北スラム5。
急ブレーキをかけて、慌てて振り返る。上り坂の遠くの方に、煉瓦造りの橋とそれを覆う様に広がる煙幕を確認するが、トアの姿は見えない。
「トア、付いてきてない。もしかして、あのカメレオンにやられちゃったのかな」
心配そうに千佳が呟く。いや、きっと違う。
「あいつ、最初から1人で……」
相手をする気だったのかもしれない。俺達を逃がす事を優先してくれたのだ。
自分自身に苛立ちを覚える。何回不甲斐ない思いをすれば気が済むんだ俺は。トアを守る為にここに来て、トアの身を案じて行動していたはずなのに、結局トアに守られている。これじゃ意味無いじゃないか。
反射的に走り出し、来た道を引き返す。俺が行って何が出来るって訳でもないけど、盾になる事くらい出来るはずだ。
トアが、俺にしてくれた様に。
「柳っ!」
「千佳ちゃん、待って!」
後方に2人の声を置き去りにしながら、ふと考える。2人はこのままこの場所に居てもらうか、一緒にギアッドの所に戻るか……どっちの方が安全だろう。この場所だって別の誰かが現れる可能性があるし、かと言ってあんなに好戦的なギアッドの近くに居るのも危険だし。
そんな思考が巡る中、それでも足は止まらなかった。脳裏には、ケミーの放った弾丸に貫かれたトアの映像が繰り返しよぎる。あの出来事は相当俺の記憶に焼き付いてしまったみたいだ。
その恐怖と不安と心配とが、優柔不断な俺の足を葛藤から振り払ってくれている様に思えた。
橋の下まで辿り着くと、さっきまでの黒煙はある程度霧散していた。立ち位置はそれぞれ変わっていないが、従えている召喚獣に明確な差が生まれている。
「ククク……。計算尽くなのか機転が利くのか、どちらにせよ大した女だ」
ギアッドが召喚したハナレオンは、怯えた様子でトアから距離を取っている。トアの前には先程黒煙を噴出させた亀と、両耳と4本足が燃え盛るウサギ……バービットが並んでいた。
「連中を逃がす為の煙幕に紛れて、もう一体召喚……そのまま間髪入れずに攻撃に転じる。そのウサギを選んだのは、この煙幕の中少しでも標的を狙い易くする為かな。一瞬のチャンスも無駄にしない、尚且つ召喚獣の特性を理解し、瞬時に的確な方法を選択している」
ギアッドは橋の欄干から見下ろし、不敵な笑みを浮かべている。
「あんたやっぱりトア王女だろ」
「どうだっていいでしょ。肩書きで対応変える男なんてモテないわよ」
強気だ。絵里にも千佳にも無いものを持っている。それは絶対的な自信だ。
俺の心配は杞憂だったみたいで、状況はトアの方が優勢に見える。だけどギアッドの余裕な態度を見るに、油断は出来ない。
「とするとそこの野郎はもしかして、一昨日召喚したって噂の異世界人かな?」
不意にギアッドの視線が俺に向いた。様子を見つつ距離を取っていたんだけど、気付かれていたみたいだ。
「ヤナギっ!? 私の事心配して戻ってきてくれたの?」
驚きながらも嬉しそうに、瞳がキラキラと輝いている。この惜しみ無い感情表現を一身に受けて、可愛いだなんて思ってしまう俺は単純だろうか。こんな状況で。釘付けになっている場合では無いのに。
「……成る程なぁ。そういう事か」
何かを納得している。おい。勝敗で情報を提供するんじゃなかったのか。すでにこっち側の素性がほとんどバレてしまったぞ。
「ヤナギ君……ヤナギ君さぁ」
「……なんだよ」
何かを思考する様に顎に手を当てながら名指しされる。覚悟を決めて引き返してきたのに、やっぱりこういう場に慣れないのか、緊張が走った。
「あんた、さっき言ったよな。リッシュ君に話があるだけでケンカは望んでいないって」
「あぁ」
状況はトア優勢のはずなのに、なんだ、この威圧感は。それなりに距離は離れているのに、安易に踏み込めない重圧を感じる。
「それじゃあこうしようぜ。リッシュ君の所にはトア王女だけ連れて行ってやる。勿論、無傷でな。あんたは残りの女2人と一緒に、とっとと南地区に帰れ」
「…………え?」
予想外の提案。まさかこんな厄介な奴に捕まるとは思ってなかったから、その展開は想定していなかった。
「リッシュ君はどうやらあんたの事良く思ってないらしいんでな。用件はトア王女に任せて、あんたは退散してくれないかな。悪いけど」
冗談じゃない。話があるのは俺なんだ。そんな事になったら、それこそ趣旨が根元から変わってきてしまう。トアを危険な目に遭わせない為に、俺達は動いているのに。
「申し訳ないけど」
トアを守る為に、俺はこの異世界に居るのだ。
トアだけじゃない。絵里も千佳も、守る為に、俺はこの異世界に留まる事を選んだ。
絵里の様に図形を描く事も、千佳の様に詠唱を読む事も、トアの様に知識を活用する事も……俺には何も出来ないけど。
「トアは渡さない」
真っ直ぐ力強く、言い放った。俺に出来る限りのあらゆる全てで、俺は俺の大切な人を守る。
「ヤナギ……」
「ククク、まぁそうだろうと思ったさ。それじゃあ結局、話はシンプルだ」
ギアッドの持つノートが再び光る。小さく詠唱を呟いた後、再び黒い影が溢れる光から飛び出してきた。
「俺とあんた、勝った方の主張を通そうじゃないか。これならあんたも、逃げる訳にはいかないだろ」
凶悪な笑みを浮かべるギアッドの前、橋の欄干に新たに召喚された生物が姿を見せる。それはカマキリの様な見た目をしているが、その両手は鎌では無く西洋的デザインの剣と盾……まるで騎士の様な立ち振る舞いで、武器を構えていた。
本来のカマキリ程の体長であれば、そこまで脅威には感じないだろう。問題はそのサイズが、これまた小型犬くらいあるという点だ。その剣で攻撃されたら、致命傷になりかねない。
「本当にお前は、勝負が好きなんだな」
平気なフリで強気に言い返すが、内心では恐怖を感じていた。ついにギアッドの敵意の矛先が俺のみに向いた事になる。トアを守るという意味では望む所ではあるが、今の俺には細やかな対抗手段すら用意されていない。
「行け!」
ギアッドの声と共に、カマキリが飛び降りてきた。今更だがこの位置関係は非常に不利だ。下に居る俺達には逃げる範囲が限られている。
「ちょっとちょっと! 私が居るの忘れないでよね!」
トアの指示で、バービットも飛び出す。カマキリが着地するのとほぼ同時に、回転し火の輪となったバービットが突撃した。
ドンッ!!
直撃と共に爆発し、辺りに閃光が弾け飛ぶ。 相変わらずバービットの攻撃は凄まじい。まともに受けたらひとたまりも無いだろう。
だが、爆風と噴煙の先には一切動じる事無くカマキリが佇んでいた。掲げられた左手には硬質の盾が、傷一つ無い状態で構えられている。
「あー!」
「カマキートにそんなもん効くか。次はこっちから行くぜ」
カマキリが走り出す。その足はトアでもバービットでもなく、真っ直ぐ俺の方に向いていた。引かれた右手の剣の切っ先が、俺の真正面に狙いを定めている。
これは、ヤバい。
と、その時。
どこからか鳴り響いた聞き慣れた音が、俺の耳に届いた。