2月8日(木)
座っているだけなのに、世界がぐるぐるしている。気持ちが悪い。頭痛がする。
体温計が鳴った。三十八度。
「あー、熱あるね。今日は学校、休みなさい」
お母さんに促されて、ベッドに横になる。おでこに冷たいのを貼られる。思っていたより冷たくて、びっくりした。
「でもお母さん今日仕事なのよ。しんどいなら、おばあちゃん呼ぶけど」
私は首を横に振る。おばあちゃんに余計な心配をかけたくなかったからだ。
「いいの? 昼もいないから、ご飯用意できないよ」
「食欲ない」
それだけ答えて、目を閉じた。めまいがして気持ちが悪かったのだ。目を閉じたら、少しだけ楽になる気がした。
「そう。じゃあ何かあったらおばあちゃんに連絡しなね」
お母さんが部屋を出る。
それと同時に、如月が私のそばに来た。彼は心配そうに私の顔を覗き込んでいる。
「大丈夫……じゃないよね」
昨日の夜には微熱があったけど、そこまで苦しくなかったから、解熱剤を飲んで寝た。それで良くなると思っていたのに、朝起きたら熱が上がっていた。
この前、インフルエンザに罹ったばかりなのに。でも今回のはインフルエンザって感じはしない。あの時はもっと体が痛くてだるかった。
「ごめん。この熱、オレのせいかも」
「なんで?」
如月は説明しながら、私がうまく整えられずにぐしゃぐしゃになっていた布団を直してくれた。
「オレって普通、人には見えないじゃん? でも詩ちゃんはオレのこと見えてて、それで脳が無理しちゃってるみたい」
「そうなの?」
「そのせいで体調悪くなったりすることがよくあるんだって、言ってたから。詩ちゃんもそうじゃないかと思って」
うまく頭が回らなくて、如月の話の内容は半分も理解できなかったけど、要するにこの熱は如月のせいってことだろう。
「如月、水とって」
「はい」
如月はペットボトルのキャップを開けて、私に飲ませようとしてきた。さすがにそれは自分でできるから、如月からペットボトルを奪い取る。
下の階から、玄関のドアが開く音がした。
「じゃあ仕事行ってくるからね。安静にしてなよー」
お母さんの声が聞こえた。
安静にって、そんなこと言われなくても、だるくて動けないから横になっているしかない。
「何かほしいものとか、してほしいこととかある?」
「ない。寝る」
私は如月に背を向けた。
体の向きを変えた瞬間、頭がズキリと痛む。横になっているのに、ずっとめまいがしている。目を閉じても眠れそうにない。
如月には弱っているところを見られたくなかった。顔は真っ赤だと思うし、髪の毛もとかしていないからボサボサ。しかもパジャマ。そんな格好、家族以外には見せたくない。
心配してくれているのはわかってるけど、できれば今はそっとしておいてほしかった。
下から足音が聞こえた。
あれ、お兄ちゃん、まだ学校行ってないのかな。そろそろ行かないと遅刻しちゃうのに、のろのろと準備をしているみたいだった。
足音に意識を向けていたら、それが急に大きくなったように感じた。熱のせいで何かおかしくなっている。
階段を登ってきているのか、足音はだんだん近づいてくる。
もしかして、お兄ちゃんは私のことを心配してくれているんだろうか。あのお兄ちゃんでも、意外と優しい時があるらしい。
「お兄ちゃん? 学校、遅刻するよ?」
私の部屋の前で止まった足音に、声をかける。返事はなかった。
「どうしたの?」
返事はなく、その代わり、部屋のドアが開く。肌を撫でるような冷気が入ってきて、体が震えた。
何か嫌な感じがして、体を起こした。ドアの向こうには、人影が見えた。
「お兄ちゃ……え?」
入ってきたのは、お兄ちゃんじゃない。如月でもないし、当然、お母さんでもない。
