昔の話13。
「聞いちゃったのね。私の心臓の事」
ナルミは淡々と……しかし悲観的な素振り無く、呟いた。
降っていた雨はすっかり止んで、沈みゆく夕陽が薄く広がる雲の向こうで鮮やかに焼けている。病室内は緩やかなオレンジ色に染まり、輪郭をくっきりと落とす影が何処か淋しげな印象を与える。
トアはロジーを連れて大庭園に遊びに行った。恐らくまた戦闘訓練の真似事をしているのだろう。せがまれて仕方無く教えているロジーだが、なかなか様になってきたと以前笑っていた。
今ここには、私とナルミの二人だけだ。
「ナルミ、知っていたのか? 自分の病気について」
「知ってた。勿論。この世界に来る前からの事だもの」
そうだったのか。……10年以上も、そんなものを一人で抱えながら生きていたのか。
「どうして教えてくれなかったんだ。知っていたら、もしかしたら何か対処が出来たかもしれない」
「うーん……」
ナルミは困った様に顔を歪ませて、トアが大量に剥いたアーチェの実の一つを摘まんだ。
「何て説明したらいいのかしら。難しいわね。隠してたつもりは本当に全然無いんだけど」
アーチェの実を頬張りながら、丸い瞳をキョロキョロと動かす。……私はナルミを責めているわけでは無いのだ。だから、ナルミが最適な言葉を見付けるまでひたすら待つ。
「……心臓に異常が見付かったのが、私が大学三年生の時。健康診断で心雑音とか不整脈があって発覚したって感じね。その発見がちょっと遅かったみたいで、その頃にはもうそれなりのサイズになってて手遅れだったみたい。余命半年って言われたわ」
「半、年……」
作り話の様でとても信じられそうに無かった。だって、ナルミは今も元気でここに居るのだから。その時点で余命半年……であるにも関わらず、ナルミは無事に10年以上も元気に過ごしていた。本来であればそれは喜ばしい事なのだろうが……。
今ここに来て、その病魔が改めて牙を剥いている。
「余命宣告されてから半年後っていうのが、この世界に来て最初の冬。体は本当に何とも無くて、悪い夢だったんじゃないかって思った程だったんだけど、それでもやっぱり不安になった。私はこの冬を越せずに死んじゃうのかなーって」
……そうだ。あの日、イルミネーションを見に行った最初の年。夜も遅いというのにナルミは私の部屋にやってきた。
『私にだってなかなか眠れない日もあるのよ』
宣告通りに、体調が急変してしまうかもしれない不安と恐怖。この世界の誰も知ってくれていないという孤独感。あの言葉の裏には、そういうサインも含まれていたのかもしれない。
頭が急激に熱くなり、頭痛に似た衝撃に襲われる。
私は、私自身への怒りが収まらない。
私の知らない場所で、ナルミはこんなにも辛い思いをしていた。これ程情けなく悔しい思いをした事が、未だかつてあっただろうか。
好きな女一人守れていなかったのだ。不安や恐怖など無縁で、強い女だと決め付けていた。その内側では病魔に侵され、人よりも身近にある死にただただ怯えていたんだ。
「そうか、その時……ロジーと話したんだな」
丁度そこに通りがかったというロジー。ナルミから『もうすぐ死んじゃうんだ』と告げられながら、それを追求出来なかった事を悔やんでいた。だけどそのたった一言でも、吐き出せたナルミは少しだけ救われたのかもしれない。
……我々は無力だった。呆れる程に無知だった。
底抜けに明るいナルミに救われて、日常が彩っていた。そんな本人に対して、何をしてやれていただろう。
愚かにもこんな事になってから、私は私の罪を心から憎んだ。
情けない……。
召喚法を築き、誰よりも術に精通しようと鍛錬に努め、新たな召喚術の創出などに妄執し……結果私は、取り返しの付かない傷を自らに刻む事になった。
かけがえの無い大切な人を、苦しめる事になった。
許せない。私自身が。
自身を責めて好転するのなら、いくらでもそうしよう。だがそれすら……、
「ザイン君」
「……っ」
闇が、渦巻いていた。まるで暗く厚い、息苦しくなる程の深い曇天の様だった。
そこに、一筋の光が差し込んだ気がしたのだ。柔らかく暖かいオレンジの光が、鮮やかにその闇を貫いた。
「……そんな顔しないで」
