第7話 西川中学
「それでは、行ってきます」
週が明けて。
美琴は今日から学校へ通うことになった。玄関の鏡で身だしなみを確認すると、心配そうな表情で弘人は言った。
「うん、気をつけて行ってくるんだよ。もし何かあれば、遠慮せずに連絡してくれればいいからね」
「……保健室登校で、しかも二時間程度で帰って来るのですが」
「それでも、急に体調を崩すかもしれないから」
あまりにも過保護な発言に、美琴は内心でため息を吐いてしまう。
とは言え、父の心配を無下にする訳にも行かず、頭の片隅にとどめておくと、今度こそ登校するため家を出た。
「美琴、おはよう」
すると、家を出てすぐのところに彩香が立っていた。
「彩香さん、おはようございます。朝早くに、迎えに来ていただいて本当に申し訳ありません」
「ううん、気にしないで。お母さんにも頼まれているし、美琴も一人だと心細いでしょう」
美琴が申し訳なさそうに目を伏せると、彩香は気にしないでと陽気な笑みを浮かべる。
先日、出会ったばかりの関係で迷惑ではないかと思ったが、「もしかしたら、姉妹になるかもしれないから」と言われては納得するしかない。
美琴にも、弘人と千幸の関係は時間の問題のように思えたからだ。
「ありがとうございます」
美琴がお礼を言うと、彩香はどこか気恥ずかしそうに頬を赤くする。
そして、美琴から視線を逸らすと「じゃあ、行こう」と言って並んで登校を始めた。
「それにしても、まだ寒いね」
「ええ、晩冬ではありますが、春はまだ遠そうですね」
「うん。もうすぐ三月なのにね。そうなると、受験がなぁ」
あと二か月も経たず、二人は中三になる。
高校受験を控え、彩香は憂鬱そうに空を仰いだ。すると、何を思ったのか美琴に視線を向ける。
「そう言えば、美琴は大丈夫? 半年近く学校を休んでいて、授業に追いついていける? 特に英語は休むと悲惨だからね」
「ええ、幸いなことに英語は得意ですから。他の授業も、どうにかなるかと……」
英語が得意なのは間違いない。
日本の金融市場もそれなりに大きいが、ニューヨークやロンドンには及ばない。それに、「日本は世界で最も不透明な財務報告制度を持つ国の一つ」と言われ、会計においてジャパンバッシングは度々されて来た。
その関係で、日本語の資料よりも英語の資料を見る方が自然と多くなってしまう。美琴はそう言った背景から、英語に関しては得意というレベルではない。
「あぁ、何か美琴は勉強できそうな雰囲気があるもんね。受験は余裕そう?」
「まぁ、勉強は苦手ではありません。とは言え、受験をするかは分かりません」
「え、何で……あっ」
田辺家の経済状況は彩香も知っている。
高校はお金が掛ると思って、気まずそうな表情を浮かべる。だが、美琴の懸念は別の点にあり、「学費のことではありませんよ」と言って話を続ける。
「学費については、公立高校であれば授業料は免除されますから。月額で支払う金額もありますが、その程度であれば父が支払うと言うでしょう」
「え? じゃあ、どうして?」
「……まぁ、それについてはまた後日ということで」
美琴の最大の懸念は、この状況がいつまで続くかだ。
以前の美琴の学力では、彩香の言う通り学力が足りない。そうなれば、公立高校に通うのも難しくなって来るはずだ。
他にも、仕事関係の悩みもある。
だが、それを口に出すことはできず、適当にはぐらかした。
「そう言えば、株の方は放置していて大丈夫なの?」
歩いていると、不意に彩香が尋ねて来た。
「ええ、よほどの重大ニュースでも流れなければ大丈夫です。スマホを使えば簡単に動かせますが手数料がかかりますから、あまり無暗に動かしたくないんですよ」
「ああ、手数料が取られるのか。そう言えば、株って税金はどうなっているの?」
