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この作品には 〔ガールズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

彼女は人魚を飼っている

作者: 雪葉 白

四月。それは学生に度々訪れる新しい始まりの月である。

けれども、私にとってそれは昨年のこと。

中学生になって二年目ともなれば、もう登下校にも慣れ、勉強にも慣れ、友達もそこそこ出来て、割と良い学生生活を送っていた。


ただ一つ、慣れないことがあるとすれば。


新学期が始まってから一度も姿を見せない、私の隣の席の人物についてだ。


確か名前は、(たちばな) 水那面(みなも)


昨年から彼女と同じクラスメイトに話を聞いてみると、どうやら彼女は昨年の夏休み明けから学校に来なくなったという。

理由は誰も知らないらしく、憶測が飛び交い出した会話から早々に離脱して自分の席に戻る。


隣の席を見る。主が不在のまま二週間も経てば、机上には薄らと埃が積もっていた。

私はそれを軽く手で払う。クラスメイトはもう誰も気にしていないようだが、私は何故だかずっと、彼女のことが気になったままだ。


(かなた)、行くよ〜?」

「早く早く〜」

「! い、今行く!」


今年の春から仲良くなった友人である杏奈(あんな)(まい)に呼ばれ、慌てて次の教科の教科書を手に立ち上がった。

まだ昨年から友達である二人の会話についていくことは難しいが、仲の良い友人と今年からクラスが離れてポツンとしていた私に声を掛けてくれた良い人達だ。


今日も、楽しく会話をする二人の後ろをついて歩く。二人の会話を聞いているだけで楽しい。だが聞いているだけなので、つい、考え事もしてしまう。


(……なんで学校来ないんだろ)


そんな時に頭に思い浮かぶのは、やっぱり彼女のことだった。


________________________


それはある日のことだった。

きっかけは些末な事だったのだが、杏奈と喧嘩をしてしまったのだ。

相手が謝るまで話さない! とお互いに強情になって数日が経った。今までは何とか一人でも過ごせていたが、よりにもよって今日は月に一度のお弁当の日だ。


この日だけは仲が良い者同士で席をくっつけ合って食べて良いことになっており、その決まりのせいで今の私には一緒に席をくっつけてくれる友達がいない。

ちらりと杏奈の方を見る。相変わらず、つんとそっぽを向いて目も合わせようとしない。それについては私も同じだが、杏奈と一緒に行動している舞は気まずそうにこちらを見ていた。舞はこの喧嘩には一切関与していない為、どちらの味方をするべきか分からず困っているのだろう。私と杏奈とでは友達として過ごしていた期間の長さが違うので、とりあえず杏奈と一緒に行動している、という様子だった。


私は気にしないで、と首を横に振った。

しかし、どうしたものか。小さくため息をつきながら周りを見れば、もうある程度グループが出来上がってしまっていた。このままではぼっち飯をすることになる。冷や汗が額を滑り落ちていった。


既に他人の目が気になり出した私は、担任の先生がいないのを良いことに、お弁当を持ってそっと教室を抜け出した。


階段を下りながら、再びどうしたものかと悩む。教室を出たは良いけれど、食べる場所の当てなんて無い。


空き教室? 屋上……は常に鍵が閉まっていて入れないんだった。となると残るは……まさかのトイレ?

それは絶対に嫌だ。


踊り場で立ち止まり、ため息を大きくつきながら窓枠に凭れ掛かる。

何気なく窓の外を眺め、ふと目を止めた。裏庭の奥に、丸太を半分に割って足をくっつけただけの小さなベンチがあった。周りは木に囲まれているし、裏庭だから目立たない。しかも、利用者も今のところいなさそうだ。


私は急いで階段を下り、裏庭へ向かう。思った通り、そこは意外な隠れスポットだった。静かで、近くに生えている木が良い具合に影を作ってくれて、ベンチの状態も思いの外良い。


私は手でベンチの表面を撫で、ささくれ等が無いかを確かめてから腰を下ろした。漸く落ち着いてお弁当が食べられる。はぁ、と安堵のため息をついて、膝の上に置いたお弁当の袋の紐を解いた。


その時、小さな足音がこちらへ近付いてきた。


「あれ、珍しい。先客がいる」

「!」


驚いて振り向くと、そこには一人の少女が立っていた。緩くパーマがかった長い綺麗な黒髪に、ぱっちりと大きい藍色の瞳。整った眉に高い鼻に、それらが綺麗に収まっている小さな顔。色白の肌と、すらっと長い手足。


「……だ、誰?」

「それはこっちのセリフなんだけどな」


こんな子、この学校に居ただろうか。どこか浮世離れした雰囲気すら感じるその彼女は、お弁当を取り出そうとしたまま固まっている私を見て腕を組んだ。

拍子に、ガサリとビニール袋が音を立てる。ビニール越しに薄らとサンドイッチやジュースのパックが見えた。どうやら彼女もお昼をここで食べようとしていたらしい。


「貴女も、ここで食べようとしてたの?」


聞くと、彼女はムッとしながら「私が先にここを見つけたの」と呟いた。


「ま、でも先客が居るなら良いよ。私は違うところに行くから。じゃあね」

「あ、待って!」


小さくため息をつきながら踵を返す彼女を、慌てて呼び止めた。私は何も、一人でお弁当を食べたいなんて言ってない。他人の視線を気にしながら食べたく無いだけで。私と同じ、()()なら話は別なのである。

