第28話 田辺 弘人
田辺弘人視点です
時の歩みは早いもので、四月も後半。
満開だった桜は散り、葉桜に変わるこの季節。魔法演舞出場の目途が立ったことで機嫌が良かった美琴であるが、一転して氷の空気を身に纏っていた。
「本当に申し訳ありません」
リビングの冷たい床で娘に土下座をする男、田辺弘人。
弘人が謝っている理由は、テーブルに置かれた一台のパソコンにある。そのパソコンのディスプレイには、証券会社のアプリが映されていた。
一言で言って、真っ赤。
どの銘柄の価格も、不吉な赤に染まっている。
美琴が失敗したのか……そんな訳がない。上の方には緑色の数字がいくつも並んでいる。では、誰が……一人しかいないだろう。
「……つまり、私が株の運用をしているのに興味を持って、興味本位で購入したと。しかも、百株を間違えて千株買ってしまったということですか?」
学校から帰宅したばかりのため、美琴の服装は制服だ。
帰宅後すぐに着替えるのだが、弘人の放った爆弾にそれどころではなくなった様子だ。
「……はい」
床を見つめて、小さく肯定する弘人。
中には、千株ではなく一万株のものもある。
だが、それを訂正する勇気は弘人にはなかった。何せ、美琴が半年間コツコツと溜めていた利益がゼロになるほどの損失だ。
美琴に向ける顔がない。
しばらくの間、リビングを包み込む静寂。
美琴のため息によって、その静寂はうち破られた。
何を言われるのか恐ろしい弘人は、ゴクリと喉をならして続く言葉を待つ。
「はぁ……もう良いです。頭を上げてください。過ぎたことをとやかく言う気はありません」
そう言われて、おそるおそる顔を上げる弘人。
美琴は真剣な眼差しでパソコンを見ている。おそらく、弘人の買った銘柄を厳選しているのだろう。
話しかけられる雰囲気ではなかった。
(やっぱり、美琴は琴音に似ているなぁ)
娘の真剣な横顔を見て、そんなことを思う弘人。
特に、何かに集中していると周りを忘れてしまうところがそっくりである。正座をしたまま放置されているので、足の感覚がない。
いったい、いつになったら気づいてくれるのだろうか。
「……取りあえず、機を見て売るしかありませんね」
そう言って、美琴はパタリとパソコンを閉じると、弘人に視線を向けて来た。不思議そうな表情でこちらを見て来る。
「いつまで正座をしているのですか? 話があるので、そちらに座ってください」
「っ!?」
「話」という部分に敏感に反応する弘人。
お説教の時間だと言われているようで、顔色が青くなる。とは言え、逃げることはできない。感覚を失った両足に鞭打って、よろけながら立ち上がると椅子に腰かけた。
「そ、それで、話って……」
戦々恐々としながら、尋ねる弘人。
美琴は何を言っているんだという様子で、呆れたような目で弘人を見返して来た。
「今回の件の反省です。一番の原因は、やはり報・連・相が出来ていなかったことですね。報告、連絡、相談はしっかりとしておいてください」
「うぐっ!」
中学生の娘に報連相の重要性を説かれる父親。
美琴の方が頭が良いと分かってはいるが、父親としてのプライドはズタボロだった。そんな弘人の内心を知らない美琴は、更に追い打ちをかける。
「今回の件は、多少高額ですが授業料だと思うことにしましょう。どうせ暇つぶし程度にやっていたことですし」
「暇つぶしって……」
美琴の稼ぎは、仕事が不定期な弘人よりも多い。
このご時世、銀行に預金したところで利息は微々……というよりもほとんどゼロと変わらない。
遊ばせておくくらいなら運用した方が良いと美琴は言って、学業の片手間に株取引で稼いでいる。設備の購入や維持費に充てるという話を聞いていたが、やはり父親としてはプライドが傷つくものだ。
「お父さん、聞いていますか?」
「え、ああ、うん……」
呆然とした表情をしていた弘人に、美琴から鋭い視線が飛ぶ。
「それで、今回の件で何が失敗だったか分かりますか?」
「えっと。……運が悪かったとか?」
弘人の一言に、美琴は大きなため息を吐く。
自分でも経営センスどころか、資金管理さえ碌にできない自覚はある。美琴が「技師としては天才なのに、経営者としてはマイナスですね」と呟くのが聞こえる。
今回の申し訳ない気持ちでいっぱいだ。
「それで原因は何だったの?」
居た堪れない気持ちで尋ねると、美琴がパソコンを開きディスプレイを見せて来た。
「これは……よ、読めない」
またしても英語だ。
と言うより、美琴が見せて来るものは英語が多い。魔道具に関する英語であれば大抵読めるのだが、本当に同じ英語かと思うほど読めないのだ。
困ったように美琴に視線を向けると、説明を始めた。