黒い、黒い何か。湿っぽさをまとっている、何か。赤い二つの点が私を捕らえたまま、ゆっくりと近づいてきていた。
「こ、来ないでっ!」
私は思わず枕を投げつける。でもそれは黒いのを通り越して、壁に叩きつけられる。
「何、なんなの? や、やめてよ」
黒い何かは私の前までくると、黒いもやで私ごと包んで――
はっと目を覚ます。黒いのはどこにもいない。
「なんだ、夢か」
私はいつの間にか眠っていたらしい。
体は汗でぐっしょり濡れていて、服が肌に張り付いていた。心臓がバクバクしている。暑くて布団から出ると、今度は急に寒くなる。
「きさらぎ……?」
すごく心細くなって、彼の名前を呼ぶ。自分の声が思ったより弱々しくて、さらに不安になった。
布団で自分の体を包んで、ベッドから起き上がる。
部屋には、如月の姿はなかった。
ドアを開く。その先に何かいるんじゃないかってどきりとしたけど、何もなかった。如月もいない。
ちょっと進んで、背後が不安になり、振り返る。何もなかった。
足元に気をつけながら、階段を下る。
「あっ」
踏み外して、落ちそうになる。その寸前のところで手すりに掴まれたから、大丈夫だった。
「きさらぎ?」
声をかけても、返事はない。
廊下には、いなかった。お風呂場も覗いたけど、いない。和室、いない。キッチン、いない。リビング、いない。玄関、いない。押入れ、いない。
どこにも、いなかった。
ソファーにもたれかかる。ここまで歩いてきただけなのに、息切れしている。汗が気持ち悪い。ぐるぐるする。
リビングがすごくすごく広く見えて、自分の家じゃないみたいだった。
自分からは見えないあの隅っことか、テーブルの下の暗いところとか、足元の視界に入っていないところとか。そういうところに、幽霊とか鬼とか、得体の知れない何かがいるんじゃないかと、不安になる。
おでこに貼ってあったひんやりシートが、かぴかぴになっていた。少し触っただけで剥がれ落ちてしまった。
その途端に、体が熱くなった気がして、やっぱり不安になってしまう。
ガチャリ。玄関から聞こえてきた。外の音と、足音。
「ただいま」
声がした。如月の、だと思うけど、少し身構えてしまう。
扉が開く。
「きさ、きさらぎ……っ」
如月の姿が目に映る。安心したからか、勝手に涙が溢れてくる。
「詩ちゃん!?」
駆け寄ってきたのは、どこからどう見ても如月だ。大丈夫、幽霊なんかじゃない。
「どうしたの、大丈夫!?」
如月は、呼吸が落ち着くように背中をさすってくれた。一気に力が抜けて、私は彼にもたれかかっていた。
「こ、こわかった」
「ごめん。ごめんね、一人にして」
私は無意識のうちに、如月にしがみついていた。彼は冷たくて、その温度が心地よかった。さっきまで怖かったのが、寂しかったのが、それだけでなくなってしまった。
「熱、上がってきちゃったのかな」
如月は私の顔に張り付いた髪の毛を払って、おでこに触れる。ひんやりしていて気持ちよかった。
「どこいってたの?」
「これ買いに行ってた」
如月が取り出したのは、ぶどうのゼリー。おばあちゃんがよく買ってくれる、私が好きなゼリー。いや、昔は好きだったけど、もう飽きてしまったゼリーだ。
「こず枝さんが、詩ちゃんはこれが好きなんだって言ってたから。買ってきたんだけど……」
そういえば、このゼリーを初めて食べたのは、熱を出したときだった。夏休みにおばあちゃんの家に泊まりに行ったら、熱が出てしまった日。
おばあちゃんが買ってきてくれて、それがすごく美味しかったんだ。熱のときに食べる、いつもとはちょっと違う食事が、なんだか特別な気がしたんだ。
「食べられそう?」
「うん。たべる」
如月が買ってきてくれたぶどうのゼリーは、このゼリーを初めて食べたときと同じ、特別な味がした。




