第五話 一日目 目覚め
息ができない。吸おうとすればするほど胸が締め付けられるように痛い。何かから逃げなければいけない気がするが、自分が何を恐れているのか自分でもわからない。ただ、少しでも早く走り、その感覚がないほどに足を前へ繰り出さなければいけない、その焦燥感だけが増大し、背中にヒタヒタと洪水が迫り来る予感がして全身が固まってしまう、
前へ、前へ、前へ。自分の体が動かないことを呪い、状況を打開するにはひたすらに逃げるという意志を高めるしかないと思う。信じる、と言った方が正しいかもしれない。
薄々理解し始めていた。息が上がり体も動かないこんな状況では、ひとまず立ち止まり力を蓄えるしかないのだと。しかし、背中に何かが迫りくる恐怖が、正常な思考を押さえつけた。
「おい、天使サマ、しっかりしろ。まずは息を吐くんだ……ちげえよ、吐け、息を吐け! 吐かないと吸えねえだろうが」
誰かの声がする。私が進む前方から、どこかで聞いたことのある声が。しかし、どこで聞いたのか思い出せない。これは悪い夢なのだろうか? それにしては、鳥肌まで指先で触れてわかるほどに現実めいている。
「天使サマ〜? お前が見ているのは夢だ。現実じゃねぇんだよ。目を覚ませ、戻ってこい。あぁもう、こんな夜中に起こしやがって、追討軍に見つかるじゃねぇか」
声は目を覚ませと言うが、私の目は今も開いている。現に、遠く前方の窓から差し込む眩いばかりの光がこの目に刺さり、他の方角を見ることを許さない。
「わかってんのか? ここで見つかったら天使の墓標なんて作れっこない。途中まで復元できた天使のカタチも、天使の眼球を模したガラス玉も、全部放棄して、また最初からやり直しだ。数百年繋いできた想いがパーだ」
私に聞かれることを想定した強く指向性のある言葉から、どこか文語的で自身に言い聞かせる口調にかわる。どこか、後悔と諦めを含むような口調に。
ふと心当たりを見つけた。長い長い天使の記憶の、何も思い出せなくて苦しい空白地帯の少し後に、どこか温かくて喜びを感じた幸せな一片の記憶が。
私には天使としての名がある。天上にいたときは、必ずその名で呼ばれている。天使などたくさんいて、区別をつけなければならない。そのための識別名が。
そうだ、これはーー私が天使の座を追われて奴隷となった苦しい現実の後に、掴めたかもしれない使命感。生きる意味もわからずこき使われていた時期からやっと抜け出せると思ったのだが。
『また最初からやり直しだ。数百年繋いできた想いがパーだ』
天使サマと呼ばれるからには、相手は人間であって、私に生きる意味を与えてくれるかもしれない人。その人の使命を、よりによって私が奪ってはいけない。
そう思い定めた瞬間。たった一日の間に取り去られてしまった、たった一日分に過ぎない記憶が洪水のように蘇ってきた。私は夢とわかったその世界の中で振り返る。そうすると、体がふわりと浮遊する感じがして、すぐに体の片方に痛みが走った。硬い地面に体を打ちつけたのだろう。
否応無しに夢から覚めて、初めに目にしたのは腐りかけの木の支え棒とも言うべきもので、私がたった今落ちてきたばかりの、人の寝床を四本の足で支えている。ーーのは昨日知ったのだが、こんなにも最低限の機能しか持たないとは。
「起きたか、天使サマ。お前が夜中に散々うめいたり叫んだせいで俺は寝不足だが、日が昇る前に起きていられたのは”作業”にとっては都合がよかった」
「私は使命と呼びたいです」
「そんな高尚なことじゃねぇよ」
彼は苦々しく吐き捨てた。
「世界を散々荒らしておいてそれぞれの陣営に引き篭もっちまったヤツラの末端の墓標なんて作ったって、俺たちの生活が豊かになるわけでもねぇし」
「それでも、私は……」
言おうとして、言葉が続かない。命が有限でかつ短い人間にとって、あまりにも大切な一日を、天使の私は夢の中で忘却した。
「あのなぁ。お前の師匠が気に病むなと言ってるんだから気に病むんじゃねぇよ。師匠の命令を軽んじるのか?」
「それと天使の墓標に関係はないでしょう」
「あー、お前ってそういうやつなんだ。弟子入り一日目で口答えすンだな?」
怒っているようで、彼の足取りは軽かった。
「どこへ行くんです」
「朝飯に決まってるだろーが。腹減っただろう?」
彼はそういって、昨日と同じものを半分に割って手渡してくれた。
私はそれに無我夢中でかぶりついた。