振り返り、「何?」と首を傾げる彼女に、私はベンチの端へ移動しながら言った。


「一緒に、食べない?」

「……別に、良いけど」


気まずそうに目を逸らしながら答えた彼女に、私はぱぁっと目を輝かせる。隣へ促すと素直に座った彼女は、俯いたままビニール袋からサンドイッチを取り出した。


「私、二年の宮原(みやはら) (かなた)って言うの。貴女は?」

「言っても、どうせ分かんないよ」


ぽつりと呟いた彼女に、私は首を傾げた。そりゃあ、別の学年、別のクラスなら分からないだろうけど、そういう意味で聞いたわけじゃないのに。


「貴女と仲良くなりたいだけなんだけど、駄目?」

「…」


彼女は私の顔を見て、また目を逸らす。少し悩むように口をぎゅっと閉じて、やがて答えてくれた。


(たちばな) 水那面(みなも)。私も、二年生だよ」

「そっかぁ! 同級生なんだ!」


言いながら、あれ? と引っかかった。水那面という名前、どこかで聞いた覚えがある。確か……そうだ。


「……もしかして私の、隣の席の人?」

「え?」


水那面は手を止めてこちらを見る。返答が予想外だったらしい。


「私の隣、ずっと空いてるの。名前だけは知ってたんだけど、もしかして、貴女?」

「……っ、やっぱり帰る」

「え?! ちょっと待って!」


不快そうに眉を顰めた水那面は、封を少し開けたサンドイッチを再びビニール袋に戻して立ち上がる。そして足早に去ろうとした水那面の手首を慌てて掴んで止めた。


「離してよ。どうせ貴女も、迷惑だと思ってるんでしょ」

「え、迷惑? って、違くて。あの、私もね。教室に居づらくてここに来たの」

「……そうなの?」


私の言葉に、水那面の険しい眼差しが少し和らいだ。


「うん。ちょっと友達と喧嘩しちゃって。ほら、今日ってお弁当の日でしょ? 教室だと一人で食べなきゃいけないから、しんどくて」

「……そうなんだ」


水那面が足を止めてくれたため、そっと手を離す。「良かったら一緒に食べてくれない?」ともう一度誘うと、今度は快く了承してくれた。


「それで、何がきっかけで喧嘩したの?」

「聞いてくれる?!」

「う、うん」


愚痴を聞いてくれる友達もいなかったので、思わず食いついてしまった。私の勢いに体を引いた水那面を見て少し冷静になり、元の位置に戻った。


「きっかけは、消しゴムだったんだ」

「うん……うん?」

「私友達が二人いるんだけど、その内の一人が消しゴムを忘れた日があってね。たまたまその日は二つ持っていたから、一つ貸したの。けど返された時に消しゴムを見たら、角が全部使われてて。私は裏の角は使わない派だったから、「なんで使うの」って思わず強めに聞いたら、相手も「別に良いでしょ」って言い返してきたんだ。私、その言い方にムッとして、気付いたらそのまま言い合いに発展して、ついには喧嘩にまでなった次第でして……」

「……何それ、凄いくだらない」


全て聞き終えて水那面は呆れたようにため息をついた。


「え?! そんなこと無い! 私にとっては凄い大事なことだったんだから!」

「あ、え、ごめん」


私の剣幕に押され、水那面は慌てて謝罪する。


「……でも、それで教室から居場所が無くなるなんて、おかしな話じゃ無い? 喧嘩相手の味方をするわけじゃないけど、どちらかが譲歩しないとまたお昼一人になると思うよ」

「…」


水那面の尤もな意見にぐっと口を固く結んだ。


「で、でも、そしたらまた橘さんが一緒にお昼食べてくれたら良いし」

「雨の日は流石に外に出ないよ」

「ぐ……じゃ、じゃあ教室で一緒に食べてくれたら良いじゃ無い」

「嫌だ。私は、行かない」


私の言葉に被せるようにピシャリと拒絶され、その冷たい声色に驚いて思わず水那面の顔を見てしまった。

水那面は私の視線に気付くと、気まずそうに目を逸らしながら、上を向いて小さく呟いた。


「だって、あそこ(教室)は息がしにくいんだもの」


水那面は溜め息をついた。その口から、ぷかりと泡が浮かんだ。

私は思わず目を擦る。見間違いだろうか。うん、多分そう。もう一度水那面を見た時には、泡は消えて無くなっていた。


「何?」

「ううん、なんでも。……あの、ごめんね」


謝ると、水那面は悲しそうに目を伏せながら「貴女のせいじゃ無いよ」と言った。


それから暫く、沈黙が続いた。


「お、お弁当食べよっか! 時間なくなっちゃう!」


焦ってわざと明るくそう言うと、水那面もやっと頬を緩ませて「そうだね」と頷いてくれた。


お弁当の蓋を開き、甘い卵焼きを箸で摘んで口に運ぶ。もぐもぐと咀嚼しながら、さっきのことを思い出していた。


浮世離れした雰囲気。綺麗な見た目。すらっと長くて白い脚。それに、さっき口から浮かんだように見えた、あの泡。


水那面は、まるで___


(……人魚、みたい)


そんなことを考えて、ゴクンと飲み込んだ。


____________________


それからも私達は、昼休憩の時に裏庭のベンチで会うようになった。


変わらず水那面は教室には来なかったが、昼休憩の時間にあのベンチで待っていると必ずやってきてくれる。

その手には何かしらお菓子を携えていて、私達はそれを食べながら昼休憩の三十分間、なんてことない会話をしながら過ごしていた。


「で、まだ仲直りしてないの?」

「…」


あの日から定期的に聞かれるようになったこの話題に、私は苦い顔をしながらお菓子を口に放り込んだ。

今日はアーモンドチョコ。その甘さに、少しだけ表情が和らいだ。


「だって、私は悪くないじゃん」

「まぁ、そうだね」

「でしょ?」

「でも、人によって大事なものの基準は変わるでしょ。叶は消しゴムの角が大事でも、その子にとってはなんてこと無いことだったわけで。最初に一言言っておくとかしないと防げなかったんだよ。……まぁ、謝らないその子もどうかとは思うけど」

「……う"う〜〜ん」


水那面はいつも正論を突きつけてくる。私も分かってはいるけれど、でも、譲れないものはある。

難しい問題に直面し、唸りながら頭を抱えた。


「早く仲直りしなよ。一人は寂しいんでしょ?」

「寂しいぃ……水那面、一緒に来てよ〜」

「やだ、って言ってるじゃない」


泣き真似をしながら水那面の肩に凭れ掛かる私に、水那面は呆れたように笑いながら返した。


大分仲良くなると、水那面はこういうジョークにも付き合ってくれるようになった。最初は、うっかり「一緒に来て」と言ってしまったのがきっかけだったのだが、落ち込む私に水那面は笑って「いやだよ〜」とフォローしてくれたのだった。


肩に凭れたまま、水那面を見上げる。


「私がいても駄目?」

「意味があるとでも?」

「ひどっ」


サッと離れて抗議の目を向けると、水那面は笑いながら立ち上がった。

もう昼休憩が終わる時間だ。


「早いところ仲直りしなね。結果、待ってるから」

「……善処はしまーす」


背を向けながら、水那面はひらひらと手を振った。


水那面はいつもきっちりと昼休憩が終わる時間に帰ってしまう。体内時計が正確すぎるのだ。


もっと喋っていたいのに、今日も無慈悲に予鈴が鳴る。


(……戻るか)


