五
9
「これ全部自家栽培なんですか?」
正広は素直に舌鼓を打って訪ねる。どれもこれも新鮮な土の味を含んでいて、味つけも先祖からの伝統を強く感じることのできるものだった。魚類は漁港組合の知り合いにゆずったものだという。複雑な流通の過程を大幅にカットした、人間が口にするにもっとも適切なタイミングで料理を楽しんでいる気持ちにさせる晩餐である。
「そおじゃそおじゃ。魚以外はな。みんなさっきの畑で取れたもんなのよ。出荷するために畑耕しても面白くないからの」
農夫はそう言って豪快に笑った。
「遠慮せんでみんな食べてしまいなね。残しても仕方ない。ほれあんたらもな」
「はあい!」
隣で農夫の奥さんが付け足し、その向かい、つまり正広の隣にちょこんと座る小さな姉弟が元気よく返事をした。夏休みの終わりに実家であるこの静川市遊びに来ているらしい。姉弟の両親はこの2人を置いてこれをいい機会にと水入らずの小旅行に行っている。老夫婦はその間のお守りを任されていた。老夫婦と小さい子供2人にとっては多すぎる食事である。正広のために急ごしらえしてくれたのは簡単にわかった。自分のために用意された食事に、あの時の景色がかぶる。
正広はかつて菜摘とした2人だけの幼い冒険の詳細を今に至ってもよくは思い出せてはいない。静沢駅に降り立った時も、自転車を盗まれた公園の路地裏に立った時も、今も、思い立つように行動して、その後にふらふらと過去の記憶が追い付いてきた。不思議な気分だった。まるで現在の自分の行動をなぞるように過去が重なってくる。今だって場所こそ違えど菜摘とともに一泊したあの老婆の家でのひと時をなぞっている。目の前の姉弟は、正広と菜摘を暗示しているようだった。
「あんたさん。お風呂沸いてるからごはん食べ終わったらいつ入ったってええからの」
一足先に食べ終わった老婆はそう言い残すと台所に向かった。正広は無意識で隣の姉弟に声をかけた。
「それじゃ3人で一緒に入ろうか?背中流しっこ」
「え~」
姉の方が渋ったふりをしてみせる。年齢なんてまだ十歳に満たないくらいだから、まだ羞恥心を覚えるような年齢でもないだろう。すっかりうちとけて仲良くなった正広に対してのちょっとした悪ふざけだった。
「ええじゃんええじゃん。みっちゃん。入ってあげなさいよ」
農夫が助け船を出すと、
「仕方がないなー」
と腕を組んで寛大にも了解してくれるのだった。
そこまできて正広は菜摘と二人でお風呂に入ったことを思い出した。精神的に少しませていた正広にとって年長者の菜摘と2人で入浴することがすでに冒険だった。浴室に先に入った菜摘が手招きをしている姿が頭の中に投影された。年季の入ったタイルに、湯気が霞のように蠱惑的にゆらめいていた。その湯気の向こうに菜摘の裸身があったのだ。正広は瞬間的に目をそらしも、自分の局部を手で隠したりもせずに手招かれるまま後に続いて浴室に入った。意識してると思われて、嫌われたくなかったのかもしれない。あどけなく笑う菜摘のその脇を通り湯船に浸かろうとしたら少し強めに腕をひっぱられて、椅子に座らせられた。
「先に体洗ってからだよ」
その姉然とした菜摘の物言いに、正広はどうしていいかわからなくなってしまった。菜摘に対して幼いながらも淡い感情が芽生えていた証拠だった。ついさっきの夕暮れまで、正広にとって菜摘は守ってくれそうな頼りになる女の人だったのに、どうしてか一緒にご飯を食べてお風呂に入ったら変貌し。幼い恋心となっていた。
「なっちゃんだよ。正ちゃんは私のことをなっちゃんて呼ばなくちゃいけないの、ほら」
夕暮れの中、先ほど菜摘がそう言ったことを思い出した。
「いつかなっちゃんって呼ぶんだよ。約束ね」
約束。
その二文字があの頃の正広に重くのしかかった。
「ほらおじさん!もう食べ終わってるなら早くお風呂行こうよ!」
そうみっちゃんと呼ばれる姉に肩をたたかれて、正広は意識が過去に飛んでいたことに気づいた。
「そうだな。行こうか」
つい今までの回想の中ではお風呂の入り方を注意されるほどに幼かった正広が、いきなりおじさん、と声をかけられたことにはひきつった笑いを浮かべるしかなかった。
そしてもう一つ。家の出しなに妻に投げた一言を思い出す。
「おねえちゃんだよ。俺の。なつみおねえちゃん」
約束は未だに守られていないと。
10
正広にとって盗まれた自転車がどのくらい大事だったかと言えば、子供にとっての宝物に相当するほどのものだった。母親に拝み倒して苦労の末ようやく首を盾に振らせて買ってもらった代物だから当然と言えば当然だ。それを買ってものの数カ月で失うその悔しさは想像に難くない。何をしてだって取り戻したい心境だ。そこに菜摘が声をかけた。
「うん、大丈夫。おねえちゃんはなんだって知ってるんだから」
