庭園にて1。
「ギアッド!」
頑丈な塀に囲われた庭園は、隅々までしっかりと管理されていた。地球儀の様な球体のモニュメントや木製のベンチ、池などが配置され、ちょっとしたお洒落な公園みたいだ。つい先程まで降っていた雨のせいで、芝生には多少の水滴が残っている。
その中央で対峙しているのは、トアと……ギアッドだった。
援軍って、あいつだったのか。
両者の前には召喚獣が二体ずつ。絵里はトアの後ろに隠れる様にして立っている。
「トア! 大丈夫か?」
「あ、ヤナギー! 私を心配して来てくれたの?」
嬉しそうに笑うトア。いや、その通りなんだけど……おかしいな。昨日と全く同じやり取りをしている気がするぞ。
「ようやくお出ましか。まんまとフォト姐さんに逃げられちまったみたいだなぁ」
くくく……と嘲笑するギアッド。相変わらず首、手首、腰には鎖の様な銀色のアクセサリーが鈍く光る。……ん?
「フォトって、偽名じゃないのか?」
「同姓同名が居たから利用したんだとよ。その方が逆に自然に振る舞えるからってさ」
呆れた様に肩を竦める。なんと、本名だったのか。同名の職員からIDナンバーを拝借するなんて、実に堂々としている。
「こいつから話は聞いたわよ。そっちはとりあえず大丈夫みたいね。古文書は無事?」
ギアッドの方に注意を向けながら、トアが尋ねてくる。トアが従えているのはバービットと、見た事の無い大きな鳥だ。眼鏡を掛け長靴を履いている。
「緑青の方は取られちゃったけど、紺碧の方は守ったよ」
手にしていた古文書をトアに向けて掲げ、ピースサインを作る千佳。「さすが千佳ちゃん!」と拍手を送る絵里。
「ありがとう。まぁ問題無いわ。どうせ召喚なんて出来ないだろうし、書いてある文字さえ読めないだろうからね…………ん?」
言い終わると同時に、怪訝な表情に変わる。
トアともあろう者が、臨戦態勢のギアッドから完全に目を離し、驚いた顔でこちらを向いた。そのギアッドも、訝しむ様にこちらに目を向ける。
「まさかチカ、古文書読めるの!?」
「うん。蒼天の竜の古文書見たから、覚えた」
何処と無く誇らしげに胸を反らす。いや、誇れるスキルである。英語すらギリギリ平均点の俺には、その言語習得能力は到底理解が及ばない。どういう頭の構造してるんだ。
「……マジかよ。リッシュ君でさえ正確な解読は出来ないっていうのに」
ギアッドから、思わずといった様子で漏れた、驚嘆の呟き。
俺はその一言に、耳を疑った。
………………え?
「あら。召喚術の天才だなんて担がれても、やっぱり古代文字は読めないのね。仕方ないわ。私だって解読するのに二ヶ月近く掛かったんだもの」
二か月……?
「あの人は感覚で大抵の事をやってのけちまう天才気質なんだよ。古代文字なんか読めなくても、勢いで竜の召喚くらい出来ちまうんじゃねぇか?」
何だ、何か引っ掛かる。
頭の片隅で何かが渦巻いた。会話が急に遠くなり、俺は記憶を無我夢中で模索していた。
リッシュは、古代文字が読めない……。トアは解読に二か月近く掛かった……。
何か重要な事に気付きそうな気がする。バラバラに点在していた疑問が、あと一歩で繋がりそうな……もどかしい感じ。
無意識に思考に沈んでいたその時、ふと袖を引っ張る千佳の存在に気付く。
「……フォトさんはとっくに逃げてるはずなのに、ギアッ君はまだここに残ってる。……それに、見て」
上空を見るよう目で合図し、それとなく俺も目を向ける。散らばる小さな雲の塊、その隙間から昼の太陽が顔を覗かせ、それに紛れる様にして何かが空を飛んでいた。
ホバットだ。
「誰が喚んだホバットか分からないけど……可能性は充分ある。試してみる価値はあるよ」
「…………確かに、そうだな」
エレベーターから降りて庭園に向かう間、俺は千佳の推理を聞いた。俺なんかの飛躍した想像なんかよりよっぽど説得力のある推理だったが……もしもそれが事実なら、俺達にとって余りにも喜ばしくない結果になる。