憂鬱になりながら教室へ戻った。

扉を開けようと手を伸ばすと、触れる前に扉がガラッと開いた。


「「!」」


顔を上げた先に居たのは杏奈だった。


「「…」」


膠着したまま、お互いに何も言えないでいた。


「……どいて、くれる」


ぼそりと杏奈が呟いた。私は俯いてそっと横にずれる。

すれ違う瞬間、杏奈の顔が一瞬ちらっと見えた。気まずそうな、困った顔をしていた。きっと私もそう。


(分かっては、いるんだけどな)


こんなの、くだらない意地の張り合いだ。でも、分かってはいてもなかなか自分から折れることが出来なかった。


とぼとぼと自分の席へ戻る。舞がこっちを見ている気がしたが、机に伏せって気付かない振りをした。


隣を見ても水那面はいない。寂しくて涙が出そうだった。


(一緒にいてよ〜……)


やっぱりその日の授業も、全然集中出来なかった。


長い授業が終わり、部活動の時間になった。部活は幸いにも、友達二人とは違う部活にしていたので気分が軽かった。


いそいそと準備をして向かおうとしたが、途中で今日は休みである事を思い出した。


(……忘れてた)


体の向きをくるっと変え、下駄箱へ向かった。

上履きを脱いで下手箱にしまっていると、隣に誰かが立った。

ちらりと隣を見て、思わず「あ」と声が出る。そこに居たのは杏奈だった。


「……何」

「……なんでも、ないよ」


冷たい目で見られて、目を逸らす。さっさと先に行こうと思い急いで外履きに履き替えると、足早に玄関へ向かった。


「……あ、のさ」


ピタリと、足が止まった。久しぶりに、杏奈に話しかけられた。


「な、何?」


振り向けないまま答えると、杏奈は無言で私の後ろに立った。

緊張で身を固くしていると、予想外の言葉が聞こえてきた。


「……あの時、ごめん、ね」

「……!」


声を震わせて呟かれたその言葉に、私は驚いて振り返った。そこに立っていた杏奈の顔は今にも泣きそうにぐずぐずで、固く握った拳からは緊張していることが充分に伝わってきた。


