2月15日(木)
「ただいまー」
靴を脱いで、家にあがる。
「お母さん?」
家には、人の気配が全くない。お母さんは、買い物に行っているのかもしれない。玄関に靴がなかったから、きっと出かけているんだ。
「如月?」
彼ならいるだろうと思ったけど、返事はなかった。珍しい、如月も出かけているなんて。おばあちゃん家かな。
「誰もいないんだ……」
家に一人というのが、久しぶりで、なんだか寂しかった。最近はいつでも如月がいたから、家は賑やかだった。
しーんとしているリビングで、一人、ソファーにもたれかかる。
何となくスマートフォンを手に取って、何となく誰かの投稿を流し見る。
エッセイ漫画とか、今日こういうことがあってどうのこうのとか。あとは、好きなゲーム関連のもの。ちゃんと頭に入って来ないから、楽だ。
でも、こんなにつまらなかったっけ。
最近はスマートフォンを触るのは友達と連絡を取るときぐらいだった。如月がいたからうるさくて、スマホを見ていると如月にイライラしてしまっていた。だから、最近はアプリを開くこともなかった。
「なんで寂しいって思ってるんだろ、私」
独り言を呟いて、スマートフォンを閉じる。
如月は、二月の間しかここにいない。二月が終わったら、帰らなきゃ行けないって。私は、如月がいなくなったら、大丈夫なんだろうか。
いやいや、今までの生活には如月なんていなかったんだから、そりゃあ大丈夫だ。もとの日常に戻るだけ。たった、それだけのことだ。
「ちょっと寝ようかな」
学校で疲れたせいで、気持ちが沈んでいるだけだ。ソファーに横になって、天井を見上げる。
そうしたら、急に怖くなってきた。
如月にいなくなってほしくない。もっと話したい。一緒にいろんなことをしたい。まだ如月のことをよく知れてないし、私のことも教えられていない。
たった二十八日じゃあ、全然足りない。
「あれ……」
視界が歪んできて、慌てて目を覆った。
おかしいな。ちょっと前までは、如月に早くいなくなってほしいって思っていたはずなのに。いつの間にか、彼は私にとって、本当に「特別な存在」になっていたんだ。
昨日のバレンタイン、正直に気持ちを伝えられなかった。誰かに気持ちを伝えるのは、恥ずかしくて、難しい。バレンタインとは、きっとそれを手助けしてくれるイベントだったはずなのに。私は、如月に思いをうまく渡せなかった。せっかく、二月にあるイベントだったのに。
初午だって、そうだ。稲荷神社にはお参りできなくて、ただいなり寿司を食べるだけになってしまった。それも、家に着いたら少し崩れてしまっていたのだ。
なんか、うまくいかないなぁ。
如月ともっとたくさんの思い出を作りたい。その中で、これが一番楽しかったっていうのを作りたいのに。
あと、今日を含めて……十四日か。その間に、如月との思い出はどのぐらい作れるんだろう。やっぱり、足りないよ。
考えれば考えるほど、胸が苦しくなって、涙が出てくる。家に誰もいなくてよかった。いや、誰もいないから泣けてきちゃうのか。
早く涙を止めないと、もうすぐお兄ちゃんが帰ってきてしまう。泣いているところを見られたら、きっとバカにされてしまうだろう。
何か、楽しいことを考えよう。
この前、友達と行ったカラオケ、楽しかったなぁ。好きなアーティストの曲をたくさん歌えたし、友達といろんな話もできた。
如月は、カラオケ好きかな。今度一緒に行ってみよう。ああ、また如月と一緒にやりたいことが増えてしまった。
じゃあ別のことを考えよう……二階堂のこととか。今日もウザかったな。席が隣だから、否が応でも話さなきゃいけないときがある。例えば、英語のペアワークとか。そういうときに、ここぞとばかりに二階堂が私に喋ってきて、本当に面倒くさい。
