第一話 死肉の匂い
ざく、ざくと地を足で踏みしめる度に、柔な皮膚が悲鳴をあげる。自分一人の体重だけではなく、ずしりと重い石炭を背に抱えているなら尚更だ。主神から随一のものとお褒めに与った白く艶やかな髪も、今や赤茶けた煤に染まっている。
「痛い、痛い、忌まわしい! なぜ、私が、このように」
ーー天使の足は地を歩くようにはできていない。で、あるがゆえに。ヒトのそれよりは一回り小さく造られている。しかし、それは背に羽根があればこそ。今の私には背に羽根はなく、ただ足を血に染めて歩むしかないのだ。
周りの奴隷たちが私の背後に目をやった。
嫌な予感がした。振り返ると、官吏が重心をかける脚を変えていた。ニヤつきながら指をポキポキと鳴らし、獲物を狙う獣のように首を傾げる。
ここでこき使われて長い。あれは、かれが暇を持て余して手軽な快楽を探し始める合図だ。目をつけられる前にここを離れなくては
「おい、奴隷脚。ちんたらしていないで働け! お前がどれだけこなそうと、仕事が減ることはねぇからなァ」
「恵まれてんだから、ちっとは役立てなよな。俺たちの分もテメェがやれよ」
官吏が肩を揺らし、同じ境遇の奴隷たちさえもそれに追随する。彼ら奴隷たちの足には麻縄の痕が痛々しくついていた。
奴隷として買われた者は、逃げ出せないように足を縛られて小さくされる。私の足は、元から小さい。奴隷として適したように生まれてきたのだと誰もが嗤う。
「五月蝿い」
「アァ? なにか言ったか」
「こっちはお前のために重いものを運んでいるんだ、少しはその腐った口を慎め」」
「く、笑わせる。奴隷風情が俺に指図か。ずりずりと摺り足で地面を這うしか能のない輩に舌などとは、過ぎた贈り物よな」
官吏の足は獣の革で作られた袋で包まれており、痛みとは無縁なようで憎しみすら覚える。天使ともあろう者を顎でこき使う彼こそが身の程知らずであることを分からせたいが、今の私に力はない。
口惜しい。羽根を失った背中の傷がうずく。
「やっちまいましょう、お役人様」
「舌の根千切ったらその分もっと働くんじゃねェか」
背中の傷のあたりにゴツゴツとした石が挟まったような感覚があり、籠の背負い紐が肩にキリキリと食い込んだ。そんな石が落ちてきた覚えがなければ籠と背との隙間に入るとも思えない。
あぁ、羽根が生え力が戻ったならば、この小汚い輩たちを一発で消し炭にしてやるのだが。
「人もどきがごちゃごちゃとーー」
天使のように世の理を維持するでもなく、神のように万里を支配するでもなく、同族を虐げて偉くなったと勘違いするような、繁栄の道を自ら閉ざす愚か者が。
苛立ちと憎しみが募る度に、背中の傷がズキズキと脈動するように痛んだ。
『やぁ。羽根、取り戻したくない?』
痛みが、消える。心のうちで龍のように荒ぶっていた怒りも、波一つ立たない湖のように一瞬で静まり返った。
聞き覚えのない声に、感覚が研ぎ澄まされ、凪になる。
『ね、見て見ぬふりしないでよー。会ったことあるよね? ね? ほら、天上であんなことやこんなこと……いっけね☆ あれを喋るとオレの舌がもがれてしまう』
「あんなことって……なんだ」
『知りたい? だったらさ。オレの部下になりなよ。こっちは福利厚生って言うの? しっかりしてるからさ。その足の傷も労災下りるよ、うちならね』
どこから聞こえていたのかわからない声が、妙に形を伴って浮き上がった。赤茶けた風景は深い闇に取って代わった。
それには痩せた人の手のように骨が浮き上がり羽毛もない病的な羽根と、頭の皮膚を突き破って一本のツノが生えていた。
『そもそもオレは君にそんな傷を作らせたりはしないんだけど』
私には、地に堕とされた経緯の記憶がない。その記憶の手がかりを、この得体の知れぬ”羽根持ち”が知っているのだとしたら。好奇心が静まり返った心にさざなみを立てる。
天上が恋しい。主神にまみえ、使命を言い渡されるときの、身体中が泡立つような快感。必要とされているのだという実感があった。
こちらでも、私は必要とされているーーただし、それは便利な道具として。やはり、私は羽根を持ち天で働くのがあるべき姿なのだ。私はそのように作られたのだから。
「私がなぜ羽根を失ったのか、お前の配下になれば分かるのか」
『わかるかもしれないし、わからないかもしれないね』
「私は天上に戻りたい。そのためには羽根がなければならぬ」
骨ばった羽根を持つ彼は片方の眉を上げた。
『なるほどね。君のアキレス腱は羽根か』
「何か言ったか?」
『いいや。そんなことより、オレは約束する。君は羽根を取り戻すことになるよ。天上に戻れるかどうかはわからないが。ーーあぁ、それはこっちが余りに居心地がよくて帰りたくなくなるかも』
「それはありえない」
『しれないという……ふふ』
最後まで言い終わらぬうちに否定したら、彼は目をスゥと細めた。
『そうかい。まぁいいよ。なぁ、こっちに来る決心はついたか『やめておきなさい』』
目の前にいるはずの者から発せられる声が二重になり、片方は肩越しに後ろから聞こえた。耳元で囁かれたような感覚に私は恐れを以ってして振り返る。しかしそこには誰もいない。
骨ばった羽根を持つ彼が、苦虫を噛み潰したような顔をした。
『なんてこった。そんなにコイツがきになるかね』
オレのときはあんなにも無関心だったのにな、と呟く声が風に乗って私にも聞こえた。私の前にも、堕天した天使はいた。そのうちの誰かということだろうか、目の前にいる気味の悪い羽根の男は。
男がチリのように吹き曝されて吹雪のように散っていく。入れ替わりで私の意識も遠くなり、足を踏み外したようにふらふらと重心を見失う。あちこちに手を伸ばして、空を切って、やっとのことで掴んだのとのはヌルヌルと嫌な感触がした。
「う、うわぁっ!?」
蝿が私の腕を伝って私の肉を啄もうとする。蝿たちの黒い群れの中に埋もれた私の手先からは、腐った肉がズルズルと骨から崩れ落ちていく感覚があった。
つい先程まで私と同じように石炭を背負い歩いていた奴隷の一人が、死んでいる。どうやら、彼一人ではないらしい。官吏もまた、ハゲタカに死肉を食われるがままにしていた。
頭蓋にーー直接髪が生えている。そんなはずはないとよく目を凝らせば、それは腐肉をせっせと運ぶ蟻の群れであって。目まい、そして胸のあたりにまさに噴火直前といった様相のマグマの沸騰
そこで初めて、私はかの”羽根持ち”が「死の具現」であったことに気づいた。「死そのもの」であり、「死をもたらす罪そのもの」でもあった。私は主神に反逆した、冥界の王の陣営に取り込まれようとしていたのだ。
官吏も死んだ。私に石炭を運べと命ずる者はいない。奴隷の足枷が消えたというのに、私は炭鉱に無様に立ち呆けている。
一日目。私の羽根はまだ戻らない。