「な、なんで、急に?」


戸惑いながら尋ねると、杏奈は俯きながら答えた。


「……あ、謝らなきゃとは、思ってた。けどっ、だって、言いづらくて。話しかけるタイミングも無いし、勇気も、無かったし」


段々、杏奈の声が湿り気を帯びてくる。ぽたっと、水滴が杏奈の足元に落ちた。その直ぐ後に、ぽたぽたっと更に水滴が落ちる。しゃくり上げる声も聞こえてきた。


「……ごめん。私、すぐ謝れなくて、ごめんっ……」

「……っ」


私は、杏奈に抱きついた。


「わ、私も、ごめんねぇぇ!」


抱きつきながらわんわん泣くと、杏奈もとうとう本格的に泣き出した。

二人で玄関で泣いていると、奥から舞が慌ててやってきた。


「な、なんで二人で泣いてるの〜」


持っていたハンカチで涙を拭ってくれるが、一つしか無いので変わりばんこにハンカチが当てられる。

それが面白くてつい笑うと、いつの間にか杏奈も泣き止んでいた。


「……今日、そっちも部活休みだったんだ」

「……うん」

「そうなの、偶然だよね〜」


久しぶりに、三人で帰り道を歩いた。まだ気まずさが残る私と杏奈に対し、舞は私達がやっと仲直りして安心したのか嬉しそうに喋っていた。

杏奈はそれがなんとなく恥ずかしいらしく、舞の頬を軽くつねりながら口を開いた。


「さ、最近、昼休憩の時どこに行ってるのよ」

「あ、えーっとね」


言っても良いんだろうか。少し迷い、心の中で水那面に聞いてみた。すると、心の中の水那面は絶対嫌だと首を横に振った。


「……まだ、内緒!」

「え? 何でよ」


私の回答に、杏奈は納得できないと首を傾げた。


「また今度紹介するから」


丁度二人との分かれ道だ。振り返って手を振った。


「またね!」


またこうやって言えることが、とてつもなく嬉しかった。


〇〇〇


「やっと仲直り! 出来ました!」


翌日の昼休憩の時間、私は胸を張って水那面に昨日の報告をした。


「おめでとう。良かったね」

「うん! 見て見てこれ」

「?」


ガサゴソとポケットをまさぐり、私はある物を取り出した。


「ごめんねって、これくれたの」


それはあの時杏奈が角を削り落とした消しゴムと全く同じ消しゴムだった。

それを聞いた水那面は、ぷっと吹き出した。


「な、何それ。凄い良い友達じゃない」

「でしょう! 水那面に見せようと思って」

「……そっか。ありがとね、見せてくれて」

「うん! こちらこそありがとう、いつも話聞いてくれて」

「どういたしまして」


柔らかく微笑んだ水那面は、お菓子を摘んで口へ運んだ。

今日はじゃがりこ。水那面の口から、サクサクと小気味いい音が聞こえてくる。

いつも水那面が買ってきてくれるので、今日は私が選んだものを買ってきた。


「あ、そうだ。約束してた本、持ってきたよ」


消しゴムをポケットに仕舞いながら、今度は鞄をゴソゴソと漁る。そして三冊の小説を取り出すと、水那面にはいと手渡した。


「ありがとう。これが面白いって噂の?」

「そうそう! 絶対面白いから、読んでみて」

「分かった。いつまでに返したら良い?」

「ゆっくりで良いよ。いつでも」


そう返してじゃがりこに手を伸ばしたところで、あっと思い出した。


「あと、あのね。友達に貴女のことを紹介したいんだけど……」

「別に良い」


途端に、スパンと言葉が遮られる。さっきまで微笑んでくれていた筈の表情は、冷ややかな真顔に変わっていた。


「そんなこと言わないで。ね、少しでも良いから。放課後なら教室に人も居ないよ」

「その人達がいるじゃない」

「紹介するんだから当たり前でしょ。二人とも、とっても良い人なんだよ。だから貴女のことを紹介したいの」

「良い人なのは分かってるけど……でも」

「……お願い」


両手を胸の前で組んでお願いすると、水那面はぐっと眉に皺を寄せて数十秒黙り、やがて大きな溜め息をついた。


「……分かったよ。でも行くだけだから。話すのは叶ね」

「ありがとう! って、え? 何じゃそれ!」

「何でも。譲歩は無し。異論も認めないから」

「わ、分かったよ」


諦めて頷くと、水那面はお菓子をポリ、と噛みながら俯いた。


そして時間は過ぎ、とうとう約束の放課後になった。


「それじゃあ、紹介するね。杏奈ちゃん、舞ちゃん、こちらが橘 水那面さんです。それで、水那面。こちらが杏奈ちゃんと舞ちゃんです」

「よろしくね」

「どうも〜」


私の紹介に合わせて一言添えてくれる二人に、水那面は表情が強張ったままぎこちなく会釈をした。

知らなかったのだが、水那面はかなり人見知りをするタイプらしい。

教室に入る時からずっと、私より身長が頭半分分高い癖に私の後ろに隠れている。さっきの会釈だって、私の後ろからだった。


すると突然、杏奈が苦笑しながら衝撃的なことを口にした。


「……と、いうか。私達って橘さんと初対面じゃ無いのよね」


思わず「え?!」と大声を出すと、舞も「そうなんだよね〜」と頷いた。


「私達と橘さん、一年生の時同じクラスなのよ」

「……知らなかった」

「聞かれなかったし、叶が今日まで教えてくれなかったからじゃない」


それはサプライズのつもりだったからだ。しかしそうなると、自分が今していることのあまりの無意味さに呆然としてしまう。


すると、それに気付いた杏奈が咄嗟にフォローを入れてくれた。


「ま、まぁでも? 橘さんとは途中から会えなくなっちゃったし、ほぼほぼ初対面みたいなものよね!」

「……っ」


『途中から会えなくなった』という杏奈の言葉で、肩に置かれている水那面の手が僅かに震えた。

「だね〜」と舞が合いの手を入れるのを聞きながら後ろをそっと振り返ると、水那面の顔が真っ青になっていた。


「水那面……?」


小声で話しかけるが、私の声が聞こえていないらしい。水那面は視線を一点に集中したまま唇を震わせていた。


「ねぇ、大丈夫?」


水那面の手に触れると、氷のように冷たくなっていた。驚いて咄嗟に手を握ると、水那面の手がビクリと震えて引き抜かれてしまった。


「水那面っ」


何かおかしい。水那面の明らかな異常にやっと気付き、体を後ろに向けた。


水那面は手を握りしめながら、何かに怯えるように体を震わせていた。


「ご、ごめん。ごめんなさい。あ、う……えっと……ごめんっ……」


水那面は俯いて呟き、最後に一瞬私の顔を見て、教室から走って出て行ってしまった。


「え、水那面?!」


水那面の背中へ手を伸ばしたが、遠すぎてもう届かない。


分からない。何が起きたのか。何で怯えていたのか。何で出て行ってしまったのか。全然、分からない。


「なんで……」


泣きそうだった。でも、泣いていたのは水那面の方だ。

水那面が私を見たあの一瞬、涙が目尻に溜まっているのが見えた。


「……っ」


とにかく、水那面を一人にしてはいけない。


私は後ろを振り返り、事の次第が分からず戸惑っている二人に声を掛けた。


「ごめんっ! 私、追いかける! 折角時間作ってくれたのに、ほんとごめんっ……! 今度ちゃんと謝るので、今は行かせて欲しい!」

「良いわよ、行ってきなさい」

「頑張ってね〜」

「ありがと!」


二人が頷いてくれたのを確認してから走り出した。


走る足は自然とあの場所へ向かう。階段を駆け降り、靴を履き替え、裏庭へ___二人の秘密の場所であるベンチへ辿り着いた。


水那面はやはりそこにいた。ベンチの上で足を両腕で抱え、そこへ顔を埋めて小さく丸まっていた。


私は息を整え、ゆっくりと水那面の元へ向かう。そして、水那面の隣へ辿り着いた。

水那面は何も言わない。「ここ、座るよ」と前置きを入れ、私は水那面の隣に腰を下ろした。


サワサワと木の葉を撫でるような風が吹いていた。


私は目を閉じて、水那面に凭れ掛かる。水那面が落ち着くまで、ずっと待っているつもりだった。


「……怒って良いよ」


水那面はぽつりと呟いた。

私は何も言わないでいた。言わないでいると、水那面は腕の中から目だけ出してこちらを伺い見た。


「……怒ってる?」

「ううん、怒ってない」


私は首を横に振った。しかし、「嘘」と言って水那面はまた腕の中に隠れてしまった。


「台無しにしたじゃない」

「なってないよ。また機会を作れば良いんだもの」

「でも、私、行きたくない」


水那面は更にギュッと体を縮こめた。大人の機嫌を伺う子供のような、心細さが声に現れていた。


「ごめんなさい。どうしても、行きたくないの」

「…」


私は俯き、水那面の腕に自身の額を軽く乗せた。


「理由は、まだ聞いちゃ駄目?」

「…」


水那面は少しの間沈黙し、やがて「うん」と頷いた。


「分かった」


じゃあ、仕方ない。私はスマホをポケットから取り出すと、杏奈と舞へのメッセージにしばらく会う機会は作れないことを打ち込み、送信する。その返事が来たことを確認して、スマホを再びポケットへ仕舞う。