私の視界は一体どこに行っていたのか。彷徨っていた私の目線が、その時改めてナルミを正面から捕らえた。ナルミは夕焼けを浴びて実に柔らかく、まるで幼いトアをあやす様な、優しい顔をしていた。
私は、どんな顔をしていたのだろう。
「違うのよ、ザイン君。私が言いたいのはそういう事じゃないの」
「……え?」
「昔話した事があるよね? 自分探しの旅に出たいと思ってて、親とか友達にもそういう話をしてたって。だからこの世界に召喚された時も、不安よりむしろ夢が叶って良かったなーって思ったって」
そういえば話していた。あの会話ももう10年も前の事になるのか。その告白は、私が抱くナルミへの罪悪感を薄め、結婚を決意するに至ったきっかけの様なものだった。
「あれ本当はそんなポジティブな理由じゃないのよ。むしろ全然ネガティブなの」
「…………」
「私の病気が分かってから……家族の空気がなんだか暗くなっちゃってさ。両親は些細な言い合いが増えたし、私もちょっと自暴自棄というか、投げやりみたいな状態になってた」
鮮やかなオレンジは次第に雲に紛れて沈んでいく。紫から夜の闇へ。窓の外に見える空は、実に幻想的な光景を魅せていた。
「本当、修羅場って感じだった。それで思ったの。私が居なくなればいいんだなって。余命くらい、誰も私を知らない場所で穏やかに暮らしたいなって」
そんな……と言いかけて、口を噤んだ。
私に何が言えるだろう。その境遇はきっと私の想像を絶する。浅はかな慰めなど、私自身の自己満足にしかならない。
ナルミは優しく笑っている。辛い過去を思い出しているだろうに、その瞳に悲観はまるで見当たらない。
「環境が変わればちょっとくらい好転するかもなんて、淡い期待もあったわね。……そう思ってたらこの異世界に呼ばれたの。情けない逃避願望が発端だったとは言え、望み通り全然知らない場所に来ちゃった。すぐに帰れないって事が、逆に色々吹っ切るいい機会だったとすら思えたわ」
病室が、夕闇に溶けていく。薄暗い空間に、まるで毛布に包まれる様な、優しい声が響いていた。
「あの冬の日に泣いてたのは、本当の本当は、不安だったから……だけじゃないの」
大庭園に設けられた外灯が点灯する。
その時。
「幸せだったからなの」
すっ……と、ナルミの頬を光が伝った。外灯に照らされたそれは、音も無く床に落ちる。恐らくそれと同じものが、今度は私の目を熱く滲ませた。
「優しい人達に囲まれて、いつもそばにはザイン君が居てくれて……幸せだなぁって。このまま生きていたいなぁって、そう思ったら泣いちゃってたのよ」
触れたら壊れてしまいそうな程か細い、だけど優しくて繊細な声を、私はただただ大切に聞いていた。
「でもそうしたらこんなに長く生きれたじゃない。あの日から10年も。ザイン君と結婚してトアまで生まれて……私は本当に幸せだった。だからもう満足なのよ」
この世界に来る前……元の世界での状況は修羅場だったとナルミは言った。崩壊しつつある家庭環境。絶望に苛まれるナルミの体。どこか遠くへ逃げてしまいたいと思う程、追い込まれていたのだ。
この世界に召喚されて、どういう訳か余命が伸びた。今日の今日まで、言われなければ気付けない程、ナルミは実に普通に過ごしていた。
そしてそんな日々を、幸せだと……そう言ってくれた。
「修羅場の続きが異世界で始まったってだけ。でも私はもう受け入れてる。この世界で私は第二の人生を存分に楽しんだの。だから抗わないで残りの命をあるがままに過ごそうって……そう思ったの」
凛とした表情で、力強い笑みを浮かべた。私に言える事など、初めから何一つ無かったのだ。
ナルミの底抜けに明るい性格の正体が分かった気がした。勿論、空元気や病気の反動などでは決して無い。全て受け入れ、心から楽しんでいるのだ。
自分の運命を。残りの余生を。
ナルミは特別強い女性だと思っていた。でも実際は、病気に打ちのめされ、不安に泣いたりする、ごく普通の女性だったのだ。
……だけど、やっぱり強い女性だった。
私はこの偉大な女性の優しい声を、美しい顔を、脳裏に焼き付けた。そして改めて誓うのだ。
なんとしてでも送還術を構築し、必ずやこの人を救ってみせると。
暗がりが落ちる病室。途端に弱々しく見えたナルミが、小さく呟いた。
それはまるで……遺言の様に。
「トアを、どうかよろしくね」