「ご存知の通り、アメリカは要人の一言が株価を動かします」
「えっ、そうなの!?」
知らなかった。
日本で、首相が何か言ったとしても大抵株価に影響はないからだ。そもそも、首相を始めとした大臣などのニュースを見ていない。
美琴に言われて、ようやく日銀総裁のニュースを見るようになったくらいだ。
驚愕を顕わにすると、美琴が呆れの混じった視線を向けて来る。
「誰とは言いませんが、某国の大統領がSNSで呟くと、世界に大きな影響を与えているのはご存知ですよね」
「……確かによくニュースになるよね。ああ、もしかしてそれが原因なの?」
「ええ。影響が大きいのは大統領よりも中央銀行の議長の発言ですね。先日説明しましたが、金利と株価の話を覚えていますか?」
「確か、金利が上がると株価が下がって、金利が下がると逆に株価が上がるんだよね。シーソーみたいに」
「はい。金利が高くなるとリスクの高い株式投資よりも、リスクの低い預貯金や債券の人気が高まり、株価が下がりますから。中央銀行は、金利に影響を与えますので」
美琴は一息つくと、話を戻した。
「それで話を戻しますと、要人の発言がアメリカの株価に影響を与えると、ダウ平均株価が変動します」
ダウ平均株価。
アメリカの代表的な株価指数である。日本で言う日経平均株価のアメリカ版である。ニュースに疎い弘人でも、頻繁にニュースで取り上げられるため流石にそれは知っていた。
「以前話したと思いますが、日本はアメリカの影響を強く受けます。そのため、ダウ平均株価の変動が、日経平均株価に連動します」
「本当に、日本はアメリカの影響が大きいんだね……」
弘人は美琴の説明に苦笑を浮かべる。
美琴もまた「全くです……」と言ってため息を吐いた。国が頼りないと感じてしまうが、きっと官僚たちは板挟みになって毎日胃を痛めていることだろう。中間管理職の悲しい性であるため、責める気にはなれなかった。
「取りあえず、この話はここまでにしておきましょう。本題ですが、お父さんは運が悪いのではなく間が悪いのです。FXの時もそうでしたが、何故このタイミングなのですか?」
「えっと……暇だったから?」
弘人の仕事は、不定期だ。
美琴の依頼で、彩香の魔道具を作っていた。しかし、ちょうど一昨日に完成してしまったのだ。仕事の依頼もないため、暇を持て余していた。
「はぁ……」
弘人の返答に、深いため息を吐く美琴。
気を取り直すと、別のページを開いた。今度は日本語である。
「えっと、最近のニュースだよね」
「はい。米中貿易摩擦の深刻化、アメリカ大手企業が売上高の見通しを下方修正。日経平均、ダウ平均ともに下落と上昇を繰り返しています」
「うわぁ……」
弘人でも、そこまで言われれば美琴の言いたいことは分かる。
本当に何故このタイミングで株に手を出したのだろう。素人がイカダで嵐の中航海するようなものではないか。
そんなことを思ってしまい頭を悩ませると、美琴がさらに言葉を続けた。
「しかも、よりにもよってマザーズ市場のものばかり……」
「えっと……マザーズって何だい?」
「東京証券取引所の株式市場です。東証一部と二部については知っていますよね?」
「まぁ、一応は。有名な企業だけが、東証一部に上場できるんだよね」
「それは誤りです。条件さえ満たせば、知名度が小さい企業でも上場できます」
意外と条件が緩いのかなと思った弘人だが、美琴がジト目で「当然ですが、条件はかなり厳しいものですよ」と付け加えた。
ギクリとなった弘人であるが、美琴はコホンと可愛らしく咳払いすると話を元に戻す。
「それでマザーズとは、ベンチャー企業向けの株式市場です。上場基準が一部や二部と比べて非常に緩いです。将来性さえあれば、上場できます」
「基準が緩いって、もしかしてかなり危険なんじゃ?」
「今頃気づきましたか……。マザーズはハイリスクハイリターンです。中には、数年後に十倍以上になっているものもあります」
「えっ、そうなの!」
もしかしたらいい買い物をしたのではないか。
そう思った弘人であるが、美琴は「宝くじのようなものです」と言って首を横に振った。
「成功する企業以上に、失敗して倒産する企業が多いんです。もしかしたら、購入した証券が、今日には紙切れになっていたかもしれませんよ」
「……」
弘人は言葉を失う。
自分が何をしたのか悟ったのだろう。もし、美琴に対しての後ろめたさから報告が遅れたら……それを考えると背筋が凍る。
父親として情けないが、後は娘に任せるしかないと悟った弘人であった。
「さて、そろそろ夕食の支度をした方が良いですね。これからは株についての勉強も必要そうです」
そうして、弘人の一日は終わるのであった。




