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第二話 腐れ縁

 天から堕とされたことも、羽根をもがれたことも、奴隷として生きたことも死に魅入られたことも、そしてなにより、奴隷でなくなって道標を失った気分なのも、何もかも夢であればと願った。


 奴隷でなくなったことでなにか心にぽっかりと穴が空いたようなのが何よりも許せない。足枷がなければ自由であるはずなのに、私は自由にどこへでも行けない。


「羽根があれば……」


 しかしその夢は叶うはずもない。視界は余りにも見慣れた煤と靄と曇り空の世界。青く清浄で、どこまでの続くかと思われたあの懐かしい世界の面影はない。


「いや、こんな視界不良の場所で飛んだって意味もない」 


 煤が空を閉ざすこんな空でで速度を出して浮遊すれば喉が灼かれてしまいそうだ。やめだやめだ。手に入れられない物事を考えるのはやめだ。


 自由であることが、こんなにつらいことだとは知らなかった。こんなこと、誰にも教わらなかった。天に手を伸ばして、熱いものに触れたときのように引っ込める。清らかな世界に恋焦がれるだけで死の香りが鼻をつく。かつて生きた人間であった腐肉の手触りを思い出して、故郷を懐かしく思うことすら億劫だ。


 キュルルと腹が鳴り、それが空腹のしるしであることを思い出した。思えば、奴隷たちも官吏も関係なく、一定程度働けば腹を鳴らしてどこかに去っていき、また戻ってきた。天使に空腹などあるはずもない。だからこそ、遮二無二物を背負って歩き続けられたのだが。


「食事、か」


 かつてーー何処かから戻ってきて労働に戻った奴隷にどこで何をしていたのかと尋ねたとき、腹を満たすことで人は動くことができるのだと呆れたように教えられた。そして相変わらず、何も食べずに働くことができる私のことを「天性の奴隷」と嘲った。


「ーー反吐が出る。私はあれらの下劣な輩と同じに成り果てたか。糞ったれ」


 奴隷たちが用いていたような品性のない言葉が口から零れ落ちる。こんなはずではなかったのだ。天上にいることができていれば、私は心まで煤に侵されなかっただろう。


 ーーとはいえ。


 私を嘲った者は、見渡す限りにおいてどこにもいない。見渡す限りの向こう側には何があるのだろうかと、自暴自棄ながらも興味が湧いた。


 人が二人すれ違うのが精一杯の通路が山の中に沈んでいく。入り口を見下ろせる場所に官吏が立ち、奴隷たちの仕事ぶりを評価する。そのような穴があちこちに点在する。


 それらの穴を避けるように進んでいく。穴の出口は、ある中心に向かっているような気がした。


 やがて、それらの穴の群れを抜けた。


 なんてこった。なにもかも灰のように色を失っている。あまりにも見るに値するものがなくて目のやり場がない。


 青一色だった世界は、あんなに美しく輝いて見えたのに、なぜ白黒の世界はこんなに見すぼらしいのだろう。


 死んだ奴隷たちは知る由もなかったが、地上には砂漠という場所があることを私は知っている。しかしそれにしたって、砂には砂の色があるだろう。ここには何もない。


 ガサガサと足元から音がした。股を覗くように下を見れば、砂が窪み吸い込まれ、地面の奥に落ちこんでいるように見えた。


「おい、誰かいるのか? 脱走者か? 根性あンねぇ」


 サラサラと吸い込まれていく砂、その窪みの中から聞こえる妙にくぐもった声。足がすくむ。


 昨日の今日である。正体のわからない存在には警戒心を抱かずにいられる方がおかしいというものだ。


「う、うわ何をする離せ!」


「やっぱり人じゃンかよ! いるならいると返事をしろ不誠実だろ!!」


 地中から生えた腕に足を掴まれた挙句、不誠実と糾弾され、一向に相手の思惑が見えない。


「なにがどう不誠実なんだ、初めて会った者に全幅の信頼を置けるものか」


「ふん、匿ってやろうっつってんだ、恩に思われるならまだしも喧嘩腰とは納得いかねぇ」


 なんとも話が通じずじっと睨み合ったが、相手の視線がぐらりと揺らぐと同時に掴まれた足が揺さぶられ、自由な方の足の置き場を探そうとして砂に足を取られる。挙句に相手が足を掴んでいた手を離すものだから、私は顔面から砂まみれの地表に倒れ込む羽目になり、痛みのあまりじゃりじゃりと口の中で砂を噛んだ。


 ペッと唾とともに砂を吐き出してみれば、そこは砂まみれの……異空間だった。


「ここは……」


「俺の家さ。中々イカした内装だろう、誰かさんが派手に暴れて砂を撒き散らなけりゃもっとイケてたんだが」


 言葉の端々に事実誤認が含まれる。天使たるもの、即刻、冷静に訂正しなければならない。


「ここはお前の家だろうがそんなことには興味がない! さっきまで私たちがいたあの砂漠はどうした? そしてここはあの砂漠とどう関係する? 答えろ」


 相手はキョトンとした。文字通り、私の言葉に「返す言葉も見当たらない」といった風だった。


「あんたまさかーー落ちる、という感覚がわからないのか」


「その発想になる方がまさか、だ。昇ることがあれば落ちることもあるのは当たり前だろう」


「お前は今、落ちたのだよ」


 今度は私がしばらくの間沈黙する番だった。


「……は?」


「やはり、お前は空から落ちてきたんだろう。人じゃねぇな」


「な、何の話だ」


 藪から棒に核心をつかれてやや動揺してしまう。心臓の鼓動がトクンと跳ねる。バレてはいけないと思ってしまう。


「俺は知っているぞ。天上世界では浮力があり、よほどのことがない限りそこにあるモノは加速度的に落下せず、一定の速度で均衡状態になる。その隙に羽根を持つものは羽ばたけば、重力に引きずられて天上世界から脱してしまうことは、まずない」


 トクン、トクン……。胸を押さえてじっと歯を食いしばる。相手にこの顔を見せられるはずもない。天使、あるいはあの世界に住む有象無象しか知り得ないことを、なぜこの砂まみれの地下の住人は知っているのか。


「確かに、私にとって落ちるとは、自らの羽根で羽ばたいて制御できるものだった。そして、今私が制御できずみっともない姿を晒したのも事実だ」


「やっと理解したか」


「だが、それは私に羽根がないからだろう。あの砂漠からここに来るまでに一度も羽ばたくことができなければ、天使とて無様に落ちるはずだ」


 微かに柔和に、温かみを感じさせるようになった眼差しが、また一転して交戦的に変わる。


「やっぱりちっともわかっていねぇな天上人め」


 私は今、どこの馬の骨とも知らない不審な者に羽交い締めにされそうになっている。天使の威厳もあったものではない。


「やめろ、誰に向かってそんなことをしていると思ってんだ」


「あー堕天使サマ、か?」


 彼はそう言って鼻で笑った。

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