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第十九話 十日目 荒野

 天窓がミシミシと音を立て始めた。光を通す透明な板は分厚く重い。その厚みの中に波を見た。均一であることで真っ直ぐに部屋を照らしていた光が、気味悪く蠢き、部屋の床を這いずり回っている。


 危ない、逃げなければ。重い天板がこちらに落ちてしまえば、天使の強靭な肉体を失った私はなす術なく潰されてしまう。どこか身を隠す場所はないかと部屋を見渡すが、そんな場所は見当たらない。


 ここには柱はなく、地面を掘ってできた空間に天板を渡した構造だ。天板がない部屋は食物庫くらいだが、食物庫に窓はないため、逃げ込むと衝撃で崩れた土壁に埋められてしまう可能性がある。


 手に汗が滲む。あれほどまで天使相手に大見得をきっておいてこのザマかと自分に呆れる。だが、記憶を失った彼は危機を理解できず、眠りから醒めたばかりの子鹿のように無防備だ。


 ぬるり、天板の中の流動が生き物の目のような模様になった。体がすくみ、動けない。


「崩れる!」


 目の形をした渦は私に照準を合わせたように見えた。


 パリ、乾いた音がした。私は――咄嗟に彼の上に覆い被さった。重い天板は、降ってこなかった。代わりに、背中に矢を複数射られたような痛みがあった。矢は分裂し皮膚の下を荒らしまわり、鋭い痛みが走った。


 体の中心部を探し求めるように走り回る痛みが、皮膚から肉へと食い込んだ。痛みのあまり私は目を瞑ってしまった。身体中の皮膚表面に分散していた痛みが、その一つの肉への取っ掛かりに濁流のように流れ込む。一たび裂けた布は裂けた場所から続けさまに裂ける。私はその痛みが、胸の奥の鼓動に向けて進んでいることを感じ取った。


 矢の鋭利な先端が、心の臓に豊かに湛えられた命の水を突き破ろうかというとき、身体中から汗が噴き出て、えも言われぬ異物感が胸に込み上げて、視界が晴れるように痛みが和らいだ。私は周囲の状況を知らなければと思い、まぶたを恐る恐る開いた。


 天板から庇うつもりだった彼が、私の体の下にいない。そうして、視界にあるのは色も粒径の違いもない無機質な砂面と、その砂に半ばまで埋もれてしまった上腕部だった。


 緊張がほぐれ、腕から力が抜けて胴体が落下する。私は胸を強く打って、咳き込んでしまう。


 砂が口の中に入り込んで、息もしづらい。


「なんてザマだ」


 力なく転がって、腹を天に向けて空を見上げた。風一つ吹かず雲もない晴天で、すべてを塗りつぶしてなかったことにしてしまう暴力性すら感じられた。


 神は何のために私を地上に堕とし、何のためにこのような徒労を味わわせるのか。


 私が助けたかった彼と、彼の祖先が長きにわたり築きあげてきた天使の墓の作業場が、更地となって消え失せた。あたりをいくら手で探っても、天界と冥界の戦争で死んだ天使の成れの果ての砂粒の感触はなかった。私は、水平線だけが見える砂漠のただ中にいた。


「また一人か」


「そうでもないぞ」


 私の腕の中から消え失せたはずの人間の、聞いたことのないトーンの声がする。彼がかつて私に見せたことのない、少し楽観的で、間延びしたような、それでいて彼のものとはっきりわかるような声。


「あ、生きていたのですね」


 彼も消えてしまったとばかり思っていた。本当は心から安堵しているのに、乾いた感情しか表には出てこない。それは、彼の記憶が戻っているのかどうか、確信が持てないからだ。記憶のない彼にとって私は赤の他人だ。初めて会った者に馴れ馴れしく涙を流されても困るだろう。


「君が守ってくれたからだ。命拾いをした!」


 彼はあっけらかんとそう言って、私が寝転ぶ横に腰を下ろした。


「それは――よかった」


 どうしてか命は助かったが、彼の過ごした住まいは跡形もない。そのことをこの人はわかっているのだろうか。


 私は上半身を起こし、口の中の砂利を何度かに分けて吐き出した。そして、問うた。


「あなたは、何をしている人なのですか」


 彼は面食らったような顔をして私の方を向いた。


「なぜ君がそれを聞くの? 君はぼくが何者かを知っている、だから庇ったんでしょう?」


「それは――」


 私は答えあぐねてしまった。返答から察するに、彼は記憶を取り戻していない。彼こそ、私に記憶を取り戻す取っ掛かりを求めているのだ。彼を悲しませたくはないが、嘘をつきたくもない。彼が人生をかけて取り組んでいた志がもはや再開できそうにないことを教えるのは、はたして益か害か。


「あなたは……優しい人でしたよ」


「……そう。よかった」


 雲ひとつない空にツゥ、とひとつ流れ星のような雲が走った。その流れゆく先方向に、サラサラと砂を巻き上げるつむじ風が起こり、やがて消えた。


 つむじ風によって巻き上げられた砂が寄る辺を失って散り散りになるその様子を眺めていると、砂が落ちきった頃に、地平線の少し手前にそれまでは気づかなかった集落が確認できた。


「あっちに行ってみようか」


 どちらが言い出したのか、あるいはどちらも同じことを考えていたのか。いずれにしても、人はより多くの人と群れることを望むらしい。今の私もーー。

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