第十話 二日目 指先
いつの間に眠りこけてしまったのだろうか。
まぶたに温かいものが触れたと思ったら、それは彼の指の腹だった。
「あぁ……すまねぇ、起こしてしまったか」
「……顔に何かついていましたか?」
顔にというよりは、特に目の当たりに触れていたとなると思い浮かぶのは目やにである。だが、そらを自分の口から言うのは、まるで夜もすがら泣き腫らしていたことを白状するようで気恥ずかしい。
「いや、その……なんだ。目に前髪がかかっていては気になるかと思って」
「そうでしたか。ありがとうございます」
礼を言うと彼は気まずそうに目を逸らした。そして、手に持ったものをグイとこちらに差し出してきた。私は半身を起こしつつそれを受け取る。
「これは?」
「神と冥界の悪魔との戦争の記録だ」
それならば、天使であった私も読んだことがある。戦争の発端と経過、その結末に至るまでの物語を私は知っているーーと言いかけたが、彼のことだ、これを私に渡すからには何か訳があるのだ、う。そう考え直して口を噤んだ。彼は私の顔をじっと見ていたようで、私が何も言わないのを見て話を続けた。
「これは天使のものとも悪魔のものとも違う。大地におり、非力で抗う術もなく大いなる力に巻き込まれたヒトという種族のものだ。大怪我を負ってすぐ死んだ者、生き残ったが自ら命を絶った者、長く生きたが記憶が不鮮明な者。様々な人々の証言をまとめてある。一貫性もなければ資料としての価値もない、そんな品物だ」
「戦争の舞台となったこの大地の、血の証ですね。読みますーー戦争の正当性に関係なく、私は加害者の側ですから」
読まなければいけない、と思った。天上にいたときは、無条件に悪いモノは取り除かなくてはいけないと思っていたし、悪性腫瘍を完璧に取り除くためには健康な組織を削り取ることも已む無しと考えていた。
ーー本当に、天上ではそう呼んでいたのだ。人の群れを、単体で命を構成するモノたちを、より大きな命の維持管理のためならば捨ててもいい対象かのように。
繊維の粗い植物を撚って作ったのか、紙を綴じている紐が大きくゴツゴツとしており、頁をめくるのにも苦労する。それでも、開いた面を手で押さえつつ、少しづつ読み進めた。
木の実の大いならざる年、天から光の矢が放たれて我が民は多数死に絶えた
他ならぬ我が身も、臓腑から頽れていく呪いにかかり長くは持たぬ
善き王であれなかった朕はせめて、滅びゆくこの世界を、できるだけ多く書き留めて後の世に残したい
渡された書物は、そんな一節が初めに書き記されていた。その文字は擦れ、力無く、書き手の避けられぬ運命を物語っているようだった。
彼が砂粒を選り分ける音がする。私は宙を仰ぐ。
戦争の起きたとき、地上には為政者がいた。そんなこと、知らなかった。
地上には為政者などいなかったとそう教わったわけではない。そんなことは天上の歴史書には書いていなかった。押しつぶし、多数死に至らしめた者たちなど存在しなかったかのように。
私は取り憑かれたかのように頁を捲っていく。
そこには、あまりにも惨たらしい地獄絵図が繰り広げられていた。
天使の威光に打たれ、固まってしまった一人の人間は、たった一度の「伏せよ」の言葉に従わなかったせいで天使の発する太く明るい光に一瞬で飲み込まれ、以後骨すらも見つからない。それを見てしまったがゆえに目が潰れ四肢がもげた生存者の証言である。
王にまみえるため城下町の門を通過したばかりの商人は、何らかの戦闘の衝撃で崩れ落ちた城壁の下敷きになり、何日も経ってやっと助け出されるも、悪い血が体内を巡ってしまい急死。人が人の命を救う医療は機能せず、救い出したはずの命が消えていくのを誰も止められなかった。
我が主人、主神は善悪を裁き報いを与える神であって、人の群れ、あるいはありとあらゆる被造物の栄えのために必要な知恵を与える神でもあるはずだ。
主神の命令、あるいはその名代の命令に従わないことは悪である。ならば、当然裁かれるべきである。罪の報酬は死であるからに。ーーだが、そもそも戦争を起こしたのは神と悪魔であって、ヒトではない。そこに戦争が起こらなければ、光の柱に焼き殺された者が罪を犯すこともなかった。
神は人に、伝染する病から自らを隔離するという知恵を与えた。それは人の手によって、病者は共同体からの追放を申し渡すという掟になった。それは長いヒトの歴史の中で、医療を神の掟の下位に位置付ける結果をもたらした。自らを救う術を見つけた人間が、同胞を救えない悲劇を目の当たりにするのは。その直接的な原因は。
読み終えた頃には、私は奴隷として働いたどんな労働よりも疲れ果てていた。そして、一つの結論に至る。
善と悪とは、画一的に判断することはできない。
私はまた、宙を見上げる。なんとなく、彼がこれを私に読ませた理由がわかった気がした。