「それは、証券口座には種類がありまして、特定口座の源泉徴収有りを選択しています」
「ああ、やっぱり税金は払うんだ。なんか、株は税金を払わないイメージがあったから。因みに、中学生でも株ってできるものなの?」
平然と株の取引をしているからか、彩香は気になったようで尋ねて来た。
「できますよ。ジュニアニーサならば、ゼロ歳からできますし。ただ、引き出すことは十八歳までしかできないそうです。私は使ったことがないので、詳しい仕組みは分かりませんが」
「へぇ、そうなんだ……」
美琴の話を半分も理解できていないのだろう。
だが、同年代で株の話ができることに喜びを覚えたのか、美琴はさらに話を続ける。
「そう言えば、この前ブックビルディングに参加したところ、当選したのでIPO株が購入できました。初値は公募価格の三倍で、今も値上がりしているんですよね。いつ利確するか悩みどころです。それに……」
おおよそ、中学生のする会話の内容ではないことに気づかない美琴。
話についていけなくなった彩香は、美琴の話を右から左に聞き流しながら登校するのであった。
*****
美琴と一緒に登校していると、しばらくして校門が見えて来た。
彩香の隣では、美琴は日経新聞の一面について話している。中学生でも新聞を読むことは珍しくないだろうが、日経新聞を読んでいる中学生は珍しいだろう。
だが、その嬉しそうな表情を見たら、それを指摘する気にもなれなかった。
「美琴、そろそろ学校に着くよ」
「あれ? 本当ですね」
話に夢中で気づかなかったのだろう。
周りに同じ制服を着た学生の姿があり、目の前に校門があるため、きょとんと首を傾げていた。
彩香は、その姿に鼻血が出そうになる。
あまりにも可愛らしい姿に、遠巻きにこちらを眺める男子生徒たちが顔を赤くしていた。同性でも見惚れてしまうのだから無理はない。
そんな周囲の反応に気づかない美琴は、堂々とした足取りで校門をくぐる。
「それにしても、視線を感じますね。やはり、制服が珍しいのでしょうか?」
すると、周りの視線に気づいたのか美琴が不意に言った。
以前の学校のもので、西川中学の制服とは異なっている。自分の制服を見直して、彩香にそんなことを尋ねて来た。
「それもあると思うけど……」
一番の理由はそれではない。
まるで夜を溶かしたかのような美しい濡れ羽色の黒髪。
どんなシャンプーを使えば、そこまでサラサラになるのか不思議で仕方がない。腰まで伸びているにもかかわらず、癖が一つもなかった。
そして、匠が作り上げた精巧な人形のように整った顔立ち。
彩香も色白だが、美琴の肌は一度も日焼けしたことがないのではないかと思えるほど白かった。
そんな少女が、歩いていれば老若男女問わず立ち止まってしまう。だが、本人はその自覚がないようで……
「やはり、変なのでしょうか……」
などと、平気で口にしていた。
これに呆れた彩香は、ため息を吐くと足早に職員室へと向かう。その途中……
「やぁ、彩香。おはよう」
一人の男子生徒に声を掛けられた。
振り返ると、そこには校内一有名な男の姿がある。クオーターのようで僅かにウェーブのかかった金髪。身長も高く、顔立ちが整っていることもあって、年ごろの少女に取ってはまさに理想の王子様のようだ。
「西川くん……おはよう」
「他人行儀だな、昔みたいに勇気と呼んでくれればいいのに」
彩香は苦虫をかみつぶしたような表情を浮かべる。
隣で不思議そうな表情を浮かべる美琴。そんな彼女を見て、目の前の少年勇気は、笑みを浮かべた。
「初めまして、転校生かな。僕は西川勇気と言う。彩香とは幼馴染なんだ。よければ、君の名前を教えてくれない?」
「……」
勇気の自己紹介を経て、美琴は無言で彩香に視線を向けて来た。
