十二歳にもなろうという貴族の長子が、あのように簡単に涙を流すなんて情けないと思ってしまって。まあ、わたくしも泣きわめいたのですから、人のことをどうこうは言えないのですけれど』
泣き虫で、臆病。余計なことばかり気にして、本質が見えていないダメ男――最初はそう思っていた。
もし、あの時姉や両親が自分を甘やかすばかりの人間だったら。可愛い妹、可愛い娘の言うことを何もかも肯定し、ドナの言葉をうのみにしてセシルを糾弾するようなタイプの人間達であったなら。きっと自分は、セシルの本質ときちんと向き合おうとはしなかったし――きっとあそこで自分達の関係は途絶えてしまっていたことだろう。
もしそうなっていたなら、自分はとてつもなく勿体ないことをしてしまっていたことになる。この人の本当の優しさや魅力に気づかないまま、大人になってしまっていたかもしれないのだから。
『“誰かの立場を思いやって、誰かの気持ちになってものを考えなさい。誰かの心に寄り添って、隣人のごとく愛しなさい。それから……自分がされて嫌なことは、誰かにしないようにしなさい”。そんなこと、幼い子供の頃には先生や両親に習うこと。それなのに、それができない人間は大人でさえ少なくないものです。……それなのに、貴方はあの年で、きちんと誰かに寄り添える優しさを持っていた。生態系の頂点である人間であり、その人間の中でも選ばれた貴族という身分であるならばどれほど好き勝手にしても怒られないはず……そんな身勝手な考えを持っていたわたくしとは、何もかも違っていた』
他の生き物も、人間と同じだけの命の重さがある。
そして貴族以外の庶民たちも、けして貴族に劣るような存在ではない。むしろ、彼らがいるからこそ貴族は今を支えられている。彼らの方が偉いと言っても過言ではない。一体何をどう教育を受けたら、多くの貴族の人間達さえ見失っているようなその考えに行きつくことができるのだろうか?
『あの時。……物怖じせず、わたくしを叱ってくださったことに感謝します。謝罪はしたけれど、きちんとお礼は言えていませんでした。……本当に、ありがとう』
ドナがそう告げると、セシルは子供のように顔を赤らめて、それはこっちの台詞だよ――と言った。
『君の言ったことだって、間違ってなんかいなかったさ。花冠を作ってくれて嬉しかった。それを大事にしたいと思った。……まずその気持ちを君にきちんと伝えるのが筋だったのに、できなかった。君が機嫌を悪くするのは当然だ。しかもそのたった一度のすれ違いだけで、初めて会った女の子を“人の気持ちを考えない人間”と決めつけて嫌いだなんて言うなんて、まったくどうかしているよ。……ごめんね。それから、ありがとう。思いやる気持ちを教えてくれたのは、君だって同じさ。それから……』
つん、と彼はドナの額の真ん中を小突いた。
『それから。……君のおかげで、強くなれたってこともね』
『え?』
『泣き虫、臆病者、価値観がズレている。そういうのは、幼い頃からあっちこっちで言われてきたことなんだ。君出逢った時に過剰反応したのも、要するに君と同じようなことをあっちこっちから言われてきたからだったんだけれど。……君だけは、僕の考えを真剣に受け止めようとしてくれた。違う意見があってもいい、それでも理解しようとすることはできるんだって君が気づかさえてくれたんだ。君は否定しないでくれた。男としてはひょろっちい体格も、男らしい趣味がなくて本を読んだり料理ばかりしている僕のことも。本当の意味で誰かに寄り添うって、優しさってこういうことなんだって……僕は君に教えてもらったんだ。そして、そんな君だからこそ……守りたいって強く思うようになった』
『セシル……』
『出逢った頃の僕だったら、君を背負って医者に駆け込むような度胸なんかなかっただろうからね』
そんなこともあったなあ、とドナは思う。きっとあの時だったのだろう。命がけで自分を救おうと奮闘してくれた彼に――ドナが恋心をはっきりと自覚したのは。
