2月16日(金)
「次、体育だって。マジめんどいんだけど」
「だよねー」
友達の会話に耳を傾けながら、カバンを漁る。
……ない。体操服が、ない。
「詩ちゃん、どうかしたの?」
「体操服、忘れた」
おかしいな。ちゃんとカバンに入れたと思ったのに。
あ、違う。今日は持って行かなきゃいけない教科書が多くて、体操服は別で持っていこうと思ってたんだ。じゃあ、たぶん玄関に置きっぱなしだ。
「マジ? 隣のクラスに借りたら?」
「でも体育やりたくないし、いいや。今日は見学する」
「ズルい。私もそうしよっかな」
忘れたものは仕方ない。見学できてラッキーだと思っておこう。
友達が体操服に着替え終わるのを待って、一緒に外に出た。
「もう二月だっていうのに、まだ寒くない?」
「それな。季節ちゃんと仕事しろー」
ふっと如月の顔が頭に浮かんで、思わず笑ってしまった。あの人は二月を運んでくる精霊のはずだが、仕事をしっかりこなしているとは到底思えない。
「――さん、でしたっけ? 何の用です?」
校舎から出てすぐ、二階堂の声がした。うわ、会いたくない、と思いながら、目を逸らして通り抜けようとした。
体育の授業は男子と女子で別々だから、関わることはない。今日は一回も二階堂と話してないから、すごくすごく、心の底から快適だった。
「何あの人、見た目やばぁ」
「髪の毛、紫だ。やっぱり、高校卒業したらみんな染めるのかな」
二人は、二階堂と話している相手について話しているらしかった。
髪が紫? しかも二階堂の知り合いだよね。それって、心当たりしかない。
「でも顔はイケメンかも」
「里香ちゃん、さすがにああいう人はやめておきなね」
「わかってるよ。 夢奈ってば、心配症だなぁ」
里香と夢奈の会話に耳を傾けながらも、私の意識は別の方向にあった。心臓がバクバク鳴って、冷や汗が出てくる。お腹痛いとか嘘ついて、この場を離れようかな。
「二階堂くん、あんな大人の人と知り合いなのかな」
「あー、二階堂ならあり得るくね?」
もしかしたら、私が想像している人とは、全く別の人物かもしれない。とりあえず、自分の目で確認してみよう。
ちらっと二階堂の方を見た。最初に二階堂が振り向いて、次に――如月と、目が合ってしまった。
「あ、 詩ちゃん。探したんだよ?」
如月はニコニコと駆けてくる。
ああやっぱり。紫の髪、ピアスばちばち、おまけに指輪もゴツい、その姿は紛れもなく如月だった。
胸が苦しくなるほど気まずくて、後退りしてしまう。友達からの視線が痛くて、なんて言い訳をしようか考えていた。
「き、如月……さん」
「なんで、よそよそしいの? いつも仲良くしてるのに」
如月は距離をどんどん詰めてくる。
私は学校では、割とおとなしい感じで、真面目という印象を持たれることが多い。それがこんな、なんかやばそうな男の人と知り合いなんて、きっとびっくりさせてしまう。
「詩ちゃん? 顔色悪くない? 大丈夫?」
誰のせいだと思っているんだ。
もう知り合いじゃないは通用しない。知らないふりして通り過ぎることはできない。諦めて、ため息をつく。
「この人、詩の知り合い?」
「うちに居候中の親戚の人」
二階堂にも同じ嘘をついたはずだから、怪しまれることはない。
「どーも」
如月は急に私の体を引き寄せた。
「ちょっと、何? 離れて」
突き放してから、軽く殴る。友達の前で、こんなのは、ない。
「えー、なんで? 昨日はあんなに――」
「待って。誤解を与えるようなこと言わないで」
嫌な予感がして、如月の口を塞ぐ。
ちょっと前に、二階堂とスーパーで会った時に、彼は何か誤解したらしく、明らかに如月に敵対心を抱いている。もうこれ以上、変な誤解を生みたくない。
「学校にいる詩は、家とは雰囲気が違うんだね」
「如月、もう喋らないで」
