<1・Encounter>
「あなたも法律の勉強をされているのですから……ご存知ですよね?エディス国婚約規定法第三条……婚約破棄に関する条項を」
何を言われているのかさっぱりわからない。困惑した様子の青年を前に、アンカーソン伯爵家令嬢であるドナ・アンカーソンは告げた。
もっと背筋を伸ばさなければ。もっと口角を上げ、髪をわざとらしく掻き上げ、横柄な口ぶりを心がけなければ。泣きたい気持ちを無理やり抑え込み、ドナは目の前の青年――己の婚約者であったセシル・リリーに向けて指を突き付ける。
「私は全て見通しています。わたくしという婚約者がいながら、他にうつつをぬかし、わたくしを裏切ろうとしているということも!……そのような愚かな人間、このわたくし……ドナ・アンカーソンの婚約者に相応しくありません」
「何を言ってるんだ、ドナ……!?裏切りって……」
「貴方の声なんかもう聴きたくもない!少し黙っていて頂けます?」
嘘だ。本当は、ずっと傍で聞いていたい。
だって自分は全部覚えている。髪を撫でて優しく耳元で囁いてくれた声も、猟場でオオカミに襲われた時命がけで助けてくれたことも、学校での催し物をクラスメートたちと一緒に考えて、劇が大成功に終わった時に手を取り合って喜びあったことも。
全部全部、覚えている。彼は自分のことを誰より大事にしてくれていた。そして自分は、そんな彼のことを誰より愛していた。
裏切りなんて、そんなことは何一つない。裏切ろうとしているのは、本当は自分の方だと分かっている。
それでもだ、自分は。
「貴方の浮気の証拠は十分に抑えてあります。……それを全て提出すれば、法律に則って婚約破棄が十分可能……!ですが、それをすれば貴方の家にも傷がつくことでしょう。わたくしも、憎たらしいのは貴方個人だけで、貴方の家名まで傷をつけたいわけではありません。今ここで罪を認め、婚約破棄を穏便に受け入れるなら……それらの証拠は全て表沙汰にしないと誓いましょう」
本当は、泣きたい。こんなこと言いたくもない。きっとセシルも本気で意味がわからなくてパニック寸前であることだろう。罪なんてない。浮気なんてしていない。それなのにそんな風に言われて、なかば脅迫するように“婚約破棄しろ”と脅されているわけだ。それも、つい少し前まで仲睦まじくしていたはずの婚約者に。
逆の立場なら、耐えられない。悲しくてこの場で崩れ落ちてしまうかもしれない。そういう酷いことをしている自覚は、ドナにもあった。
それでもやり抜かなければいけないのは――誓ったからだ。
「さあ、返答はいかに?」
布石は打った。
準備はしてきた。
これで仕上げとなるはずだ。
――お願いだ、イエスと言って。そうでなければ……ハッピーエンドは訪れないんだ。
自分は悪役令嬢になる。
全ては目の前の愛しい人を救う、そのために。
***
何故、自分達がこの状況に至ったのか。それを説明するには、大幅に時を巻き戻す必要があるだろう。
この世界の現行の法律では、男女の権力はほぼ同等のものとされている。女性の地位が非常に低かった時代もあったようだが、男女同権運動が起こり、女性にも選挙権などが与えられ、結婚に関しても同等の権利が法律上認められるようになったからだ。
ただし男女別姓は認められていないし、仮に認められていても“どちらかがどちらかの家に入る”という伝統的制度の問題は残っている。嫁入りするか、婿養子か。特に貴族の場合は、家名を継ぎ血を繋ぐことを重要視する傾向にある。必然的に“長男・長女の方が家を継ぎ、そちらによその家の次女・次男以降が嫁入り・婿入りをする”という方向へと落ち着くことが多かった。貴族の家に子供が二人以上いるのが当たり前となっているのはこのためである。次男・次女をよそに婿入りなどをさせても、その家とのコネクションを維持できるならば大きなメリットがあるからである。
そんな時代、アンカーソン伯爵家の次女として生まれたのがドナであった。
姉のラナとの仲も良好、両親との仲も良好。伝統あるアンカーソン家の次女として、ドナは何不自由なく暮らしていた。そのせいで少々ワガママに育ってしまった、好きな相手やモノに素直になれない恥ずかしがり屋になってしまった、だの言われることは時々あるけれども(自分はいわゆるツンデレキャラであったらしい、と知るのは後になってからのことである)。
次女である以上避けられないのが、本人の意思とは無関係に早期に婚約者を決めさせられられるということである。ドナも十二歳になる時にはもう将来の婚約者が決まっていたのだった。
その彼こそ、同い年でありリリー伯爵家の長男である、セシル・リリーであったのである。
――最初に顔を見た時は驚いたな。……だって、まさかこんなに小さな子が自分の夫?って思ったもの。
初めて会った時のことは、よく覚えている。なんといってもセシルは平均的な身長だったドナよりもずっと小さくて、まるで少女のように繊細な顔立ちをしていたのだから。男児の礼服を着ていなければ女の子と勘違いしていたかもしれない。彼の家は、どういうわけか遺伝的に男子が小柄になる傾向にあるらしかった。彼の一つ年下の弟も、それはそれは小さくて華奢な少年であったのだから。
婚約者というより、弟が出来たような気分だった。
