第七話 一日目 気づき
一つの砂粒を分別することができた。それを見て、彼は満足そうに自分の作業に戻っていった。
暗闇で両手で物を持っているときに道筋のアタリにしていた手すりが途切れたような不安感があった。
手すりがなくなったということなのだから、階段は終わりが近いのだろう。あと一歩踏み出せば階上の景色を見ることができる。それでも、やらなければならないことが多数ある中で、その道の熟練者の監視下から外れることはうっすらと怖い。
彼は私に背を向けて作業を始めている。砂粒を指先で選り分け、中指と薬指で器用に一粒だけ掴み、それを表に返した手のひらの上にトン、と落とす。その手は流れるようにガラス玉の前に置かれ、しばらく動きが止まり、砂粒は種類ごとに分別される。
その間、彼は一度もガラス玉から視線を外さない。左手はずっとガラス玉を保持したままで、視線も固定され、右手だけが一寸の無駄も入る余地がない動きで進む。
砂を選り分ける音と種類別に用意されたマチのある紙袋に投げ入れる音が作業の一単位だとすれば、彼は私がこうして躊躇っている間にもう十五は砂粒を分別しているのだ。
ーーまずは、彼のことを眺めることを止めなければ。穴が開くほど見つめたところでこちらに割り振られた砂は減らないのだ。
彼から渡された道具箱を見る。砂の山は右手に置かれ、スケール定規は真ん中に、早見表は左に置かれている。
彼のようにうまくいかないことは理解している。いや、もっと理解しなくてはいけない。ひとまず、砂の山の中から一粒だけを取り出してーー
「え」
思わず出てしまった間抜けな声に、彼が作業の手を止めた気配がした。
「どうした?」
「あ、いや……その」
彼は胡座のまま、床についた手を起点にしてくるりと回り、私の肩から私の作業風景を見た。
「んー、なんかやり方にわかりにくいところあったか?」
作業が進んでいないことは一目瞭然である。私は言葉に詰まり、何もないのに自分の指先を見る。
「……あー…………」
何かに気づき、少しだけ笑っているような脱力感もある間延びした声が彼の口から出た。
「そんな、笑わなくても」
「いやぁ、すまんすまん、天使サマ。俺も先代に教わって始めたばっかりのときはそうだったんだよ。先祖が嫌いすぎるあまり俺の小せえ頃の楽しい思い出もねぇからよ、思い出すこともなくて忘れてた」
何に納得し何に謝られ、彼はどんな幼少期を過ごしたのか何もわからない。恐らくは間抜けな顔をしていたのだと思う。
「砂粒ひとつ、はじめは指でも掴みにくいよな。サラサラと流れ落ちてってしまうんだよな。天使の血を引く者はそうなんだよ、って血を引くも何もお前は天使そのものだよな」
彼があまりにもケタケタと陽気に笑うものだから私も可笑しくなって思わず口角があがってしまう。彼曰く、天使由来のモノ同士は相互作用を及ぼさないーーつまり、引きつけ合うことがないらしい。粘りや摩擦のようなものがないことで、サラサラと流れ手に残らない。ましてや一粒だけを取ること自体が至難の業なのだと。
ひとしきり笑いあった後、彼は薄い生地でできた手袋というものを私に貸してくれた。人の手の皮だけ剥いだような見た目をしているので面食らったが、どうやら私の指に残る「天使の性質」を幾分か軽減してくれるものらしい。
「ここで何年も過ごしてヒトの理に馴染めば、砂粒も取りやすくなるから。俺がそうだった、だから安心しろ」
彼はそう言って作業に戻った。幸い、手袋とやらをつけてからは少しづつだが私も作業を進めることができるようになった。
集中して目の奥がツンと痛んだ。私は姿勢を崩し、遠くを見ながら肩を回す。そして、ふと考える。
天上の世界では、主神の出す指示は過不足なく必要であり十分だった。それは私が仕える主は全てを知っているからだ。私の力量も、その時点で何を知り何を知らないかも、何を言えばそれができるのかも。だが、彼はそうではない。人間ゆえに、私が何も考えずに動けるほどの完璧な指示ではなかった。
彼を責めているわけではない。自分の不出来が、天上では覆い隠されていたことに気づいてしまった。
私は天上では自分のことを、主命をなんでもこなせる優秀な天使だと思っていた。その実は、こんな有様だ。手取り足取り教えられないと自分で立つこともできない赤ん坊だ。
彼が私の全てを知らないように、私も彼のことを知らない。そして、私は天使であったときも、仕える主のことを全て知っていたわけではない。
私は、主神の寛大さゆえに自分を優秀だと錯覚していたのだ。そのことに、気づいてしまった。