だけどそれなら尚の事、確認する必要がある。対策と、真実の為に。
「絵里、蒼天の竜を召喚するよ!」
千佳が声を上げる。
「分かった!」
絵里は何の迷いも無く頷いた。一瞬の躊躇も逡巡も無い。きっと相手の指示を信じ切っているのだ。その関係が頼もしく、羨ましくもある。
時間の掛かる竜の召喚術を戦闘相手に予告するなんて愚の骨頂だが、この場合はいいのだ。千佳はきっと、ホバットに聞かせる様に言った。
「あ、ダメだ。描く所が無いよ! 木の枝とか落ちてないし、こんな綺麗な芝生傷付けられない」
「えーー!」
謎の理屈で絵里が躊躇した。
竜が召喚されたら芝生どころでは無い気がするが、確かに自ら傷を付けるには抵抗がある程、地面は青々と美しい。綺麗に管理されている事がこんな形で仇になるとは。
竜の召喚図形はそれなりのサイズが要る。手持ちのノート等では到底スペースが足りないのだ。
「おーけー。まかせて」
トアはバービットを送還し、続けて新たな召喚術を発動した。喚び出したのは同じくウサギだったが、雪の様に真っ白で、ダッフルコートを着込んでいる。その瞳は深く青い。
「わぁ、イヌイットのアノラックみたい。夏に見るには暑苦しいね」
率直に辛辣な感想を述べる千佳。確かに。燃えているバービットも暑いが、この格好も見ているだけで暑い。
「アイビット! あの池をお願い!」
指示を受けたダッフルコートのウサギは、池に向かって猛ダッシュする。そしてバービットの攻撃方法同様に回転を始めると、その身は白い煙に包まれた。
「あ、なんか冷たい風。もしかしてあれ、冷気?」
絵里が疑問を口にした直後に、ウサギは池に向かって勢いよくブレスを吐く。
その瞬間。
「うわっ」
池はあっという間に凍り付いた。ひんやりした空気が広がり、庭園の気温を少しだけ下げる。
……凄い。こんなの元の世界では絶対に出来ない経験だろう。
バービットのもそうだけど、こんな攻撃を生身の人間が受けたらひとたまりもない。
「ここなら描けるでしょう」
「ありがとう、トアちゃん」
飛び散った氷の破片を一つ手に取って、勢い良く図形を描いていく絵里。見事な連携だ。上に乗って大丈夫なのか、とか、滑って描きづらいんじゃないか、なんて俺の心配を置き去りに、鮮やかに図形が出来上がっていく。
ふと気付く。ギアッドは臨戦態勢を取りながらも、一連の流れに手を出さずただ傍観していた。
通常であれば阻止しようとするはずだ。脅威と分かっている竜の召喚を、あのギアッドが見過ごすはずが無い。
やっぱり、フォトさん脱出の援護以外に、何かここに残る意図があるんだ。
「我、異界の力を求める……」
絵里が描き終えると同時に、千佳の詠唱が響いた。すると瞬く間に、池の表面から凄まじい閃光が溢れ出る。凍った水面に反射して、今まで以上に眩しい。
蒼天の竜……。これで喚び出すのは三度目だ。
今度もまた、ちゃんと俺に従ってくれるだろうか。あの時は気紛れで聞いてくれただけかもしれない……などと、些か心配になる。
そして。
「ギャァァァアアァァァアアアッ!!!」
見事に、召喚された。
相変わらず溜息が出るほど鮮やかな蒼い鱗。庭園一帯を影で覆ってしまう大きな翼。頑強で凶悪な尻尾。深い紺碧の双眼。陽の光を一身に受けるその姿は、実に神秘的で圧倒的だった。
「……初めてこんな至近距離で拝んだぜ。ゾクゾクするなぁ」
ギアッドは笑みを浮かべるが、その額には汗が滲んでいる。これ程の存在が自分に敵意を向けるとあれば、誰だって足がすくむだろう。従えているはずの俺だって、鼓動が加速している。
召喚された初日、赤銅の竜に狙われた時の事を思い出す。現実から非現実に一変したあの瞬間は、本当に恐怖だった。
だが今回は違う。
この召喚は、戦闘目的じゃないのだ。
「グルルルル……」
蒼天の竜は周囲を窺う。指示を待っているのだろうか。
ギアッドの前には二体の召喚獣。一体は先日も見た騎士の様なカマキリ。もう一体は羊だ。その身に纏う羊毛は真っ黒で逆立っている。パチパチと電気を帯びている様は、まるで雷雲だ。