彼は自分を随分と評価してくれているようだけれど。大切なものを与えられてばかり、支えられてばかりなのは自分の方ではなかろうか。器の大きい両親に恵まれ、彼と出会わなければきっと自分は幼い頃のまま、庶民に寄り添う心も本当の平和について考えることもできない人間のまま今に至っていたに違いないのだから。
そんな彼の、唯一無二の家族になれるということ。それがどれほど至上の幸福であるのかなど、言うまでもないことである。
『君のことは、僕が守る。命に代えても、何を捨てても絶対に。……弱虫の僕を、君の存在が強くしてくれたんだ』
『ありがとう。……それなら、セシル』
今思えば。彼はこの時既に、何かを悟っていたのかもしれないと思う。
疲れているはずなのに、少しでも長く起きて語り合いたがっていたのは彼も同じだった。彼はひょっとしたら、少しでも自分の顔を目に焼き付けておきたかったのではないか。
『貴方が私を守ってくれる分、私も貴方を守ります。私達は家族であると同時に、人生の最高の相棒になったのですから』
ああ、何が――何が守る、だ。
確かに自分は何も気づいていなかった。わかっていなかった。あのような悲劇など一切予想などしていなかったことは否定しない。それでもだ。
あの時の彼の“守る”と、自分の“守る”は間違いなく覚悟の重さが違っていて。それなのに、彼の手を握って偉そうなことをのたまう自分に、セシルはどこまでも微笑んでいてくれたのである。
『ありがとう。大好きだよ、ドナ』
翌朝。ドナが目覚めた時、セシルは部屋にいなかった。朝早く起きてどこかに行ったらしいということはわかったが、彼が何処に消えたのかを知っている人間は誰もいなかったのである。
彼は町はずれの森で、遺体となって見つかった。
随分昔に廃棄された廃工場跡。林業の業者が偶然傍を通りかからなければ、そのまま発見されることもなかったことだろう。翌日に見つかったのが奇跡のようなものだ。ただ、何故彼が自宅からも結婚式会場からも遠く離れたそんな場所にいたのかは誰も知らなかった。彼は、置手紙一つ残してはいなかったのだから。
目立たない地味な黒いスーツ姿で、胸を真っ赤に染めて倒れていた彼。抵抗したのか、あちこちにすりむいた後や殴られた後があったという。誰かに呼び出されて射殺されたのだろうと見られているが、それが“どこの誰”であるのかは結局警察にも突き止められないままだった。
――神様。……ねえ神様。あの人が、何をしたっていうの?あんな優しい人が、どうしてこんなにも早く命を奪われなくてはいけなかったの?
彼が巨人を倒すための新しい兵器開発に携わっていたことから、マスコミは面白おかしくその推測を掻き立てた。他の国のスパイに殺された説、あるいは彼が国にとって何らかの背信行為を行おうとしていたがために暗殺された説、はたまたただの強盗という説もあったがどれも信憑性に欠けていた。確かなことは、どれほど警察が捜査をしてもろくな証拠が出てこないまま――数年後には、事件が迷宮入りとなってしまったことである。
この国の法律に、時効はない。
それでも警察が捜査を諦めて打ち切ってしまったら、いくら貴族とはいえ犯人を見つける手立てなどあろうはずもない。それから何年かの間は探偵を雇うなりなんなりと足掻いたドナだったが、それも手詰まりになるのは時間の問題であったのである。
――あの人の仇を討てるならと思って生き続けてきたけれど。それももう、何の意味もない。……あの人がいない世界で、生きていく理由もない……。
三十八歳で、ドナは自ら命を絶った。
それで、自分達の物語は全て終わりになるはずであったのである。
「……え!?」
かちり、と何かのスイッチが入るような音と共に、暗闇からもう一度目覚めるまでは。
死んだはずのドナは、時を遡っていたのである。十七歳の、少女の姿に戻って。