2月20日(火)
「ただいま……あれ、詩? どうしたの?」
「どうしたもこうしたもないよ」
玄関で待ち構えて私に、帰ってきた如月は不思議そうな顔をした。
「どこに行ってたの?」
「どこって……人に会いに?」
「人に会いに」
そんなわけないでしょ。如月は、私以外には見えないんだから。見える状態にもできるけど、短時間しかできないと言っていた。今まで私と経験してきたことは、如月にとって初めてのことばかりだったらしいし、彼に他の知り合いがいるとは思えない。
まあ、今はそんなことどうだっていい。私が怒っているのは、如月が何も言わずに出かけていたからじゃない。
「如月さ、冷蔵庫にあったプリン食べたでしょ」
「ギクッ」
「今、ギクッ、って言った? 効果音、自分でつけちゃったよね?」
もう誤魔化せない。今のばっちり聞いていたからね。
あのプリンは、近くのスーパーで売っていたのをお母さんが買ってきてくれた、クリーム入りのちょっとお高めのプリンだった。お母さんの機嫌が良いときに、ごくたまーに買ってきてくれる、すっごく美味しいプリン。
「……怒ってる?」
「怒ってるよ」
人のプリンを勝手に食べるなんて、あり得ない行為だ。プリン食べよーってワクワクしながら冷蔵庫を開けたとき、あるはずのプリンが無かった時の絶望感といったら、それはもう地球が滅亡したレベルだった。
私が相当に怒っているのを感じ取ったらしく、如月はすとんと正座した。
「で、なんで勝手に食べたの?」
「え」
「なんで? 言ってみなよ」
彼は目を泳がせた。
どうせうまい言い訳なんてできない。そんなことはわかっている。ただ、如月がどういう気持ちで私のプリンを食べたのか、今は反省しているのか、それが知りたいだけだ。
「二個あったから、いいかなって」
「私とお兄ちゃんの分ですが?」
ちなみに、冷蔵庫には今も一つだけプリンが残っている。でもそれを食べて後からお兄ちゃんに文句を言われるのは嫌だったから、我慢した。わかる? 目の前にプリンがあるのに食べれない、このもどかしくて苦しい気持ち。
「ごめんね、詩」
「謝って済む問題じゃないんだよ」
食べ物の恨みっていうのは、本当に大きい。言ってしまえば所詮スーパーのプリンだけど、私にとっては平凡な日常に色を与えてくれる存在だった。
今日は学校から帰ったらプリンがあるからって、一日頑張ってきたのに。いざ帰ってきたらそれが無いって、あんまりだ。
「あのさ、詩の部屋行こうよ。玄関じゃ寒いよ。また風邪ひいちゃう」
「そんなことは今どうだっていいんだ」
よくないけど、今は寒いとかどうでもいい。プリンの方が大事だ。
「如月はさ、うちに泊まらせてもらってる立場だよね? そこちゃんとわかってる?」
「はい……わかってます」
「なら、プリン勝手に食べるのはおかしくない? ていうか、冷蔵庫を漁るって行動がまずおかしい」
「ですよね」
言い出したら止まらなくなってしまった。考えるより先に、まず口から言葉が出てきてしまう。
「で何? プリン二つあったから食べてもいいやって? 二つあったから一つは自分のために用意してくれてるって考えに至るのが理解できない」
「はい。ごもっともです」
「プリン見つけて食べたいなって思ってもさ、普通は私が帰ってくるの待って、確認してから食べるよね? なんでしなかったの?」
「なんでって……その時食べないとやばかったから……?」
「どうしても食べたかったってこと? でも普通は我慢するよね? 我慢できないとか子どもかよ」
「はい。すみません」
「如月ってそういうところあるよね。図々しく家に泊まらせろって乗り込んでくるし、勝手に寝顔見るし。よくスマホの画面も覗き込んでくるしさ」
「それは……まあ、はい。その通りです」
うちに泊まるっていうのは、そういえば不可抗力だったんだと思いながら、私は如月に文句をぶつけまくった。
「よくほっぺとか触ってくるし、頭撫でてくるし、何なの? 可愛いってよく言ってくれるけどさ、そういうのよくないっていつも言ってるよね?」
「え、あれ、そんなに嫌だった?」
「嫌とは言ってないでしょ! 勘違いしちゃうからやめてって言ってるの。如月のこと好きになっちゃうじゃん!」
「好きって、え……今なんっ、え?」
ん? なんか私、変なこと言ってない? プリンの話からだいぶ逸れてしまった気がする。