攻撃を仕掛けてくるか。それとも……。
と、その時。
「……ッ!!」
全く別の方向から、強烈な閃光。
研究施設の反対側。庭園の奥に何者かが佇んでいる。その足元には大きな図形が描かれ、そこから柱状に光が伸びていた。影になるその姿は、しかし確実に見覚えのある風貌だった。
「まさかこうも期待通りに事が進むとは。実に素晴らしいよ、君達は」
地の底から響く様な、低く嗄れた声が耳に届く。最初は感じなかったはずの、不気味さと嫌悪感を伴って。
「……ロジーさん」
翻るコート。風に煽られて、猛々しく暴れている。
「我、異界の力を求める。されど万物、在るべき世界に在るべき居場所……」
ロジーさんはそのまま詠唱を始めた。勿論それは召喚術なんかじゃない。対象の本質を歪めてしまう異質の空間、異界溝へと送り返す……強制送還術。
「……この世界から、立ち去れ」
詠唱が終わると、蒼天の竜はロジーさんが描いた図形に引き寄せられていく。俺達や周囲の木々は何の影響も受けていないのに、その巨体だけが抵抗し切れない程の引力を一身に受けていた。
「ギャァァァアアアアァァ!!!」
まるで悲鳴の様な咆哮。綺麗に整備された芝生に痛々しい爪痕を残し、見る見る内に体が飲み込まれていく。
フォトさんの話を信じるなら、異界溝と竜の国はイコールである。異界溝の何処かにあるのか、はたまた異界溝自体がそうなのか、その詳細については不明だ。だけどつまり竜に関してだけは、強制送還術だとしても……。
「ちゃんと竜の世界に還っている……はず」
俺と同じ胸中なのか、千佳がポツリと声を漏らす。
痛む心をそんな風に納得させる。きっと千佳も、検証の為とは言え罪悪感を覚えずにはいられないのだろう。
「……そんな……」
「まさか、蒼天の竜まで……」
送還されていく竜を見て、唖然とする絵里とトア。
どこか切り札の様に感じていた、その絶対的な存在。それすらも通じないと思い知らされ、ロジーさんの力に改めて脅威を感じているのだろう。
だが俺と……千佳だけが、険しい顔を崩さなかった。
「…………」
光が収束すると同時に、静寂が浸透していく。吹き荒ぶ風はやがて落ち着いていった。
絵里があれだけ気にしていた芝生に傷を残して、伝説の竜は跡形も無く消滅してしまったのだ。
「……何度見ても痺れる。圧巻だな」
口の端を釣り上げ、身震いしながら呟くギアッド。
夏の日差しが辺り一面を容赦無く照らし、ロジーさんの姿を鮮明に浮かび上がらせる。
「ふむ、問題無さそうだ」
手にしている杖で、地面の図形をなぞる。その図形は、そっくりそのまま蒼天の竜のそれだった。
「やっぱり……思った通り」
ギアッドがここに残っているのは、俺達と交戦する為。
そして空にホバットが居たのは、その様子を観察する為。
その目的は……蒼天の竜の強制送還。
「…………おかしいと思ってたんだ」
騒然とする空気の中、口を開いたのは千佳だ。
「一昨日、ケミー君が柳を鉄砲で狙った時の事。トアはこう推理してた。柳が死んじゃったら、危険性を考慮して私と絵里は送還される流れになるはずだって。だからロジーさんは、ケミー君に柳を狙うよう指示したんだって。ロジーさんは、私達をこの世界から排除するのが目的だから」
そう、俺も同じ事を考えていた。そして疑問も生まれた。
何故あのタイミングで、しかもケミーを使ったのか。
何故俺達に対して、強制送還術を使わなかったのか。
「その理由が、昨日今日のロジーさんを見て分かった。確信したよ」
硬い口調で話し始めた千佳だったが、徐々に熱を帯び始める。気付いたのだ。推測を武器に捩じ伏せる時は、弱気になってはダメだと。
トアも絵里も、ギアッドも、千佳の推理に聞き入っている。いつも余裕を見せていたロジーさんすら、次第に険しい表情を滲ませ始めた。
「ロジーさんは、私達の事は送還出来ない。……自由自在に強制送還術を使える訳じゃないんだよね」