どうやら、この一連のやり取りで勇気の為人に気が付いたのだろう。表情こそ変わらないが、嫌そうな表情をしているように見えた。
「彼女は、田辺美琴よ。転校して来たのは随分と前らしいけど、この前まで入院していたの。用がなければ、もう行くわ」
「おっと、それは失礼したね。美琴、もしよければ昼休みに一緒にご飯でも食べないか?」
「残念だけど、美琴は早退するからお昼にはいないわ」
「……それは残念だ。なら、彩香は……」
「いいえ、結構よ」
ばっさりと断った。
これ以上話していても意味はないと、美琴の腕を掴むとすぐさまこの場を去った。視線を一度だけ勇気に向けると、そこには複数の少女に囲まれる勇気の姿がある。
それを見て、一際大きなため息を吐くのであった。
「えっと、ご愁傷さまです」
一連のやり取りを見ていたからか、美琴は彩香を労わるような声を上げる。だが、災難なのは美琴も同じだ。
「美琴も、他人事じゃないの。目をつけられたみたいだから」
と言うと、美琴は盛大に顔を顰める。
そして、暗い表情で顔を下げると、小声で「……排除するべきか」などと言っていたような気がした。
彩香は聞かなかったことにすると、美琴を連れて職員室へと向かう。そして、担任教師のもとへ向かった。
「ああ、あなたが……鍋田さんだったわよね」
「いえ、田辺ですけど」
「あら、そう……そうだったわ。田辺美琴さんね。ごめんなさいね」
美琴のクラスは彩香とは違うため、担任教師は違う。
だが、目の前で名簿を見ながら言うのは酷いだろう。覚えていないと言うことを隠そうともしていない。
その態度に美琴は気にした様子がないが、彩香は怒りを覚えて注意をする。
「先生、その態度は酷くないですか?」
「ああ、三沢さんか。仕方がないわよ、彼女とは初対面なのだし」
初対面と言う言葉に、彩香は驚く。
いくら転校して一度も通学していなかったとしても、手術後に一度くらいは様子を見に来ても良かったのではないのか。
そう思ってしまったからだ。
「それにしても、もうしばらく休んでいた方が良いんじゃないの? まだ、体調も戻っていないようだし」
美琴の体調を心配しての一言ではないのは明らかだ。
おそらく、美琴の体調が悪化しては自分の教師としての評価が下がると心配しているのだろう。迷惑そうな表情をしていた。
「先生……」
堪らず口を挟もうとするが、美琴が彩香の言葉を遮るように言った。
「はい、分かりました。取りあえず、今日は顔を出しに来ただけですので、しばらくの間は自宅で勉強しようかと。保健室登校であれば、自宅学習とあまり変わりませんので」
「そう、それならいいわ」
その一言を皮切りに、再びパソコンと向かい合う担任教師。
その態度に沸々と怒りが込み上げて来るが、美琴に引っ張られる形で彩香は職員室を出た。
「何で止めたの?」
「不毛な言い争いになりますから。それに、先ほどの言葉も本心です。教室に行かないのであれば、自宅で勉強していても変わりませんし。それよりも、保健室に案内してくれませんか」
「……分かった」
納得はできないが、部外者である自分がこれ以上口を挟むのは筋違いだ。
気持ちは晴れないが、美琴が事を構える気がないのであれば彩香は矛を収めるしかない。
美琴を保健室に案内すると、彩香は教室に戻るのであった。
【用語】
IPO株(新規公開株)
未上場株式が、新しく上場した株のことです。
新規上場企業の中には、時代のニーズに合った新しいビジネスで急成長を遂げる企業も多く、注目が集まりやすいです。
十年以上前ですが、ガ○ホーは初値が公募価格の四倍近かったですね。
ただ、IPO株は全てが上がるわけではありません。
逆に下がるものも当然ですがあります。