2.光
彼は走り続けた。大切な者達のため。愛する者を逃がすため。
禍々しい瘴気を放つ魔物を切り付け、自身へと引き寄せる。右へ、時に左へと攻撃を避け、魔物を翻弄し、同士討ちを狙う。
できる限り強い魔物を、足がすくむほどの強い死の気配を纏う魔物を狙い、その死を寄越せと言わんばかりに……。彼は敵いもしない敵を増やし続け、洞窟の奥へと誘う。
退路などありはしない、深き闇の底へ潜りゆく。仲間達が無事逃げ切れる事を祈りながら。
地上でありながら溺れるほどの魔力と、常人であれば狂乱するであろう瘴気。その中にありながらも彼は走る。
しかし、それも長くは続かない。暗視魔法も濃すぎる魔力に飲まれ、視界は濁り切っていた。
そんな中、闇に潜む岩と思われていた物体が彼を吹き飛ばす。
激しく岩壁に叩き付けられ、全身の骨が折れたかと思う感覚。そして、死神に頬を撫でられたかのような、自身の最期が目前に迫る恐怖が彼を襲う。
しかし、彼が真に恐れたものは、自身の死などではなかった。大切な者達に危険が及ぶ事、それが何よりも彼を恐怖させた。
それ故に彼は、骨が砕け、その身が切り刻まれ、全身から血を流そうともなお、戦い続けようとしたのだ。
だがその意思とは裏腹に、酷く傷ついた体は何ら動きを見せることはない。
今の彼には自身を吹き飛ばした岩人形を睨み付けるのが精一杯だった。
そんな憎らしげな視線を知ってか知らずか、ゴーレムは彼に止めを刺さんとゆっくりと歩み寄る。
その時彼は気付く、迫り来るゴーレムの足元に、愛する者から預かった髪留めが落ちている事に。
それは愛するリーンと共に生きた証、彼女のために命を捧げると誓った証。そして、最期の瞬間まで心は共にあることを祈る二人の絆。
たとえ闇深く、希望の光届かぬ地の底で死を迎えようとも、それだけは失う訳にはいかなかった。
その切なる願いも、幸せだった過去も、彼女の未来さえも……。目の前で砕かれんとしていた。
唸りながら、血を吐きながら、動かぬ身体に懇願するかのごとく。取り返せ、奪い返せ、あの輝きに手を伸ばせともがく。
想いが通じたのか、それともただならぬ執念か。腕だけはその光へと伸びたのだが……。
願いは虚しく、パリンという軽々しい断末魔を上げ、彼の希望と共に脆くも弾けた。
「ここまで……か」
その呟きは、声になることもなく闇へと呑まれた。ドクドクと傷口から溢れ、言葉の代わりに吐き出された血は赤く、生臭い水溜りを造る。
その真中に置かれた獲物を、何の意思も感情も持たぬゴーレムは、意味を求めず、ただそうするものだという事すら理解していないかのような、無機質な動きで叩き潰さんと腕を振り上げた。
彼もまた、そのためにここに居るのだと理解しつつも、最期のその瞬間まで戦う意思は捨てるつもりはないと、その姿を猛獣のごとく鋭い目つきで睨み付けるのだ。
幾許かの時が経つが、未だ振り上げられた腕は下ろされない。これが死の間際に時の流れが遅くなるというものか、などと妙に冷静な考えが思考を横切った。
ゴトリ……とゴーレムの腕が落ちる。
だが、その腕の下に彼は居ない。振り上げられた腕が、ただ真下に流れ落ちたのだ。
それは的確に肩の関節を切断されており、その切り口は、熱したナイフでバターを切ったように、滑らかな断面であった。
腕を失ってなお、動こうとするゴーレムであったが、歩き出そうとした瞬間、その体も、足も、頭も。まるで建材用に切り出されたかのごとく、格子状に切り目を入れられ、その場に崩れ落ちる。
「君、大丈夫……ではなさそうだね。他の魔物を処理してくるからさ、そのまま休んでていいよ」
その声の主は闇に紛れ、姿は定かではない。けれど、手に持たれた剣は青白く淡い光を放ち、小柄で、おそらく少年のような背格好であった。
しかし、その姿を捉えられたのは一瞬で、少年は闇に滲む。ただ淡い光の軌跡だけを残して。