それに比べたら、如月は、一方的に喋ってくることもないし、私の話もちゃんと聞いてくれるから、居心地が良い。
あー、ダメだ。どんなことを考えていても、如月に繋がってしまう。私は、どれだけ如月に毒されてしまったんだろう。二月が明けたら、私は一人でやり過ごせるんだろうか。
玄関の扉が開く音がして、はっと起き上がる。すぐに湿っている目をこする。泣いていたことを知られたくなかったから、急いで階段を駆け上がる。
部屋に逃げ込んで、ベッドに飛び込む。あ、スマートフォン、忘れた。まあいいや、目の赤みが引いたら取りに行こう。
「ただいま。詩ー? 帰ってる?」
「お母さん、おかえり。帰ってるよ」
できるだけ声が震えないようにしながら、一階に聞こえるように声を張り上げた。
なんだ。帰ってきたのはお母さんか。
如月、早く帰ってこないかな。どこで何してるんだろう。
「たっだいま! 詩ちゃん」
「うわぁっ、びっくりした」
急に部屋に入り込んできたのは、如月だった。もちろん心の準備なんてしてなかったから、心臓が飛び出るかと思うぐらい、驚いた。
「おかえり。如月」
「ん? 詩ちゃん、どうかしたの?」
如月に顔を覗き込まれて、慌てて顔を隠す。たぶん、今はちょっと目が赤い。
「まさか、泣いて」
「ないから! 泣いてない!」
にやーっと笑いながら私の顔をじっと見つめてくる如月は、やっぱり性格が悪い。
「帰ってきたらオレがいなくて、寂しかったの? 可愛いね」
「だから、そんなんじゃ」
反論するたびに、如月はどんどん笑顔になっていく。これは、きっと何も言わない方がいい。
「オレも、詩ちゃんに会いたくて、走って帰ってきたんだよ」
如月から目を逸らす。
胸の辺りが温かくなっていく。なんだか、こそばゆい感覚がした。
「何、嬉しそうじゃん。可愛いー」
「嬉しくなんか……いや、違くて……えっと」
こういうことが言いたいわけじゃない。さっき、正直に気持ちが伝えられなかったことを、後悔したばかりじゃないか。
ゆっくり深呼吸してから、如月を見つめた。
「本当は、寂しかったよ。それに、如月も同じ気持ちだったって知って、その……嬉しかった」
ちゃんと目を見て言おうと思ったけど、やっぱり恥ずかしくて無理だった。これが、今の私の精一杯だ。
「うそ、詩ちゃんがデレた」
やばい、めちゃくちゃ恥ずかしい。相手が如月だから、余計に。
頭の中がぐるぐるして、よくわからなくなって、思わず布団を被って身を隠した。お風呂に入っていない格好のまま布団に入るのは、本当は嫌だったけど、そんなことを考えていられないぐらい、この時は混乱していた。
「やば、かっわ、可愛い。可愛すぎる。え、詩ちゃんが照れてる。うそでしょ、オレ明日死んじゃう?」
死んじゃいそうなのはこっちの方だ。恥ずかしい。全部蒸発してなくなっちゃうんじゃないかってぐらい熱い。
「如月は、どこ行ってたの? この時間にいないなんて珍しいね」
さっきのを忘れたくて、如月にも忘れてほしくて、別の話題を振る。顔が真っ赤だから、布団からは出られない。
「んー? 秘密だよ」
「なんで」
布団からちょこっとだけ顔を出すと、甘ったるい目で見つめてくる如月がいた。また恥ずかしくなって、布団を被り直す。
「私は正直に全部言ったのに、如月だけ言わないとかズルいよ」
「それとこれとは、別じゃない?」
布団の上から、如月に背中を撫でられる。
「ちょっと待って、それやめて」
「嫌だった?」
如月はぱっと手を離す。なんだか、名残惜しく感じている自分がいた。
「嫌じゃ、ないけど」
そう言うと、如月は優しく私の背中を撫でる。それが心地よくて、どこかくすぐったくて、布団の中だったから余計に熱がこもっていた。