第92話 莉子の非日常
遅れて申し訳ありません。
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雷坂莉子が転入してから、数日が経った。
普通に学校に行って、友達と遊んでから家に帰る……いつもと変わらない、ルーチンワークのように流れていく一日。
ざっくりと書き出せば、転校前と何一つ変わりがない。
だが、前と違うと言えば、家に帰れば形式上でも家族と呼べる人物がいることだろうか。どこまでもお人好しな父親に、気に食わない妹。
帰宅することが嫌だと思うが、いつの間にか帰路を歩いていた。
「……ただいま」
滑りが悪い引き戸を閉じると、静かに靴を脱ぐ。
すると、ふと違和感を覚えた。
(おかしいわね……。いつもなら、あのお人よしの声が聞こえてくるのに)
自然と工房の方に視線が向いてしまう。
だが、すぐに気を取り直すと、頭をかきむしる。
「……なんで、私がそんなこと気にしなきゃいけないのよ。話しかけられなくて、清々するわ」
そう言って、靴を乱雑に並べる。
肩にカバンを掛けなおすと、二階への階段を上り始めた……が、その足がピタリと止まる。
「……馬鹿馬鹿しい」
自分でも、何をやっているのか分からないし、理解もできない。
どうして、自分から煩わしい思いをしに行くのか。一度話しかけられれば、いつ解放されるのか分かったものではない。
このまま部屋に向かえば、そんな思いをせずに済むというのに……。
気が付けば、自分の足は工房へ向かって歩を進めていた。
(そう、これはあくまで安否確認よ。倒れていないか、確認するだけ……いうなれば、人命救助の一環よ)
自分にそう言い聞かせて、工房へと向かう。
「「「……!!」」」
すると、工房からは複数の声が聞こえるではないか。
声の中には弘人のものと、美琴のものもある。他にも何人かの声が混じっていた。どうやら、ただ純粋に莉子の声が聞こえなかっただけのようだ。
そのことに安堵を覚えると同時に、チクリと胸が痛んだ。
「ほんと、馬鹿馬鹿しい」
工房から差し込む光が、やけに眩しく見えた。
弘人の無事が分かったのだから、おとなしく部屋に戻ろう。そう思って、再び体を反転させようとする。
だが、どうしてか体が動かなかった。その場に立ち尽くすことしかできなかった。と、その時だった。
「ふふふふ……」
――ぞくり。
その笑い声を聞いた瞬間、背筋に寒いものが走る。
すぐにこの場を離れろと脳が警鐘を鳴らしてやまない。しかし、まるで体が凍り付いたようにピクリとも動かなかった。
呼吸は荒くなり、口から出る息は白かった。
四月も後半に半ばを過ぎたというのに、これは明らかに異常事態だ。ぎこちない動作で、背後を振り返る。
「……い、ない?」
そんなバカなと慌てて周囲を見渡す。
あの心臓を握られたような感覚。手に浮かぶ握り汗が、先ほどの笑い声が幻影ではなかったという確かな証拠だった。
再び工房の方へと体を向けた、その瞬間だった。白魚のように美しい手が背後から肩に伸びてきた。
「何をしているのですか?」
どこから聞こえたのか、すぐに脳が理解できなかった。
視界の端に見えるのは、絹よりも美しい銀糸の髪。耳元で囁かれた声は、美しさよりも恐ろしさを感じさせる。
反射的に距離を取る。
体を振り向かせると、そこには一人の女性が立っていた。
(なん、なのよ……これは)
年は二十歳前後だろうか。