「今日、帰りは?」

「……あと十分したら、親が迎えに来てくれる」

「じゃあそれまでここにいよ。隣、居ても良い?」


聞くと、水那面は再び腕から目だけを出して「居てほしい」と答えた。少ない文字数に対して、目が強く寂しいと訴えていた。

そのいじらしい姿に胸がキュンとして、私は思わず水那面を自らの体で包み込むように抱き締めた。


驚いて体を固くした水那面は、やがてゆるゆると脱力していく。


「何するの」

「落ち着く?」

「……落ち着かない。けど私、貴女の手は結構好きかも。あったかくて、それにとっても、良い匂い」

「?! ……」


私の腕に頭を預け、すぅっと匂いを嗅がれる。驚きと恥ずかしさで何か言おうと思ったが、水那面の目尻に涙が滲んでいるのが見えて口を閉じた。


「……もー、好きなだけ嗅いで」


負けを認めつつ頭を撫でてやると、水那面は目を閉じたまま静かに笑った。


「ねぇ、もう少しこのままでいて」

「このまま?! 結構体制がヘビーなん、だけど」

「ふふ、頑張って」

「ううんん頑張りますよ、もう!」


悲鳴を上げつつある腰に鞭を打って、私は水那面の迎えが来るまでずっと頭を撫で続けた。


〇〇〇


交流会の日から数日が経った。私達はいつもの様に昼休憩を過ごしている。


あの日から、水那面との距離がぐっと近付いたような気がする。というか、物理的に近くなった。


「叶。これ、借りていた本。面白かったよ」


そう言って本を鞄から取り出す水那面の膝が、私の膝に当たっている。今までは拳一個分位は隙間があった筈なのに、今は指が一本入るか分からない位近い。


全く不快では無いのだが、距離が近い水那面は少し心臓に悪い。


真っ白い膝が当たる度に少しドキッとするし、水那面が動く度にふわっと良い香りがする。しかもこの子は顔が良い。恐らく私しか知らないだろう楽しげな笑顔を浮かべ、私の目を見ながら話している姿を見ているとつい頭を撫でそうになる。


きっと、丸まって小さくなっていたあの水那面の姿が忘れられないのだ。だって私が守ってあげたいと思ってしまった。それからずっと、水那面が可愛く思えてしまう。


そんな気持ちを抑えながら、何でも無いように笑って返す。


「ほんと? 良かった。私も今日家で読み返そっと」

「じゃあその時に感想会ね。早く読んでね」


水那面は言いながら、お菓子を手に取って口に運ぶ。

今日のお菓子は色んな果物のグミだ。ぶどう、もも、みかんと用意してあるが、なんだかんだぶどうが一番美味しいらしい。さっきからぶどうばかり食べている。


私は返された本を適当に鞄に仕舞い、水那面が手を付けていないもものグミへ手を伸ばす。水那面が距離を詰めるようになってから、いつも真ん中に置いてあったお菓子は水那面側に置かれるようになったせいでお菓子を食べたい時は水那面を跨がなければならない。お陰様でとても食べ辛いが、私の方に置くと水那面がお菓子を取ろうとする度に顔がぐんと近くなるので耐えられず、私の方から提案したのだった。


ぐっと手を伸ばし、やっとグミを一個手に取れた所でチャイムの音が鳴り響いた。驚いた私は体制を崩し、水那面の膝にドサッと着地する。


「! やばっ」


手から落ちそうになったグミを何とかキャッチして口に放り込み、私は慌てて立ち上がる。


「ごめん水那面、痛くなかった?」

「大丈夫」

「良かった。ごめんね、行かなきゃ! またね!」


鞄を掴み、水那面を一回振り返ってから走り出す。


教室に戻ると、先生はまだ来ていなかった。

自習になったなんて知らせは聞いていない。


「あ、叶。遅かったじゃない。先生ならまだ来ていないわよ」

「えっ、なんかあった?」

「さぁ。急用じゃない?」


杏奈だけではなく誰も訳を知らないようで、教室は少し騒がしかった。私は遅刻しかけていたのでラッキーだ。助かったと思いつつ席に座って窓の外を眺めていると、廊下側の席に座る生徒から名前を呼ばれた。


「宮原さん。何か、呼んでるよ」

「へ? って、え?!」


扉へ目を向けると、まさかの水那面が立っていた。

隙間からこちらをそっと覗いている。予想外過ぎて大きな声を上げると、クラスメイトの視線がこちらに一斉に向いた。

私は苦笑いしながら逃げるように教室の外に出る。


「な、何してるのっていうかどうしたの?! 水那面がまさか、こんな所まで来るなんて」

「わ、私だって来たくなかったけど! だってこれ……!」


早く帰りたいと目で訴えている水那面が、さっきまで大事そうに両手で抱き締めていたものを私に差し出した。何かと思って見れば、私が貸していた本だった。


「これって……あれ? でも」


しかし、さっき全部返してもらった筈だ。首を傾げると、水那面は「だからっ」と声を震わせながら続けた。


「さっきっ……一冊だけ返し忘れちゃったの……! か、確認っ、してないの?」

「して、無かったかも」

「してよ……!」


水那面は泣きそうな声で怒り、私の胸を一回拳で叩いた。震えていて力も弱かったので全然痛くない。


「ご、ごめんね。でも、また今度で良かったのに」

「だって、今日は金曜日でしょ! 電話、出来ないじゃんっ……」

「だから、わざわざ?」

「〜〜っ、そう! 早く、受け取って!」

「わ、分かった。それじゃ___」


水那面から本を受け取って帰そうとした時、水那面の後ろの曲がり角から急に先生が現れた。走って来たらしく、息がとても乱れている。

しまった、と思った時には、先生と目が合ってしまった。


「宮原、何してんだ。早く教室に……って、橘じゃないか! どうしたんだ。まさか、授業を受けに来てくれたのか?」

「いやっ、先生! 違くて!」


水那面は授業を受けに来た訳じゃないことを説明しようと慌てて口を開く。ちらりと水那面を見れば、口をきゅっと真一文字に結んだまま俯いて何も言えないでいた。

水那面が先生に対して()()なる理由は分かっているから、私は水那面の一歩前に出ながら更に言葉を繋げようとした。


「水那面はっ__」

「よし! じゃあ急いで授業始めるか! ほら、宮原も早くしろ」

「いや、だから」

「お前ら、席につけー!」


先生は私の話を聞く前に、教室の扉を勢いよく開けた。クラスメイトの視線が一気に集まり、先生に気付くと慌てて各々自分の席へ戻っていく。


やがて教室は静寂に包まれる。


「ほら、早く入れ」

「だから……え、あ、水那面っ」


私が反論する前に、水那面はフラフラと自分の席へ歩いていった。急いで後を追いかけると、水那面は自分の席へ座り、両手を机の上でぎゅっと握り締めていた。表情は俯いていて見えなかったが、この前の経験から絶対に大丈夫じゃないことは分かっていた。


