第十二話 五日目 午後
壁に取り付けてあった花壇を、彼がその土台ごとくるくると回転させて取り外す。そうして出てきた色褪せの少ない壁面には、爪の先でかろうじてなぞることができるほどの浅く細い窪みが迷路のように張り巡らされていた。
なにかの設計図かと思い、私は顔を近づけてそれをじっくりと観察した。彼は次の作業に差し掛かろうとしていたが、その手をとめて私の様子を見守ることにしたようだ。
一切の会話も手ほどきもなしに、私が天窓の開閉の仕組みを導き出せるか、というのが今日の午後の我々の楽しみになった。この模様そのものになにか意味が隠されていると思ったのだが、なにも見出せない。私の見当違いだったのか、模様が難解であって私が理解できないだけなのかも判別できず、私は大層不服に感じながら引き下がる。彼は鼻を鳴らしたようだ。得意そうで少しだけ腹が立つ。
天使の墓標を作るという崇高で、あまりにも時間のかかる生業に、作業環境というものが先祖代々二の次にされてきたことが彼の話から窺える。それが、彼の代で大きく改善した。彼が改善させたのだ。なぜか彼はずっと一人だったらしいから、そのことを自慢できる機会がやっと訪れたとあればこうなるのも理解できる。できるのだが。
私が先ほどまで顔を極限まで近づけて調べていた壁の模様に指を当てた……かと思うと、模様をなぞるようでなぞらず……指先はスイと花壇があった場所の右斜め上に飛び火して、模様も何もないところをトントントンと三度だけ叩いた。
何もないと思っていた箇所が、一部分だけ跳ね上がるように壁面から浮き上がり、浮き上がったところを指で手繰り寄せて、彼が少し爪先立ちになった。その壁面の一部分を、体重をかけて引き下ろすのだと理解できた。
「これは”会話”には入らねェからな。これから酷い音がするから耳塞いどけよ」
彼がそう言ったので私は耳に手のひらを当てた。次の瞬間、ギギギィィ……と、岩と岩とが軋み合うといったらこのことかと気が遠くなるほどの音が耳を劈いた。
「うわぁぁぁあぁあ!?」
慌てすぎて右耳には親指を、左耳には人差し指を突っ込んで轟音を和らげようとしたが、その効果は微々たるもので気が遠くなりそうである。
音が収まった。安堵し、腰から力が抜けた。
「これは”会話”じゃねェからな……ってめんどくさくなってきた。すまん、正直、ここまでの音は俺も想定外だった。耳潰れてないだろうな」
キィンキィンと金属を擦り合わせるような音が、彼の私を気遣う音声に混じってとても気が滅入る。
「ァ……大丈夫だと、思います」
自分の声が頭の中で反響している。大丈夫と言ったその場から全く大丈夫ではない。
「ーー悪かった。少し休もう」
彼の勧めに従って、私は少し横になることにした。耳鳴りのせいで自分がどんな体勢でいるのか確信が持てず、もしかしたら突っ立っているのかもしれないが。ついうっかり倒れてしまわないように体をこわばらせていると、彼が私の固く握られた手を解き、手のひらを下にして布団に触れさせた。私はそれて初めて、自分が横になっていることに確信を持ち、バツが悪くなって薄目を開けた。
「どうだ? 少しはマシになったか」
彼は囁くほどの小さい声で話しかけてくれる。私の耳を心配してのことだろう。
「耳は、たぶん、もう大丈夫です。あたまが、ぐらぐらします
「そりゃあ耳もまだやられているんだよ。無理をするな」
「すみません」
彼の自慢の天窓を見ることができなくて、なんだか申し訳ない気持ちになる。天窓の仕組みを私に話したくて仕方なかっただろうに。
「あーもうまた謝る、お前は悪くないのに」
「すみま……じゃなくて……。そういや、私がここに来たときにはこんな耳が破れそうな音しなかったように思うのですが」
「あぁ、それはな……あの日、鉱脈掘りの労働者が多数死んだだろ? てっきり天界の証言者狩りが来たんだと思って逃げるために無理に天窓をこじ開けたんだ。そのせいであちこちの部品が歪んでしまったらしいーーそれもいずれ直さねぇと」
鉱脈掘りの労働者の大量死ーー。
心当たりで骨身が軋む。あのとき、私の傲慢な心に醜い羽根を持つ堕天使が付け込んだのだ。そのせいで、私はこの地に「死」という罪を持ち込んだ。私を嗤い、囃し立てた官吏と奴隷たちとはいえ、唐突に「死そのもの」によって滅ぼされるべきではなかったーー
不思議なものだ。あれほど憎み滅ぼしたいと願った人間を、私は今、それほどまでに憎しみを以て思い起さない。
「どう、した?」
「いいえーー耳は治りました。作業に移りましょう」
彼は納得いかない様子で、しかし「あぁ。わかった」とだけ応じてくれた。