銀をそのまま溶かしたような銀色の髪は腰まで届くほど長い。軍服を連想させる白い制服を身に纏っていた。
スカートからのぞく足は長く、凹凸のある豊満な体はモデルのような抜群のスタイルだった。
特に目を引くのは、その怜悧な美貌だろう。
老若男女が見惚れてしまうその美貌は、忌々しくも美琴によく似ていた。口元には薄く笑みを浮かべているが、その目は切れ長で冷たいイメージを与える。
そんな絶世の美貌も、莉子の目には全く違うものに映って見えた。
(こんな存在……いるはずがない。真っ当な生物じゃない……まるで、魔素そのもの)
莉子の目でも術式までは分からない。
だが、目の前の存在は生物ではない。魔法で形作った魔素そのものというのは分かる。そして、こんな途方もない魔素を内包した魔法の術者は一人しか心当たりがなかった。
「あんた、あいつの魔法か何かでしょう」
心臓の音が鼓膜を激しく振動させる。
笑みを浮かべているが、相手は正真正銘化け物だ。遠目に見た野生の熊が、赤子のように見える。
「ふふふふ。ええ、その通りです。私は、我が主である美琴様の精霊です。あなたは……」
「っ」
気が付くと、その女性は目の前に立っていた。
顎に手を当てられ、まるで覗き込むように忌まわしい目を見つめる。その美しい瞳はガラスのように無機質で、淡々と有用かどうかを判断しているように思える。
「随分と良い目を持っていらっしゃる。ふふふふ、あの男もたまにはいい仕事をしてくれるのですね。……せいぜい、主様のお役に立ってください」
そう言い残すと、体が粉雪のようになって消えてしまう。
まるで幽霊にでも遭ってしまったような気分だ。プレッシャーから解放された莉子は、その場に座り込んでしまう。
「……何なのよ、本当に」
やっとのことで絞り出せた一言。
偽りのない心境だった。
(確かあいつ……自分のことを精霊って言ってたわよね。何よそれ、現代にそんなメルヘンな存在がいるわけないじゃない!ていうか、あれはそもそも精霊とかじゃなくて、悪鬼の類でしょうが!)
声に出して悪態を吐ければどれだけ気分的に楽だろうか。
しかし、あの精霊がどこで耳を立てているか分かったものではない。声を出さずに、心の中だけで罵倒を浴びせる。
あれが精霊とは何の冗談だろうか。悪鬼の類と言われた方が納得できる。少なくとも、同じ精霊でも児童向けの絵本ではなく、グリム童話で出てくる方だろう。
「精霊、ね……」
精霊に遭った時の対処法を調べようかな。
もしかすると、死んだふりが有効かもしれない。そんなことを考えながら、ゆっくりと立ち上がる。
さすがにもう工房に入ろうとは思わない。
むしろ、部屋に戻ってゆっくりと休みたい気分だ。鞄を肩に掛けなおすと、背後を振り返った。
『……』
「……」
目が合ってしまった。
獅子の体躯に狼の頭部、背中には漆黒の翼が存在感を示し、尻尾は蛇の頭になっている。その特徴は、莉子でも知っている有名な悪魔、マルコシアスに他ならなかった。
――なんでそんなのが家にいんのよ!
そう叫びたかったが、一周回って冷静になる。
(どうしてネットには熊に遭遇した場合の対処法は載っても、悪魔に遭遇した場合の対処法は載ってないのよ!)
酷い怠慢だ。
熊などよりも先に、悪魔に出会った場合を想定するべきだろう。
そう考えた瞬間だった。莉子の頭の中で稲妻が走った。
(はっ! 悪魔って、熊の一種ってことじゃない? だから、悪魔の対処法がないのかも。それよ! きっとそうに違いないわ!)
