バスの中で。
「あそこに見える電波塔、あの周辺が北スラムよ。広くは無いんだけど建物とか勾配とか複雑に入り組んでて、全体的に暗い印象ね」
バスの窓から見える赤い塔を指差して、トアが嬉々として案内している。身の安全を脅かす様なならず者達の本拠地に乗り込むというのに、まるで観光気分である。ラシックス関係じゃなかったら、俺達だって心から観光を楽しめるんだけどなぁ。楽しそうなトアに比べて、絵里も千佳も何処と無く不安そうだ。
「というか、バスなんて走ってるんだね。昨日病院まで行くのに、グラウンさんが召喚した馬みたいなやつに乗っていったから、移動手段は基本的に召喚獣なのかと思ってた」
千佳が風に髪をなびかせながら言った。確かに、言われてみれば。
バスは、所々の装飾など細かい部分は異国文化独特の様相だが、基本的には馴染みある元の世界のそれと非常に良く似ている。利用する人は多いらしいが、北スラム方面に向かう人は稀らしく、今現在も乗り合わせている人は俺達の他に2人程しか居ない。
「んー、半々って感じかしらねー。ミノンアーチは商業も産業もさかんな国だから、どうしても流通経路が多く必要なのよ。誰も彼もが召喚術を使えるってワケでも無いし。交通網が発達しなかったら、移動に召喚獣を利用するビジネスだって生まれちゃうかもしれない。それこそ庇護団体が文句言ってくるわ」
成る程なぁ。色々考えてあるんだな。
「じゃあ、飛行機とか地下鉄なんてのもあるの?」
「あるわよ。私は滅多に乗らないけどね」
絵里の質問に答えるトアを見て、一抹の不安を覚える。このままラシックスの元に向かって、大丈夫なんだろうか。
トアはこの国の王女だ。今は変装の為、長い髪を三つ編みにして深い帽子を被っているが、その気品とオーラは無邪気さと混在して力強く存在を強調している。飛行機も地下鉄も、恐らくバスでさえあまり乗る機会は無いのだろう。きっとサモニカの護衛の元、召喚獣を使って移動しているだろうから。そんなトアを、何の躊躇いも無く発砲する様な連中がたむろするエリアに連れ出していいものだろうか。一応話し合いのつもりだけど万が一何かあった時、俺はトアを……そして絵里と千佳を、守れるのだろうか。
「なぁトア。俺が誘っておいて何だけど、もしも危険な空気になったらすぐ逃げよう。ストーカーされてる張本人が自ら相手の元に向かうのは、やっぱり危ない気がする。それか、ある程度まで案内してくれたら俺1人でリッシュに会うから」
これは勇気では無く弱気からくる行動である。偉そうに言える事では無いが。
「大丈夫よ、ちゃんとグラウンにも伝えてきたし。どうにかしてくれるでしょ。それにいざとなったら私が召喚術で何とかしてあげるから安心して!」
優しいわねーヤナギってば、とニヤニヤしながら付け足す。何故かトアが俺を守る展開になっている。俺が懸念しているのはトアの安全なんだけどなぁ。
ちなみにグラウンさんは仕事が忙しいらしく同行出来なかった。折を見て合流すると言っていたが、会議等が夕方近くまでかかるらしく、出来ればそれまでには帰ってきて欲しいと言っていた。うーん、まるで小さい子供を持つ親の様だ。トアの世話はさぞかし大変だろう。
「トア、あんたケミーと対峙した時燃えてるウサギみたいなやつ召喚したけど全然効かなくて絶句してたじゃん」
千佳が清々しい程ストレートに痛い所を突いてくる。この一切の遠慮の無さは仲の良さ故……なのだろうか。トアは珍しく言い返せない様で、言葉に詰まる。そして。
「……あの子が持ってた傘、覚えてる?」
不意に真面目なトーンに変わった。そんなトアの変化に、今度は千佳の方が口を噤んだ。若しくは、問題のケミーの傘を思い出しているのかもしれない。
あの異様な変質を遂げた、恐ろしい物体を。
「あれはね、見て分かったと思うけど普通の傘じゃないの。無機物同士が意図せず融合してしまった、召喚術によって生まれてしまった武器なのよ」
そういえばあの時も言っていた。無機物融合体の召喚武器だって。状況が状況だったので、詳しく聞く事が出来なかったんだ。
「どういう事?」
「説明が難しいんだけど……。召喚術は、異世界からこちらの世界に対象を転移させる術だっていうのは理解してるわよね? その異世界と異世界を繋ぐ門になるのが召喚図形で、道標となって通路を通すのが詠唱って事になるわけ。問題はその通路の部分なんだけど」
絵里の質問に、身振り手振りで試行錯誤しながらトアが説明する。どうやら相当ややこしい話のようで、色々悩みながら言葉を選んでいる。
「はっきりした原因は分かってないの。図形か詠唱の微妙なミスのせいなのか、どうしようも無いバグなのか、そもそも元からそこにあるものなのか。とにかく、転移する時に通るその通路にね、どうやら隙間というか……溝みたいなものがあるらしいのよね」
溝……? どれもこれもが比喩表現での説明なので、いまいちピンと来ない。ふむふむと頷いている2人にはどうあがいたって勝てそうに無かった。頭の出来が違う。
「用語としてはそれを『異界溝』と呼んでいるわ。ほんとに稀なんだけど、召喚の際に対象がその異界溝に落っこちちゃって失敗する事があるのよ」
当初はその失敗は何らかのミスに因るものだと思われていたらしい。しかし、全く同じ図形と詠唱にも関わらず2度目は成功した事から、こちら側では無い何らかの要因が影響しているのではないかという仮説が生まれた。そして研究と調査の結果、異界溝という存在を結論付けたのだと言う。
「それでね、ここからが大事なんだけど。その異界溝っていうのはもうどっちの世界でも無いわけ。自然の摂理とか理とか、そういう概念から切り離された歪んだ空間なの。そこに落ちた生物や無機物は、もう存在が保てないというか、歪みの中で本質が曖昧になっていくのね」
とてつもなく恐ろしい話が始まったぞ。おいおい俺達はそこを通ってきたんだよな。そして還る時、またそこを通るのだ。そんな事実知りたくなかった。
「多分長い間その空間を漂っていたのでしょうね。他の何かと融合してしまったか、物質そのものの本質自体が変化してしまったか……」
一拍置いて、トアが告げた。
「ケミーの持っていた傘は、その異界溝から取り出したものよ」