頼もしげに言ってくれた菜摘を見て、正広はどれだけ救われた気持ちになっただろうか。だから絶対に逆らうことができなかった母親を欺いてまで、菜摘と2人で冒険に出たのだ。しかし事実、菜摘は正広の自転車の行方など知るはずもなかった。それを口実に正広をたぶらかしたと言っても過言ではなかった。2人の冒険の一日が終わる頃には、正広の目的は自転車を見つけることよりも大好きな年上の女の子と一緒に過ごすことに、ゆっくりと自覚もなく変わり続けていたが、菜摘はそれとは逆に、嘘をついた罪悪感が徐々に膨らんでいることを感じていた。この旅のゴール地点である唐塚海岸に行ったところで、そこに正広の自転車はない。それを知った時の正広はどんなに失望するだろうか。それを考えると菜摘は何ともいたたまれない気持ちになってきていた。
風呂から上がってしばらく布団の上でふざけ合って、そしていつの間にか2人とも枕に頭を並べていた。静けさとは無縁の夏の夜。外ではうるさいくらいに虫が騒ぎ立てている。冷房なんてあるはずもないこの田舎の一軒家の蚊帳の中、菜摘は後ろめたく思いながら、開け放たれた窓の外を見る。隣で正広はよっぽどつかれていたのだろう、安らかな寝息を立てて胸を上下させている。今足元で爆竹が鳴ったところでまつ毛ひとつ動かさないほどの深い眠りだ。
こんな無垢な子をだまして私は何をやっているのだろうか。菜摘は蚊帳の外に出た。縁側に腰を下ろして、天を仰ぐ。夜空は黒い画用紙、月はその画用紙を止めている画鋲に見えた。はりぼての世界。そんなものの中で自分はなんて安い安らぎを得ようとしているのか。きっと菜摘の今の心境は、彼女が大人だったらこんな風に感受していたかもしれない。しかし菜摘はまだ少女だ。損得勘定なんて観念すらまだ存在しない。ただ心を通える友人が欲しくてそれに従ってした行動を自分なりに省みると、なんだかわけのわからないモヤモヤとした気分になる。菜摘はそれが嫌だった。だからこの旅が終わったら、正広の自転車を自力で探してみようと思った。狭い街だ。力を尽くせば何とかならないこともないだろう。そう決心すると菜摘はいくらか心が穏やかになったので寝床に戻って正広の布団にもぐった。菜摘も正広もその肌はうっすら汗ばんでいたけれど、ゆるやかな風がどこからか吹いてきて撫でるように汗を拭い去ろうとしてくれる。菜摘は蚊帳の中からもう一度夜空を覗き見た。深い慈しみのこもった空の中に、きれいな満月が微笑むように菜摘を見守っていた。菜摘は安心して目を閉じて、姦しく鳴く虫の声を極上の敷布団に変えて、ゆらゆらと眠気に身をたゆたえた。
明くる日、菜摘が目を覚ますと菜摘より先に起きていた正広が寝巻のまま縁側に出て、捕まえたバッタ同士を闘わせていた。まだ朝だというのに早くも太陽は存在感を示して世界を照らしていた。すっかり真夏の暑さだ。
「正ちゃん、水風呂一緒に浴びよっか?」
夜風がすっかり乾かしてくれた寝苦しかった汗達も、真夏の太陽のせいで新規のものに張り替えられていた。体のべたつきを感じた菜摘は何気なく正広を誘った。
「ぼ、僕は大丈夫。なつみねえちゃん一人で行ってきなよ」
手元のバッタ達から目を離さずに言う。正広にとってすでに菜摘は姉でなかったから、お風呂に誘われたところでそういう態度になってしまうのも無理はなかった。菜摘は正広の態度に気を留めず、そう、と言って一人水風呂に入りに行った。今日もまた一段と暑くなりそうだった。
水風呂からあがり、支度を整えた2人は菜摘の祖母に別れを告げて家を出た。祖母の最後まで心配そうな顔が印象的だったけれど、菜摘は大丈夫と祖母と自分に言い聞かせた。永遠に続きそうな畑道を2人で冗談を言い合いながら歩く。この時には正広も菜摘に対して昨日までの接し方に戻っていた。天に晒された道を何時間か歩くと山林道の入り口が口を開けるように2人を待ち構えていて、その不気味さに菜摘も正広も思わず息を呑んだ。中に入ると道は獣道のようにでこぼことしてきて、轍もどんどんと細くなり、気が付けば草が選り分けられている程度のものになっていた。さっき降り注いでいた陽射しが幾重にも重ねられた木葉たちに遮られると嘘のように大気はひんやりとして一層、不気味さを演出した。葉むらを透かす薄い太陽光が行く手を照らす。それに誘われるように足を進める2人だったが、やはり不安を払しょくできない正広は、確かめるように聞く。
「この道で大丈夫なんだよね?」
「うん、平気だよ。だって今まで別れ道なんてなかったし」
菜摘は言うが、この道が合っている保証などどこにもなかった。かつては車で向かったのでこんな山道など通っていないし、方角すら目測だった。計画はどう考えても無謀だったのである。