我ながら、名推理だ。
悪魔=熊の仲間であれば、熊の対処法=悪魔の対処法という答えが導き出せる。やはり、SNSは偉大だった。
それよりも、それに気づいてしまった自分の頭脳が怖くなる。
その場で、熊の対処法を検索してみた。
『……』
熊のくせに胡乱気な視線を向けてくる。
さっそく調べた対処法を実践してみた。
「……怖くないよ、怖くない、怖くないからね」
『…………………』
慌てずにゆっくり腕を振りながら、穏やかな声で話しかけながら後退する。どうやら、効果覿面だったようだ。目の前の熊は一歩もその場から動く気配がない……ないのだが、どうしてだろうか。
その目は、どこか自分を憐れんでいるようにも見える。そして、小さく息をついた。
『言っておくが、悪魔は間違っても熊の一種じゃないからな。あと、普通はその場で検索しないと思うんだが』
「……」
再び視線を外すと、「しゃべる熊と遭遇した場合」と検索をかける。
だが、出てくるのはぬいぐるみの通販だけだ。代わりに、知恵袋に投稿してみた。すると、意外にもすぐさま返答が返ってきた。
――精神科に行きましょう。
「本当に役に立たないわね! 目の前にしゃべる熊がいるから聞いたんじゃない! なによ、精神科に行きましょうって! 私は正気よ!」
『……我からすれば、そんな書き込みをする精神を疑うんだが』
「うるさいわね! あんたは黙ってなさい!」
『……』
もう、さっきの精霊と言い熊と言い……この家はどうなっているんだ。
いや原因など分かり切っている。あの平凡な父親ではこんなことにはならない。間違いなく、美琴が原因だろう。
(あぁ、そうか。また、あいつの魔法か何か、か)
そう考えると、荒んだ心が楽になる。
よくよく見ると、先ほどの自称精霊に比べれば、こちらの方が愛嬌があるではないか。特に、背中に背負ったお盆が良い。
「なに、あんた。悪魔のくせに、パシリにされている訳。情けないわね」
『うぐっ。仕方がなかろう!主は、悪魔遣いが荒いのだ』
「あぁ。悪魔だろうが何だろうが使える者なら何でも使いそうだものね」
『……反論できぬこの身が恨めしい』
どうしてだろうか。
先ほどの外見美人よりも、目の前にいる外見悪魔の方がよっぽど善良に見える。そして、どういう訳か馴染みやすかった。
『では、そろそろ行かせてもらう。お茶を用意せねばならんからな』
「そう、あんたも苦労してるのね」
『うむ』
そう言って、隣を素通りして工房へと向かう。
そして、莉子もまた部屋に戻ろうと歩き始める。
(まったく、家に帰ってからの方が疲れたわよ。……けどまぁ、たまにはこんな日があっても良いか)
予期せぬ出会いがあったが、味気のない日常には極上のスパイスだ。
少々、辛味と苦味が強かったが、それも悪くないように思う。当分は、何の刺激もない日々が続くだろうなと思った、その時だった。
『すまぬが、ドアを開けてくれないか。両手が塞がっていてな』
「塞がってるも何も、そもそも手がないでしょあんた。まぁ、良いわよ」
尻尾の蛇が必死にドアノブを開けようとしている姿が、なんとも可愛らしい。
悪魔の情けない姿に腰に手を当てて嘆息すると、代わりに扉を開けた。
「という訳で。今度からアルバイトとして雇うことになりました緋威篤志君です」
「……よろしく、お願いします」
ご満悦な様子の美琴の紹介を受けて、真っ青な表情で頭を下げる赤リーゼントの男子。
その背後には、先ほどすれ違った自称精霊がいるではないか。笑みを浮かべているのは、その二人だけ。
あのお人好しの父親も、美琴の友達である二人組もドン引きしていた。
「あぁ、それと。まだ提案の段階ですが、彼のお父さんにもお声がけさせていただきました」
その言葉に、篤志がびくりと反応する。
まるで、悪魔に囁かれたかのような反応だ。
「彼のお父さんかい?」
「ええ、技師としての技術はなかなかということでしたから」
「そうなのか。けど、無理強いだけはしないでね、本当にね」
念押しする声は、むしろ懇願に近い。
だが、悲しきかな。その声は、妄信する娘には届かない。「ええ、分かっていますとも」と、にっこりと笑みを浮かべる。
短い付き合いだが、美琴は笑顔こそ厄介だ。
その仮面の下で、何を考えているのか分かったものではない。
「心配いりませんよ。こう見えて、私は引き抜きが得意なんですよ。きっと、快諾していただけると思いますよ」
「ふふふふ。主様のコミュニケーションスキルはお見事ですから」
そう言って、笑みを深める人間と精霊。
隣にいる悪魔よりもよっぽど悪魔に見えるのは、莉子だけではないだろう。美琴の友達、彩香や穂香もまた表情を引きつらせている。
「そ、そうかい。くれぐれも、相手方にはご迷惑をおかけしないようにね。お願いだから」
「ええ、もちろんですとも」
その光景を見た莉子は思った。
――あんた、少しはおとなしくできないわけ?
急激に、変化のない日常が恋しくなるのであった。
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