第三話 大事なもの
「ハァ…………」
長くこれ見よがしなため息をついて、”砂まみれ”は部屋の角に向かう。その道すがら、たかだか十数歩の旅路であちこちに足をぶつけて痛がりもしない。
「お前さ、自分らがこっちでどう呼ばれてるかもわかんないの。堕天使、だてんし、ダテンシ。文字通り空から落っこちてきた天使サマだよ」
「そんなことより……ここは汚すぎやしないだろうか」
「なンの話だよ。それにお前が派手に砂ぶちまけなきゃ」
“砂まみれ”を制して人差し指を立てる。それを意味ありげに唇に当て、もう片方の手で床に散らばる足覆いの一つをつまみ上げた。
「……そのクツシタがどうしたよ」
「片方だけに砂」
「それがどうしたってンだ」
また一つ、今度は雑に積み上げられた板の一つをつまみあげる。同じように彼に見せ、また一つ見せる。
「元々散らばってたっていいてぇのか」
「その通りだ」
いけすかないヤカラから勝ちをもぎ取った。唇に当てた指を自然に戻し、少しだけ拳を握る。
「認めよう。確かに俺の部屋はお前が降ってくる前から散らかってたさ。ただ、それとこれとは話が別だ。……それに触れたこと、ただじゃおかねぇからな」
彼は私の手から砂まみれの板きれを奪い取った。そして、慈しむように撫でてみせた。そうすると、撫でた箇所ではないところから、サラサラと砂が落ちたーーように見えた。
「なぁ。堕天使サマよ。これを見て何を思う」
「……? 汚いのは私の責任である、と?」
「おい、いい加減にしろよ。お前がぶちまけた砂が元は何だったか、本当に知らねぇのか」
彼が粗雑で怒りっぽいのはよく理解できた。なぜか私に対して敵意を抱いているらしいことも。納得はできないが状況としては飲み込める。
しかし、こればかりは理解できない。私の価値観が、彼の行動を本能的に拒絶している。
「堕天使ってことは元は天使なんだろう。知らないはずはないんだよ、これは……これはーー」
声が掠れ、彼は目を伏せる。口から漏れる息が、彼が歯を食いしばっていることを暗に教えてくれた。
「これは、他ならぬ、俺たち天使が朽ちた姿だ。天と地の全面戦争で冥界の王と争い、最後まで天の軍勢として戦った者の勲章だ。それをお前はーー」
「待て! そんなこと知らない」
「嘘をつけ、お前は落ちるという感覚を知らなかったじゃねぇか。くそみてぇにお高くとまった言葉遣いで鼻につく。そうだ、お前の足を掴んだとき妙だと思ったンだ、お前の足は上半身に不相応に小さい」
自分が天使であるという間接的な証明を感情的に列挙される。私が否定したいのはそこではない。そこではないのだ。
「本当に、知らないんだ。この砂が、天使の……かつては天使だったものなのか」
天使であれば知っていて当然であるからこそ、彼は私が天使であることを強く主張したのだろう。しかし、私はその知っていて当然のことを知らなかった。そして、知らなかったことを証明する手立てはない。
喉の奥がつかえたように、声がうまく出ない。息をしようとしても、なぜか吐き出すことができなくて、胸を押さえて必死に耐える。背中を丸め、腹を凹ませて必死に、欠けた記憶を混沌の中からもぎ取ろうとする。
そして、ふと、一滴の水が混沌の中に落ちた。
「さっき、俺たちと言ったか?」
「……何のことだ」
「私は確かに天使だったが、お前も、なのか」
“砂まみれ”はスゥと目を細め、床に尻餅をついてへたり込んでしまった私を、穴が開くほどにじっと見つめた。そして、フンと鼻を鳴らしてその視線を逸らした。
「どうやら、知らねぇのは本当みたいだな」
「質問に、答えろ」
「俺が天使なのかって? いいだろう、答えてやる。回答は、半分正解、半分不正解だーー俺は、天使と人間の混じりものさ」
「混じりもの……?」
彼は私を正面から見据えた。そして、歯を食いしばり、苦しそうに顔をひどく歪ませた。
「天と地の戦争で、天使は三つの破滅を辿った。一つは冥界の王との取引に応じ、魂を明け渡して死の奴隷となる。二つは、最後まで戦って砂となる。三つめは……俺の先祖は、ヒトになろうとした。ヒトと恋に落ち、使命を忘れ、恋仲になった人間と戦地から逃げた。そのせいで、俺は……こんなクソッタレな仕事に雁字搦めになってる」
私は”混じりもの”と彼が言ったことの意味をやっと理解した。天使のヒトとの混血はありえない。万が一ありえるとするならば、それは大罪を犯して天使が天使としての地位を失った場合のみ。
大罪を犯した天使は早く死ぬ。死そのものとなりはてた堕天使は長く生きているが、それは結果論だ。罪の報酬は死、それが事実ならば、その天使の子孫もまた短命なのだろう。
「君の使命は」
「フン、同情かよ。お前から君に格上げとはね」
「茶化しているわけではない、本心から聞いているんだ」
彼の目をまっすぐ見れば、彼はまっすぐ見つめ返してくれた。
「俺の使命は、その気の遠くなりそうな砂の群れから、天使の墓標を作ること。俺の祖先は長い時間をかけて特殊な才能を持った。俺はこの目で砂を一粒一粒選り分けて、同じ天使からできた砂をすべて集め切らなければいけない」