このまま放っておけば、あることないこと言いそうで怖い。ここは学校。友達の前。変なことは言わないでほしい。
「えっと、詩ちゃんの親戚さんと二階堂くんは、どういう関係?」
「僕は、前にすぐそこのスーパーで会ったんだよ」
二階堂はこっちに目もくれず、ただ如月を見つめていた。そんなに警戒しなくても。誤解を解くのは面倒くさいが、そんな態度を取られるのも居心地が悪くて仕方がない。
「で、如月さんは何しに来たんですか」
こんなに敵意をむき出しにしているのに、一応、敬語は使うんだ。
「そうそう、詩に忘れ物を届けに来たんだよ」
「あ、体操服」
如月が手に持っていたのは、家を出る時に忘れていったらしい、体操服が入った手さげ袋。
「ありがとう」
たしかにありがたいけど、なんだかちょっと……かなり、気まずい。例えるなら、友達といるときに、お母さんと偶然会ってしまった、みたいな。あれと似た感覚だ。
「今から体育? あんまり無理しないでよ。昨日、眠れてないでしょ?」
「昨日? 何したんですか?」
「え? んー……言っていいの?」
「えっ」
二階堂が固まってしまった。振り向くと、里香と夢奈も驚いている様子だ。
「別に何もしてないからね!?」
昨日は、悪い夢を見たせいでうなされていただけだ。というか、如月、昨日の夜いたんだ。全然気づかなかった。
「詩の寝顔、めちゃくちゃ可愛いんだよ」
「如月? 勝手に寝顔見るのはやめようか」
前々から、如月にはデリカシーがないと思っていたけど、やっぱり変わってない。でも、不思議と前ほど嫌じゃなかった。
「如月さん、寝室に入るのはよくないですよ。さすがに引きます。前田も嫌がってます」
「いや、二階堂が怒らんでも……」
「そうですよ。いくら親戚だからって、女の子の寝顔をこっそり見るのはダメですよ!」
「夢奈まで?」
いい友達を持ったと思う。けど正直、寝顔を見られるなんてどうってことなくない? 昔はお兄ちゃんと一緒に寝ていたからか、人に寝顔を見られるのは、私はあんまり抵抗がない。
「そっか、人間の常識だとそうなんだ」
如月はしゅんとうなだれた。
今、人間の常識って言っちゃったよね。変に思われてないかな。
「詩、この人、本当に信用していい人? てか、本当に親戚? なんか変な事件に巻き込まれてるわけじゃないよね?」
「大丈夫だから。如月はちょっと常識がないだけで、普通に優しい人だから」
あー、面倒くさいな。体操服を届けてくれたのは本当にありがたいけど、如月が周りに見えているとろくなことにならない。
「詩ちゃん。オレ、用事あるし、もう帰るね」
本当はすごく面白くて話しやすい人なのに、如月のことを誤解されるのが嫌だった。如月の姿は、短時間しかみんなに見えるようにできない。本当は、この時間だけでも、私の友達と如月が楽しく話してほしかった。
たまに見る、如月の寂しそうな顔を、もう見たくなかったから。
「如月、今日帰ったらゲームしようよ」
「いいの!? あのお菓子みたいなステージで戦うやつ?」
「でもいいし、何でもいいよ。やりたいの探しといて」
「やったぁ。待ってるから、早く帰ってきてよ?」
頬を赤く染めて笑う如月からは、怖さなんて感じられない。私は、如月のこの顔が好きだ。
「ね、怖くないでしょ?」
「うん。なんだ、ラブラブじゃん」
「なんでそうなるの。違うから」
如月の方を見ると、彼は二階堂の方を見ながら、何やらニヤニヤしていた。如月も如月で、二階堂に対してはあんまりいい印象がないらしかった。
「ねえ、そろそろ行かないと。授業始まるよ」
二階堂の言葉ではっとした。あと何分で授業が始まるかわからないけど、おそらく結構ギリギリだ。
「私、着替えてこなきゃ。先行ってて」
体育の先生は意外にも優しいから、多少遅れても何も咎められないだろう。