そして、授業が始まってしまった。


水那面は私に本を渡して、今日はもう帰ろうとでも思っていたのだろう。持っていた鞄からノートや筆記用具を出して、シャーペンをぎゅっと握り締めていた。

しかし、この授業の教科書は持ってきていなかったらしい。咄嗟に気付いて机をくっつけると、隣から荒い息遣いをするのが聞こえてきた。


「水那面。私付き添ってあげるから、帰ろう。そんな顔じゃ、駄目だよ」

「…」


水那面は無言で首を横に振る。そしてノートに何かを書いて、私に向けた。


『立てない 目立ちたくない』


「叶……」


水那面は蚊の鳴くような声で私の名前を呼び、私の手を握った。


「うん」


私もしっかりと握り返す。大丈夫。この一時間だけだ。この授業が終わったら、直ぐに水那面を帰そう。


私はちらりと先生を見る。

このクラスの担任であるあの先生は、良い先生だ。明るく元気で、生徒との距離も近い。でも先生は、人を理解しない。無意識にこうだと相手を決めつける。それに話も聞かない。さっきだってそうだ。勝手に勘違いして、話も聞かずに振り回す。


水那面の家にも度々家庭訪問しているらしいが、あまり上手くいっていないようだった。水那面は、あの先生が嫌いだと言っていた。私の話を聞いても理解してくれない。いらない反論をされる。無駄にポジティブな返答をされる。そんな感じの愚痴を聞いたことがある。


先生は、良い人だけど、駄目だ。


「___よし、次の問題はー……今日は十六日か。じゃあ出席番号十六番! 誰だー? ……あ、橘か。無理なら良いが、どうだ? 解けるか?」


だから、こんな間違いをしてしまうんだ。


「……ぁ、……ぇっ、と」


呼ばれた水那面は、声にならない声を上げながらゆっくりと立ち上がる。立てないと聞いていたので驚いたが、見れば足がガクガクと震えている。机に手をついてなんとか立っているらしかった。


「ぁ……あ……」

「大丈夫かー? 無理なら、分からないで良いぞ」

「あのっ!」


見ていられない、と直ぐに立ち上がる。水那面が私を見て、安心したような表情を一瞬浮かべた。しかしその視線は、不意に横に逸れた。


クラスメイトだ。皆がこっちを見ていた。突然現れた見知らぬ生徒と、突然立ち上がった私に注目しない訳が無かった。


荒々しかった水那面の呼吸が、ピタリと止まった。え、と思った時には既に、水那面の体がこちらにグラリと傾いていた。


「なっ……水那面!」


咄嗟に抱き止めるも、私一人では支え切れず、机や椅子を巻き込みながら床に尻餅をついた。


「っった……」


体の各所に広がる鈍痛に顔を顰める。しかし、なんとか水那面は庇うことが出来た。


「おい、大丈夫か! 直ぐに保健室の先生を呼んでくるからな! 安静にしていろ、良いな!」

「は、はいっ」


私の返事を待たず、先生は教室を走り出て行く。

監督者がいなくなった教室は、再びざわめきに支配された。


沢山の視線を肌に感じる。普段、()()()()ものには鈍い筈の私ですらひしひしと感じる程だ。

本当はさっきみたいに逃げたかったが、今は腕の中に水那面がいる。選択肢などある訳が無かった。


(大丈夫。絶対離れないから)


近くの席の人達が気を遣って、私達の机や椅子を動かしてくれていた。それに感謝を伝えつつ、水那面の手をぎゅっと握る。

氷のように冷たいその手を、少しでも温めてあげたかった。


「あーあ。まただよ」


___そんな声は、突然耳に飛び込んできた。


「二年になってもまた授業潰れんの?」

「めんどくさ」

「勘弁してくんないかな」

「先生も大変だよねー、ほんと」

「保健室にいりゃ良いじゃん」

「迷惑だよね、正直さ」


私の後ろ、いや、教室の色んな所から、水那面に対する非難が飛んでくる。


ぶわっ、と一瞬で頭が怒りに支配される。二年になっても、と言うことは、恐らく一年生の頃に水那面と同じクラスだった人達なのだろう。


非難の声は意外と多かった。後ろを睨みつける勇気が出ない程に、小声で交わされるその会話は重たくのしかかってきた。


苦しくて顔を上げていられなかった。水那面の顔を覗き込むような姿勢になり、水那面の苦々しい表情を見ていたら、水那面と初めて会った時の会話を思い出した。


『どうせ貴女も、迷惑だと思ってるんでしょ』


『だって、あそこ(教室)は息がしにくいんだもの』


あぁそうか、と思った。


水那面はこの空気を浴びて、視線を浴びて、言葉を浴びて、浴び続けて、教室がとても怖いところになってしまったんだ。


この症状がいつからあるものなのか、それは私には分からない。けれどもその一因に、この現状が関係していることは間違いない。


彼ら彼女らの文句も分からないでも無い。水那面と親しく無い者にとって、幾度となく授業を中断させられるというのはストレスに感じるだろう。


けれでもこの空気は、視線は、言葉は、とても重すぎる。


私は初めて、この教室に居心地の悪さを感じた。


怒りを追い出すように大きく息を吐くと、丁度先生が戻ってきてくれた。水那面を担架に乗せ、教室に残りたくなかった私も付き添って保健室まで連れて行った。


「橘さんのご両親とは連絡がついたから、付き添いは迎えに来てくれるまでね」

「ありがとうございます」


水那面の傍にいたいと我儘を言う私に許可をくれた保健室の先生は、用事を片付けてくると言って部屋の外に出て行った。


私と水那面の二人だけになった。静かな部屋に、水那面の寝息だけが響いている。


……幾分か落ち着いたようだ。教室にいた時と比べ、今は比較的穏やかな呼吸をしている。


良かった、と肩を撫で下ろした。水でも飲もうと席を立ち、ついでに水那面の分も紙コップに注いで戻ってくると、水那面の体制が仰向けから横向きに変わっていた。しかも、掛け布団を引っ張って顔まで隠している。


