<16・Reproduction>
「!?」
はっと目を開いた時。そこは、塗りつぶされたように真っ黒な、闇一色の空間だった。ドナは慌てて上半身を持ち上げ――先ほどまで負っていたはずの細かな傷も、服の土汚れも何もかもが消失していることに気づく。そう、闇の空間だというのに、自分の体だけはまるで発光しているようにはっきりと見ることができるのだ。
何がどうして、どうなったというのだろう。思わず顔に手を当てて、掌が絞める感触を知る。頬が冷たい。確かに自分は泣いていた。引き裂くような心の痛み、突き飛ばされた時の体の痛み、全てをはっきりと覚えている。あれが全て夢だったとは到底思えない。自分は確かに時を遡って、それで――。
――助けられなかった。
此処が何処なのか。それよりも何よりも最初にドナが思ったのはそれだった。
「助けられなかった、また……っ!」
あの時。
自分は命を賭けて、セシルが何者かとの待ち合わせ場所に行くのを阻止しようとした。少なくともセシルは動揺し、自分を無視して、あるいは馬車を強行的に奪って現地に向かうということはしなかった。彼のそんな性格を知っていてあの手段に出たのだから、自分も大概卑怯な性格だと自分でも思うけれども。
行くことも退くこともできなかったであろう彼が、何かを言いかけたその時――大きな爆発音が響き渡ったのである。何が起きたのか。唖然とするドナの目の前で、屋敷が炎に包まれていた。まるでどこかで爆弾が爆発でもしたかのよう。そうでもなければ、大きな屋敷が庭ごと一気に火に包まれるなんてことは考えられないだろう。
『ドナ――ッ!』
呆然としているうちに、ドナは突き飛ばされて。そこからはもうあっという間の出来事だった。ドナを庇ったセシルの上に、屋敷の外壁が次から次へと崩れ落ち、彼はその下敷きになったのである。何もできなかった。ドナの目の前で彼は瓦礫に押し潰されて、そのまま――。
――助けられると思った。今度こそ、何があっても助けるはずだったのに!
一体何がどうなっているのか、さっぱりわからない。
元の歴史通りなら、あの夜自分は何も知らずにセシルと同じ部屋で眠って、そのまま何事もなく目覚めた筈である。呼び出されたセシルはそのまま“待ち合わせ現場”と思しき廃工場で遺体が見つかることになるが、その代わり屋敷に異変らしい異変はなかったはずだ。あんな風に、屋敷ごと丸焼きになるような事故、事件が起きたなんて記憶はない。一体何故、歴史が変わったのか。あるいは彼が待ち合わせ場所に行くのが少しでも遅れたら、別の人間が屋敷に火をつけるようにと指示を受けていたとでもいうのだろうか?
――事故の可能性を完全否定はできないけど……屋敷のあの燃え方……爆発音。テロであった可能性の方が高い。……なんてこと!
二段構えの罠だった、と見るしかないのか。彼をあの夜、ただ引き留めるだけでは駄目だったと。だとすれば、もっと早い時点で、彼を狙う組織を排除するなり、彼が標的にならないように手を打つしかなかったのだろうか。その方法を散々模索して見つからなかった結果、あの夜の状況に至っているわけだが。
――此処は、何処なんだろう。彼が死んだあとから記憶がはっきりしない。私も一緒に死んだ?それとも、生き残ったけれどショックで記憶が飛んだだけ?
まあ、どちらでも大差ないだろう。
彼を守れなかった時点で――自分の世界に、価値などなくなったも同然なのだから。
「……此処が、何処かわからないけど。神様なんてものがいて、もしその存在がわたくしを戻したというのなら」
悔しい。悲しい。だが、一度チャンスが与えられたのだ。もう一度、があってもおかしくはない。ドナは涙を強引に拭うと、闇の中で何者かに呼びかけた。
「お願い、もう一度わたくしを戻して。時間を戻してください……!今度こそ、今度こそあの人を救ってみせる。あのような悲しい結末になんかさせない……!」
穏便に止めようとして無駄だというのなら、最悪汚い手を使ってでも彼が研究室に入るのを止めるしかない。自分は嫌われるかもしれないし、やり方次第では家名に泥を塗る可能性もあるが、それでもセシルがあのまま死ぬよりは遥かにマシだと断言できた。自分はどうなってもいい。セシルを救うことができるなら、どんなやり方でも試すつもりでいた。ただ彼があの現場に行くのを止めるだけでは死を回避できないならば、もうなりふり構っている場合ではないのだから。
闇の中からは、何の音も聞こえてはこない。それでも、自分を逆行させた何者かの“意思”が働いているはずだという確信がドナにはあった。ならば聴いていてもいいはずだ。その人物だってきっと、別の結末を期待したからこそ自分を逆行させたはずなのだから――。
さらに前へ一歩踏み出そうとした、その時。
「お前はとても勇敢なのですね」
すぐ後ろから、声。
「とても共感できます。……ドナ・アンカーソン」
「!?」
先ほどまで、誰もいなかったはずなのに。驚いて振り返ったすぐそこに、新しい登場人物が立っていた。金髪碧眼の、小柄な少年である。年は十二歳――いやもう少し下だろうか。大きな碧い眼で、じっとドナのことを見上げていた。
「だ、誰ですか!?」
「刹那の魔術師。……此処で名乗れる名前が他にはないので、そうですね……セツナ、とでも呼んでください」
彼はまだ声変わり前の高い声で、はっきりとそう告げた。彼の体も発光しているのだろうか。闇の中でも、明確にその姿を捉えることができた。あるいはこの空間が真っ黒であるせいで“闇”に見えるだけで、実際は全然別のものであるのかもしれない。