「とにかく、言いたいのは、如月はもっと遠慮しろってこと。わかった?」
「わかっ……うん、わかった」
如月は絞り出すように答えた。見ると、彼は口を押さえて下を向いている。それに、小さく震えている。
「如月? え、大丈夫?」
「だいじょ……ぶ、じゃない」
「どこか具合悪いの? 寒いの?」
「いや、ちがっ、そうじゃなくて」
如月は一瞬だけこっちを見て、すぐに目を伏せた。ゴン、と頭と床がぶつかる。かなり鈍い音がして、ますます心配になった。
「え、えっ、今の痛かったよね? めまいがするの? 大丈夫じゃないじゃん。え、どうしよ、とりあえず立てる?」
「違うよ。ごめん、そんな心配しないで」
如月はそう言いながらゆっくり頭を上げた。ぶつけたおでこに手を当てている。
「ねぇ如月、顔真っ赤だよ? 熱あるの?」
彼の頬に手のひらを当てる。熱い。まるで焼き立てのパンみたいだった。
「う、あ、待って。今触られると死んじゃう」
「えっ、死んじゃうって、そんなに具合悪いの?」
すぐに手を離そうとしたけど、如月の手に上から押さえつけられてしまった。
「詩の手、冷たい」
「如月が熱いんだよ」
彼は目を閉じた。ゆっくり呼吸する音が聞こえてくる。
じわじわと如月の熱が私の手に伝わってきた。いつの間にか、如月の頬と私の手は、同じぐらいの温度になっていた。
時間がゆっくり流れているような感覚だった。玄関は寒いはずなのに、なぜか温かい気分になる。目の前の如月は、このまま寝ちゃうんじゃないかってぐらい、安らいだ表情だった。ずっと深い眠りに入っていくような――
「待って、如月。え、本当に死なないよね?」
「はは、死なないよ」
ようやく如月は、私の手を下ろした。如月の顔は相変わらず赤かったけど、さっきよりはましになっていた。
「そうだ、詩。これあげる」
如月は丁寧な仕草でそれを私に差し出した。
「何これ? ケーキ?」
それはよく見る、ケーキが入った、持ち手がある白い箱だった。
「え!? これ、あれじゃん」
「あれ?」
如月はきょとんと首を傾げる。如月は知らずに買ってきたんだ。
「あそこの、めちゃくちゃ美味しいケーキ屋さんの! ケーキ!」
「知ってるんだ?」
「うん。去年までおばあちゃんが住んでたところの近くにあるお店でしょ?」
見覚えのあるマークから、そこのケーキだとわかった。私たちが会いに行くと、よくおばあちゃんが買ってきてくれたケーキが、そこのお店のだった。
「何のケーキ?」
「プリンと、チョコケーキ」
「チョコケーキ!」
私が世界でいちばん好きなケーキ。思わずはしゃいでしまった。
「やっぱり、詩はチョコレートが好きなんだね」
「そう! めっちゃ好き!」
「ワッフル食べたときも、迷わずチョコのやつ選んでたもんね」
チョコレートは、そのまま食べても、ケーキとかクッキーとかに混ぜても、何でも美味しい。チョコレートを初めて作った人は天才だ。
「今日の朝さ、詩、プリン机に置いたまま学校行ったでしょ?」
「え、そうだっけ?」
自分の朝の行動を思い返してみる。いつも通りに起きて、朝ごはん食べて……あ。
「そうだ。食べようかどうしようか迷って、結局、帰ってきてからの楽しみにしようと思って。そういえば、冷蔵庫にしまった記憶ない」
それがどうしたの、と如月を見る。彼は説明してくれた。
「オレ、昼ぐらいにようやくプリンが出しっぱなしなこと気づいてさ。未開封だったらそのまま冷蔵庫しまおうと思ったんだけど、少しだけ蓋剥がれてて」
「たしかに、食べようか迷って、ちょっと開けたね」
「これ大丈夫なんかなーって迷ったんだけど、詩が食べてお腹壊しちゃったら嫌だし、でも無駄にするのもなって思って、オレが勝手に食べちゃったんだ」
別に大丈夫だとは思うんだけど、たしかに、要冷蔵のプリンを何時間も、しかも開封した状態で、常温に置いておくのは不安かもしれない。
「正直に言うと、プリン食べたいっていう気持ちもあったけど」
如月は罰が悪そうに笑う。
「だから、このケーキは、お詫び。詩が楽しみにしてたプリン、勝手に食べてごめん」
そういう理由があるなら、そうとはっきり言ってくれればよかったのに。いや、私がちゃんと話を聞かなかったのがいけなかったんだ。
「私も、ちゃんと理由も聞かずに、理不尽に怒ってごめんね」
私は如月から、お詫びのケーキを受け取った。
「ケーキ、一緒に食べよう」
そう言うと、如月は頬を赤くして笑った。