結婚というものにイマイチピンと来ていなかったドナであったが、自分はこの子と仲良くならなければいけないのだということだけは認識していた。逢って最初の日、お庭で二人で遊んできていいというので、ドナは彼の手を引いてリリー家所有の丘まで遊びに行ったのである。この子は自分がリードしてあげなければいけない、というすっかりお姉さんの気分だったというのもあるだろう。なんせ初日の彼は顔合わせの時もずっともじもじとしていて、まともに会話すらできない状態であったのだから。
庭で遊ぶと行っても、やることと行ったら鬼ごっこと読書、花摘みとままごとくらいなもの。そしてドナは幼い頃から読書があまり好きではなく、体を動かすような活発な遊びばかりを好むような少女であった。とりあえず妥当な線として、彼と一緒に花摘みをすることにしたのである。丁度、シロカナギの花が綺麗な時期だった。シロカナギの花は茎が頑丈で細いので、結んで花冠を創るのにはぴったりであったのである。
自分が器用なところを見せてやろうと意気込んでいたドナ。その試みは、途中までは成功していたと言っても過言ではない。ドナが花冠を作ると彼は驚いてくれたし、一度も花冠など作ったことのない彼に作り方を教えるのは大層気分が良かった。
問題は、この後のことである。
『そろそろ、屋敷に戻らないと怒られちゃう。セシル、一緒に帰ろ』
『あ、待ってドナちゃん』
作った花冠をその場に捨てて行こうとするドナに対し、セシルは花冠のみならず、使った花全てをその手に抱えて持って帰ろうとしていた。ドナは呆れてしまった。そんな風に抱えたら、せっかくの綺麗な洋服が土と植物の汁で汚れてしまうだけだというのに。
そんなに花冠が気に入ってくれたのだろうか。しかし、それならば花冠だけ持って帰ればいいものを。
『そんな風に持っていったら汚れちゃうよ。花冠ならまた今度作れるし、捨てていきなよ』
ドナが言うと、セシルは心底驚いたと言わんばかりに目を見開いて、どうして?と言ったのだ。そう。
『どうしてそんな酷いこと言うの?ドナちゃんは、このお花に感謝しないの?』
『感謝?』
『そうだよ。……他の動物は、生きるため、ご飯にするために植物や他の動物を殺す。でも、僕達が今花冠を作ったのは生きるためじゃないでしょ?……生きるためじゃなくて、楽しむために植物を殺すっていう、とっても酷いことをしたんだよ。人間だけが、そういうことをするんだ。だったらせめて、殺してしまったお花に感謝の祈りを捧げていつまでも保管しておくか、丁寧に弔ってあげないとダメだと思う』
誕生日が遅いセシルは、この時まだ十一歳だったはずだ。しかし、彼は幼いなりに賢く、自分なりの価値観をしっかりと持っているタイプであったということらしい。花を生きるため以外の目的で殺すのも罪であり、その罪を自覚して生きるのがせめてもの償いである。そんなこと、ドナはまったく考えたこともなかったのである。そして、当時のドナに、彼の“優しさ”を理解できる頭や余裕があったかといえば、そんなことはなくて。
『ばっかみたい』
感じたのは。せっかく花冠を作ってあげたのに、それを悪い事のように否定された!という不快感だけであったのだ。
『人間は、一番偉いんだよ。だから、他の動物や植物を殺しても罪にならない、そうでしょ?そんなのいちいち気にしてたら面倒くさいよ。そんなことより、お洋服が汚れてママに叱られる方が大事でしょ』
今まで。ドナは、自分の考えが真正面から誰かに否定されたことなどなかった。なんせ姉も両親も家庭教師も、みんなドナのことを猫っ可愛がりして育ててくれたのだから。勿論危ないことをすれば注意されるし、勉強を真面目にやらなければ叱られることもあるが――それ以外で自分の主張が認められないことなどまずありえなかったのである。
傲慢だったと、今なら思う。
自分はいつだって正しいし、自分の考えは皆に肯定されるとばかり信じていたのだ。この、自分より年下の幼い子供のようにも見える“婚約者”に対しても同じである。自分が理路整然と主張すれば、そんなわけのわからない価値観などすぐに覆せると思っていた。しかし。
『……ドナちゃん、嫌い!』
彼はあろうことか、その場で泣きだしてしまったのである。十一歳の、それも伯爵家の長男としてはあまりにも頼りなく、情けない姿だ。
『お花の気持ち、考えられないドナちゃんなんか嫌い!嫌いだ!』
『え、えええ!?』
『だって、自分がお花の立場だったらって、全然考えない!人にされたら嫌なことは人にしないようにしないといけないって、先生に教わらなかったの?』
彼はぐすぐすと泣きながら、それでも主張を続けたのある。
『人間が一番だなんて保障はどこにもないよ。人間より恐ろしい怪物が現れて、人間のことを殺しにこないなんて保障どこにもないよ。一番だから何してもいいって、そんなことあるもんか……あるわけないのに。ドナちゃん、嫌い!お嫁さんになんか、無理!』
何で、そこまで言われなくちゃいけないのか。ドナは頭に血が上って彼を叩いてしまい――そのまま泣きながら大喧嘩になって、双方の両親を大層困らせる結果になってしまったのである。
自分達の出会いは、お世辞にも良い雰囲気とは言えなかった。
それでも今まで甘やかされるばかりであったドナの世界に――彼がまったく新しい風を吹き込んだのは、間違いのないことであったのである。