「……起きた?」


試しに声を掛けた。水那面は暫く沈黙して、やがて布団の中から「うん」とだけ答えた。


「体調はどう?」

「……平気」

「良かった。ご両親、迎えに来るって」

「……そう」

「……お水、飲む?」


そっけない返答を続けられ、会話のストックがどんどん無くなってしまう。最後の会話にも「今は良い」とだけ返され、とうとうストックは尽きてしまった。


「……そんなに、怒らないで」


水那面の顔が見えなくてずっと不安を感じている。そっけないのは、怒っているからなのだろうか。だから顔も合わせてくれないのだろうか。

不安で、膝の上で両手を握りしめた。


「ごめん、私のせいで。謝るから、怒らないで」

「怒ってなんかっ……!」


水那面はバサリと激しい音を立てて掛け布団を捲り、飛び起きた。困ったような顔で私を見て、しかしそっと目を逸らした。


「……いえ、怒っても、いる」

「…」

「だって、叶が確認してくれれば、いや、私がちゃんと渡していれば……。あぁ、もう……叶にだけは、見られたく無かったのに……!」


水那面は額に両手を当てて顔を覆うように項垂れる。その下の口はわなわなと震え、声も同様に震えていた。


「幻滅した? 訳分からないよね。ただ先生に当てられただけで、普通に答えれば良いだけなのに! でも怖いの。目が怖い。体がすくんで、勝手に息を止めちゃうの。どうしたら良いか、分からない」


水那面は膝を立て、そこへゆっくりと上半身を伏せっていく。額から手を離すと、この前の時のように腕を組み、隠れるように小さく縮こまってしまった。

私は椅子から立ち上がって水那面の傍に腰掛けると、そっと水那面の肩を抱いて頭を寄せた。


「……私、ずっと傍にいるよ」

「…」

「私もね、あの目は凄く怖かった。針に刺されたみたいで痛かった。それにあのクラスの人達も嫌い。あの人達は冗談のつもりかもしれないけれど、私は許せない。……だから私が、水那面を守る。水那面の盾になるよ」

「……え」


水那面は顔を上げ、困惑するような表情を浮かべた。

私は水那面をぎゅっと抱きしめる。


「私が何とかする。だから、水那面がもう一度勇気を出してくれるのなら、一緒に来て欲しい。その時は私が連れて行くから」

「…………本当に?」


水那面の声から、疑っているのが伝わってくる。それでも、私の腕に控えめに触れた手が、信じたいと言っていた。


「本当に、傍にいてくれるの?」

「うん。本当だよ」


私はそっと体を離す。後を追ってついてくる水那面の手を優しく取ると、水那面と目を合わせる。


「誓って、離れたりしない」

「……っ」


水那面は強く唇を噛み締める。堪えるように俯いて、しかしそれでも、段々と両目が海に沈んでいく。

ぽたり、と一滴雫が落ちる。それを皮切りに、次から次へと雫が落ちていく。


「なっ、だ、大丈夫?」


肩を震わせて嗚咽する水那面の姿に、どうしたら良いか分からない。

とりあえず背中を摩っていると、水那面はしゃくりあげながら何かを呟いた。


「……誓い」

「へっ?」

「誓って、何か、形にして」


繋いだままの手を、水那面は更に指を絡め、力無く握り締める。


「形……って……」

「お願い」


水那面は縋るような目で見つめてくる。


口では考えている風を装っていたが、頭の中ではとっくに、確実に形に出来る誓い方が一つ思い浮かんでいた。

でもそれはなんというか、私がやるには気取った方法過ぎてとても恥ずかしいのだ。


「……叶」

「……っ」


水那面は求めている。きっと、あの方法は最適なのだと思う。


顔が赤くなるのをなんとか堪え、私はとうとう覚悟を決めた。


「……笑わないでよ。……手、借りるね」


向き合って繋いだままの手をくるりと反転させ、水那面の手の甲を私の方へ向ける。

そして目を閉じると、水那面の白くて滑らかな手の甲にそっと口付けをした。


直後、ぶわりと頬が熱くなる。顔が赤くなっているのが自分でも分かる。


「……誓います。私は絶対、貴女の手を離さない」


恥ずかしいけれど、これは私の決意だ。絶対に声を震わせるものかと力強く言い切ると、水那面は満足して頷き、私に寄り掛かった。


「叶、大好き」


鼻を啜りながらそう呟く水那面の頭を撫でる。


水那面は、両親が迎えに来るまでずっと手を離さなかった。

私もそんな彼女を存分に甘えさせてあげたくて、ずっと隣で手を握り返していた。


〇〇〇


それから暫くは、またいつもの日常が戻ってきていた。

いつものように昼休憩の時間に集まり、お菓子を食べ、会話をして笑い合うそんな毎日。


それでも私は、水那面がもう一度教室に来てくれるその日の為に、ひっそりと準備を進めていた。

水那面には絶対に何も言わなかった。自分から促すのはまだやめた方が良いと分かっていた。だからずっと待ってみた。


すると、その日は突然訪れた。


その日の朝、突然メールの通知音が鳴った。いつもは絶対に通知なんて鳴らない時間だったので、朝食を食べる片手間に画面を確認した。

そして、朝食を喉に詰まらせそうになった。


『おはよう。叶、準備終わったら出てきて。待ってるから』


私は慌てて窓の外を確認する。すると、門の傍に水那面が立っている。衝撃が全身を駆け巡り、とにかく待たせてはいけないと朝食を流し込んで急いで家を出た。


「____なんで?!」

「あ、おはよ」


私を見て安心したように水那面は顔を綻ばせた。


「ごめん、急がせたね」

「いやっ、それはまぁ……うん、大丈夫。いやそこじゃないよ。どうしたの。こんな朝早くに。しかも私の家に直接なんて!」


矢継ぎ早に言葉を浴びせると、水那面は居心地が悪そうに指先で髪をいじり、目線を私から逸らした。


「……勇気、出たの」

「えっ…………本当?」

「…」


水那面は何も言わず、僅かに頷いた。


本日二回目の衝撃だった。だって昨日までの水那面は本当にいつも通りの水那面だったのだ。そういう素振りなど無かったはず。そう思っていたのに。


私は直ぐに頭を切り替えた。


「……待ってて! すぐ戻るから!」

「え、うん……」


急いで自室に戻り、フードが大きい白いパーカーを掴んで水那面の元に戻る。そしてそれを水那面に被せ、確認の為にフードも被らせた。


「?!」

「今日はそれ着てて。絶対!」

「わ、分かった」

「よし。じゃあ、行こ!」


戸惑いながらも頷き、フードを下ろした水那面の手を取った。しっかりと握り、手を引きながら歩いていく。


私の家は学校からそんなに遠くない。十分程歩けばすぐに着いてしまう。


校門をくぐる。玄関で靴を替え、階段を上っている途中だった。


水那面の足が止まった。


「大丈夫?」

「……大丈夫」


水那面の手が冷えている。私は握っていた手を、自分のカーディガンのポケットに突っ込んだ。

水那面が私を見る。私は笑顔で頷いた。


「大丈夫」

「……うん」


何とか笑顔を作った水那面の頭をわしゃわしゃと撫でて、水那面が驚いている隙に階段を駆け上った。


教室に入る。自分の席に向かっていると、水那面は首を傾げた。


「私達の席って、ここだったっけ」

「ここだよ。先生に言って変えてもらったの」

「え?」


本当のことだ。先生に頼み込んで、私達の席を一番前の窓側に移させて貰った。先生は空気は読めないけど生徒思いではあるので、あやふやな理由でも真剣に頼んだら熱意が伝わったらしく了承してくれた。