洞窟の主たるゴーレムを遠巻きに観ていた魔物共は、絶対的強者が倒れた事で血の滴る新鮮な肉を、誰がその手中に収めるか睨み合っていた。
その牽制の緊張の中を、青白い蛍が横切る。ただ音も無く流れる光、その光の通る後には、精神を蝕む邪気は消え、弱々しい蛍が魔物を浄化しているかのようであった。
見通せはしない闇の中、王都の優秀な軍隊でも1体倒すのに多くの犠牲が出るほどに強力な魔物達が、次々とその気配を消してゆく。
夢でもみているのではないか、都合のいい妄想に耽っているのではないか、彼は遠のきそうな意識を必死に繋ぎとめながらも、その光景を信じられずにいた。
動くことも出来ず、闇の中の気配を眺める彼の元に、突然先ほどの少年の気配が戻ってくる。それと同時に、光球魔法が深い洞窟の闇を裂いた。
闇の中光を灯すなど、魔物に対して「獲物はここだ」と知らせるに等しい。けれどその光に向かい、襲ってくる魔物はいない。襲えないのではない、事実存在しないのだ。
なぜなら周囲には、命を吸い取られた後の魔物であった残骸だけが残されていたのだから。
「とりあえずこんなもんかな?」
その様子を見る事しかできない彼の耳に、先ほどの少年の声が届く。明かりに照らされ、彼の目は初めてその姿を正確に捉えた。
魔物を一網打尽にしたその人物は、彼の見立てどおり少年と呼ぶに相応しい背格好であり、彼の妹と同じくらいの歳に見えた。朱色の短めの髪を後ろで結び、淡い光を放っていた剣を持つ以外は普通の少年であった。けれど、普通の姿であるが故に異常なのだ。
小さな肩掛け鞄を持ち、布製の服を身につけている。近所を散歩するような格好、もしくは農村で農業を手伝っているのであれば、何ら違和感などない姿だ。しかし、ここは魔力異常が起きていなくとも魔物が出現する洞窟である。その姿で訪れるには、いかんせん場違いであるのだ。
軽装で身軽にする事で素早さを活かし、敵を翻弄する戦い方をするダイであっても、装備は最低でも皮製だ。
この少年は、攻撃を受ける事を全く考えていない身なりであり、事実その体には先ほど戦闘したとは思えない、傷ひとつない状態である。
いや、傷だけではない。対峙したであろう魔物の血液すら付いていない。
「ここを出よう。立てるかい? ……ってその状態じゃ無理か」
少年はなんてこと無いように言う。しかし彼の状態と言えば、全身の骨がいたるところで折れ、傷のない場所を探す方が難しいほどで、あちこちの傷口から血が吹き出している。さらに見えはしないが、内蔵も深刻なダメージを受けていた。
たとえ高度な治癒魔法を使う事のできる魔導士であったとしても、自己治癒能力の強化しかできない魔法では、到底対処不能である。
彼を普段から診ており、彼以上に彼を知る人物、リーンであればあるいは可能かもしれない。しかしそれにも膨大な魔力が必要であり、魔力不足に陥り、彼女が命の危険に晒されるだろう。それほどまでに彼の容体は深刻なものであった。
つまり、彼はゴーレムからのダメージを負った時点で、ただ死を待つだけの身であった。
「俺の事はいいから、仲間と村の皆を……」
そう言おうとした彼であったが、その口から漏れるのは、ヒューヒューという血の混ざった吐息だけだった。
しかし、その声にならぬ声を少年は理解する。
「大丈夫。厄介な魔物は片付けたから、残ってるのは雑魚だけだよ。それに君の仲間もうまく逃げ延びたようだしね」
その言葉に安堵し、ふっと意識が遠のく。このまま眠るように、安らかに死を受け入れようとする彼。
しかし不思議な少年は、血の水溜りを静かに渡り、その傷と血にまみれた体を抱え起こした。
「そう簡単に向こうに逝かれちゃ困るんだよね。君の命は君だけのものじゃないんだから」
その意味を理解するには、彼は朦朧としすぎていた。
けれど抱えらた時の、触れる手の熱さが身を焼くほどに感じられ、彼は意識を繋ぎ止める。
それは自身が血を失いすぎて冷え切っているだけであったが、命の熱を思い起こさせるには十分であった。