刹那の魔術師。なんだか、RPGのキャラクターか何かのよう――そう思って、ドナはちりりと頭の隅に鈍い痛みを覚える。また、この感覚だ。テレビで遊ぶゲームなんて、自分達の世界にはなかった。それなのに、自分は“そういうものが存在する”ことを知っている。カラフルなテレビ画面、立体的なゲーム、コントローラー、テレビゲーム――。何故、知らないはずのことを知っているような気がするのだろう。本当にそんなものがあるなら、今頃エディス王国中で爆発的にヒットしていてもおかしくないはずなのに。
「それはお前の妄想ではないですよ」
そんなドナの思考を呼んだように、彼――セツナは言う。
「話さなければいけないことがたくさんありますが……まず三つ前提をお話しておきましょう。一つ目。僕は、お前を逆行させた張本人ではありません。お前を逆行させた存在は別にいます。僕は完全に部外者ですが……何も知らずに記憶だけ継承することになってしまったお前が不憫で、世界の壁を破って此処に来ました。本当は、あんまり褒められた行為じゃないんですけどね」
「貴方では、ない?」
「はい。……二つ目。此処は、世界がリセットされるまでの空間。待機場所のようなもの。じきに、お前は再び世界を逆行することになるでしょう。それがお前を操る“上位存在”の意思である以上は。三つ目。……恐らくこのままでは、お前は何度繰り返しても、セシル・リリーの命を救うことができません」
「!?」
前二つの話も混乱したが、一番聞き捨てならないのは三つ目の話だ。このままでは、何度繰り返してもセシルを救えないとはどういうことか。たった今、何度繰り返すことになろうと彼の命を救うと、そう心に誓ったばかりであるというのに。
「……どういうこと?」
目の前の謎の存在が、少年の姿をしているというのもあるだろうが。悪意があるどころか、ドナを憐れんでいるようにも見える彼を、ひとまず信用することにしようと決める。そもそも自分はなんの力も持たない、突然逆行の渦に投げ込まれただけの普通の人間だ。どう足掻いても、大きな力に逆らうことなどできない。ならば、その力について少しでも情報収集するしかやれることは何もないのだ。――信用できない、敵だと判断したら、その時また自分がやるべきことを考えればいいことだろう。
「そうですね。そのためには……失われているお前の記憶を、部分的にも回復する必要があります。僕の力だけでは、ほんの一部しか回復させられませんけど……それでもお前が状況を理解するには十分でしょう」
手を、と彼は言うので。ドナは恐る恐る、少年へと手を伸ばす。セツナは伸ばされたドナの手に左手で触れると、反対の手をそっと宙で掲げた。
突然彼の手に光が集約し、現れたのは――臙脂色の、分厚い辞書のような本である。まるで魔法のようだ、とドナは目を見開く。彼が背表紙を抱えるように本を持つと、本はひとりでにパラパラと捲られた。彼の意思と、連動してでもいるかのように。
「行きますよ。……“Reproduction”」
瞬間。ドナの視界に、青い火花がバチバチと散った。
「う、わ……ぁっ!?」
いくつもの景色が、幻となって目の前を通り過ぎていく。
教室に規則正しく並んだ机、セーラー服の少女の背中、天高くそびえ立つスカイツリー、手の中のUNOのカード、スマートフォンの液晶の中で流れていくLINEの呟きの数々、テレビゲームの中を駆け回る勇者、自分に向かって怖い顔で説教をしてくる会社の上司、居酒屋で酒を勧めながら笑う同僚、満員電車で見かけるいくつもの疲れたサラリーマンたちの顔――。
そして。
小さな携帯ゲーム機の中で微笑む、優しい“セシル”のイラスト――。
「あ、ああ……っ」
全身から力が抜け、ドナは膝をついていた。どういうことだ、と思った。この記憶は、そして今の現状は何がどうしてこうなったのだ、と。
「え、エディス王国……“光のエデン”……!」
光のエデン。
それは、そう――自分がやっていた、キャラクターとの交流・攻略のゲームのタイトル。
そう、自分が生きていたこの世界は、前世でゲームとされていた世界であったのだ。
前世の自分がどういう人間であったのかはさっぱり思い出せない。多分女性だったのだろうとは思うが、どのような名前のどのような人間だったのかは全く覚えていなかった。いや、今の自分は“ドナ・アンカーソン”でありそれ以上でもそれ以下でもないのだから、前世がどんな人間であろうがそんなことはどうでもいい。肝心なのは。自分はどこかで、“現代日本”の知識や感覚を有していた謎が、これで解けたということ。時折頭に浮かんでくる見覚えのない単語や記憶は、前世の記憶の断片であったということだ。
問題は。何故、自分がかつての世界でゲームとして遊んでいたであろう世界に、自分が転生したのかということだ。
「わらくしは、前世で地球にいて……日本人として生活していた。……どんな人間だったのかはわからないけれど、その世界で……わたくしが今いるこの場所は、ゲームの世界として扱われていた……」
訳がわからない。どこのアニメやライトノベルの話だと言いたい。ただの異世界転生・転移ならともかく、何故死んだ人間がゲームの中に入ってしまうなんてことになるのだろう。
「こんなこと、あり得るのですか?わたくしは、どうして……」
「無事、記憶の復旧ができたようで何よりです」
そうですね、とセツナは頷いた。
「ではまず……お前の状況から、説明させてもらいましょうか。何故お前が、前世でゲームであったはずの世界に転生したのかについてから」