「水那面はこっちね」

「う、うん」


窓際の席に水那面を座らせ、私もその隣に座る。

そして水那面の方を向くと、着せているパーカーのフードを、髪が乱れないように被らせた。

水那面の小さい頭がフードの中にすっぽりと収まる。朝確認しておいて良かった。ちゃんと隠してあげられる。


「水那面。見えないものは見なくて良いよ。見たくないものは目を逸らして良い。聞きたくないなら耳を塞いでも良い。私を見てて。私も見れないなら俯いてて良いし、いつでも手を握って良いから。あと、外に出たくなったら私に合図して。ノートに書いてくれれば良いから。良い?」

「分かっ、た」


今、水那面の視界には私と黒板しか映っていないはずだ。そのフードはずっと被っているようにと伝え、手を離した。

水那面は直ぐに俯いた。やはり落ち着かないのだろう。仕方ないと思っていたが、実は赤くなった顔を隠す為だったのには私は気づくはずも無かった。


始業のチャイムが鳴る。やってきた先生は水那面に気付いたが、何も言わずにいつもの様に出席を取り始めた。

やがて授業が始まると、水那面は比較的落ち着いた様子で板書を取っていたが、中盤辺りで私の手を握ってきた。

水那面の手は氷のように冷たく強張っていた。様子を伺う為に顔を見ると、水那面は首を横に振った。まだ大丈夫、という意味だろうか。手を握り返すと、強張った手が解れていった。


「一旦、外出る?」


なんとか一時間目が終わり、先生が教室を去ったタイミングで水那面に話しかけた。

クラスメイトの喋り声で教室が騒々しくなる。水那面は案の定疲れた顔をしていたが、それでも首を弱々しく横に振った。


「お昼まで、頑張る」

「……分かった。じゃあ、少し目閉じていたら?」

「……そうする」


言われるままに水那面は机の上で腕を組み、突っ伏した。


そのままじっとしているが、寝れてはいないのだろう。水那面は不自然なくらいびくともしなかった。

私は着ていたカーディガンを脱いで水那面にかけると、様子を見ながら読書をして過ごした。


水那面は宣言通り、きっちりと午前の授業を受けきった。


昼休憩になったのでいつものベンチに移動すると、座った瞬間に気が抜けて、私は大きく息をついた。

私も緊張していたのだ。今は水那面が限界を迎えずに無事ここまで来れたことに達成感をひしひしと感じている。我ながらよくやったと自分を褒めてあげたかった。家に帰ったら褒めてあげよう。あの秘蔵のプリンを食べる絶好の機会だと思う。


「お疲れ様! よく頑張ったねぇ」


隣で座っている水那面に声を掛ける。すると、今までずっと黙っていた水那面は、地面を一点に見つめたまま独り言のように呟いた。


「……今日」

「うん?」

「視線を、感じなかったの。声も聞こえなかった。先生も静かだったし、私、初めてあの中の景色の一つになれた気がした」

「…」


水那面はぱっと視線を上げ、私の目を見た。


「叶のお陰? 全部、叶がやってくれたの?」

「……そ、れは、内緒」


自分の功績を一つ一つ発表するだなんて格好悪いし恥ずかしい。水那面に感謝されたくてやったわけじゃないので反応に困ってしまった。


何か話題を変えなければと悩んでいると、水那面が私の肩にそっともたれかかった。


「……大好き」

「……ふふ」


視界の端で、水那面が微笑んでいるのが見えた。それはまるで揺らめく水面から見上げた太陽のように淡く、それでいて温かみのある笑顔だった。

ふと、水那面が私の手を取った。私の膝の上でゆるく握り、やがて指を絡めていく。


「私、叶がいてくれれば大丈夫」


水那面は私の肩に顔を埋めた。長い睫毛が皮膚を擦って、少しくすぐったかった。


「ねぇ、私と一緒にいて。ずっと。私、貴方がいないと息が吸えなくなっちゃった」


「お願い」と水那面は囁いた。


大袈裟な物言いだと思った。けれどもそれはきっと水那面の本気で、本心で、真剣な頼みなのだと思った。


私は水那面の背中に手を回した。軽く抱き寄せると、肩に乗っかっている水那面の頭に自身の頭を擦り寄せた。


「一緒にいるよ。だって私も、貴女のことが大切で、大好きだから」


水那面の小さな笑い声が耳に届いた。


「……嬉しい。叶、大好き」

「うん」


その時、私の背後から小さな泡が飛ぶのが見えた。それはシャボン玉のように風に乗って、ふわふわと上空へ飛んでいく。


どこかで見たような……。少し考え、あっと思い出した。そうだ。水那面と初めて会った時。あの時水那面の口から浮かんだ泡と似ているのだ。


思い出した時、それはベンチの傍の木の高さを少し越す位の高さまで上がり、やがて弾けてしまった。

あ、と思わず声が出そうになる。声を出さなかったのは、腕の中の水那面がだらんと脱力したからだ。

慌てて体を支え、見ると、水那面はすやすやと穏やかな寝息を立てていた。


その様子を見ていたら、自然と頬が緩んだ。そういえば、絵本の人魚姫の最後はどんなだっただろうか。確か原作では、海に飛び込み泡になって消えてしまうんだったっけ。


水那面の泡は、弾けて消えてしまった。それでも水那面はここにいる。


水那面の顔に掛かっている前髪を優しく払い、そっと頭を撫でた。水那面の口端に、僅かな笑みが浮かんだ。


なんとなく、だ。

なんとなく、人魚姫にとっての王子様に自分がなれていたら良いな、と思うのだった。

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