四
7
「本当になつみおねえちゃんはどこに僕の自転車があるかわかるの?」
すがるように正広は菜摘を見た。
「うん、大丈夫。おねえちゃんはなんだって知ってるんだから」
「ほんと?ほんと?」
「ほんとだって。でもね、それはちょっと遠くの場所にあるんだ」
「遠くってどこ?」
「うーん、唐塚海岸ってとこだよ」
「唐塚海岸?わかった。じゃ早く行こうよ」
「ううん、今すぐには行けないよ」
「どうして?」
「遠いから」
「え?どのくらい遠いの?」
正広の声はだんだん苛立ってきた。菜摘はそれをいなすように正広の頭をゆっくり撫でながら言う。
「何日もかけなきゃ行けないよ。正ちゃん、お母さんたちに嘘つける?」
「え?」
「2人で行くんだよ。その海に」
暮れ始めた山道。先ほど下りた停留所からもう一度バスに乗り込み、さらに奥地を目指す正広はそんな二人のやり取りを回想していた。あの言葉を聞いたときに一体自分はどんな気持ちだったろうか。ドキドキしてたのだろうか。恥ずかしく思ったのだろうか。親を言いくるめられるかどうか不安でいたのだろうか。そのどれとも違ったようでもあるし、すべてが当てはまるような気もする。曖昧だった。今さっき知り合ったばかりのお姉さんと二人きりでどこかに行くのである。母親以外の女の人とろくに話したこともないし、親のいないところで外泊なんてしたこともなかった。だから心境を言い当てられるわけもない。それまでも、そしてそれからもこれに似た心境にすらなることがなかったことが、この状況がいかに特異なものかを説明している。
車窓から望む景色はいよいよ寂しいものになり、文明の津波を回避し続けている高地の停留所に至った。市内を網羅するバスで行けるもっとも深い場所。屋根つきの停留所と荒廃した無人販売所を前に立ち尽くす正広にバスのドライバーは訝しげな視線を投げかけてバスを発進させた。これからまた静沢駅に戻るその退屈な道程に、ドライバーは正広を使って色々想像しながら横たわる時間をつぶすのだろうが、そんなこと正広の知ったことではない。スタート位置に立った。この事実だけで正広はすでにいくらかの満足を得ていた。
気がつけば火の灯し頃。幻想的なひぐらしの鳴き声が山にこだまして正広は勇気づけられた。過去への旅に誘ってくれているように正広に響いたからである。繁茂する草のふもとで虫たちは囁き合って、正広のこの旅の成功率を予想し合っている。山裾に広がる先ほどまで目の前にあった街並みは正広を羨ましそうに見上げている。太陽が山の向こう側に暇をつげようと色を情熱的に変化させた。正広は寝具の類も着替えも、およそアウトドアに臨める準備は何一つしていなかったが、
「まあ何とかなるだろ」
そう言ってスタートに見立てた停留所から記念すべき一歩を踏み出した。轍を含んだ細い通りのその脇は田畑が段違いに棚引いていてたまに農夫をぽつりぽつりと見かけるだけであとは人の姿はない。鉄が錆朽ちたねこ車と呼ばれる一輪の押し車が道の端に置き去りにされている。正広はそれを見て羨ましく思った。できれば自分も置き去りにしてほしかった。正広は進む。もう辺りは暗さを帯び始めている。たまたますれ違った農夫にダメ元で声をかけてみることにした。
「あの、ちょっと失礼しますが」
「あん?」
農夫は頭巾で額の汗を拭いながら答えた。急に呼び止められたのにも関わらず、不機嫌さはみじんも感じない。
「ちょっとわけあってこの山を踏破しなくてはならないんですが、野宿に使えそうなものでもし何か使わないものがありましたら譲ってもらえませんでしょうか。必要であれば帰りがけにでも返しに寄らせていただきますので」
図々しいことこの上ないなと正広は思った。それでもあまり引け目は感じない。実際のところただ聞いただけなのだから、ないならないと断ればいいだけの話だ。それくらいの不躾さは却って必要だろう。何でもかんでも何かと理由をつけて他者との接触を避けてきたその結果が、あの駅前やバスの中の暗さを生み出した。正広はそう考えた。だから人と積極的に関わっていくことに決めたのである。あの時とあの時と同じように。
「なにあんた。こんな山道で野宿すんの?やめときやめとき。この辺毒蛇なんちゃ出ないけど、山下るまで街灯なんちゃほとんどないし、はまっちまうと厄介だよ。浮浪者なんかに出くわしたら大事がねえとも限らんのだから」
農夫は心からの親切心で忠告してくれているようだった。あの駅前の焼物屋の老婆と似た類のものだ。だからと言って正広はこのまま引き返すわけにもいかなかった。夜通し歩いてみようかなと無謀な計画が正広の頭に浮かぶ。
「そうですか。それなら大丈夫です。どうも失礼します」
鼻から多くを期待していなかった正広はそのままそそくさと別れを告げて立ち去ろうとした。しかし農夫はその正広を呼び止める。
「まあそんならあれだ。とりあえずうち寄ってみなよ。どうしても行くって言うならなんか持たしてやるから。その前に飯でも食うのもまあいいじゃろ」
そう言うと正広の腕を取って我が家に案内をしようとする。正広も正広で、口では遠慮しつつも惹かれて歩くのに抵抗することもなく二人は影を伸ばしながら農夫の家へと向かっていった。
8
「どうだい、美味いかえ?」
「おいしい!」
自然と正広と菜摘の声は揃った。世辞ではなかった。テーブルに所狭しと並ぶおかずの数々。惣菜や漬物、小魚の揚げ物だったりと一品一品は決して豪華といえない各品目だったけれど、空腹の2人にとって円卓に並べられた貴族料理よりも価値があった。2人そろってテーブルにかじりつく勢いで食べ物を流し込んだ。
「ほんとに親御さんに知らせなくていいんか?こんなとこいたら今頃心配してるだろに」
菜摘はいもしない友達の家に外泊すると言い、正広は黙って家を出てきた始まった。二人だけの秘密の冒険。初日の寝床は菜摘の事前の根回しによって確保していた。市内の奥地で農家をやっている菜摘の祖母の家。正広には内緒で偶然を装って立ち寄った。祖母は子供2人だけで山を越えることに初めは難色を示していたが、そこはかわいい孫のお願いである。懇願されれば断ることはできず、せめてたくさんの食事でもって2人をもてなし、それを激励の意とした。
「大丈夫、大丈夫。私たちはすごいんだから!」
「ほおかねえ。そんならばっちゃはなっちゃんたち信用しようかね」
初対面の設定のはずなのに、菜摘の祖母はそんな馴れ馴れしい呼称で菜摘を呼ぶものだから菜摘は肝を冷やしたが、正広は食べることに夢中で幸いに耳に入っていない様子だ。
一日歩き通しただけで溜まった途方もない疲労感に菜摘は尻込みした。目的はこの山地を抜けたその麓に広がる海岸。昔親の車で連れられていったことが印象的で今旅のゴール地点に設定した遊泳客の滅多にいない穴場だが、徒歩で目指すとなるとほとんど行脚とも言える過酷な道だった。明日は終日歩いてその日の陽があるうちに着けるかどうかの際どい距離で、今日の疲れが明日に残ったら満足に歩けるかどうかも不安だったし、また明日のうち着かなければ、その時の寝床はどうすればいいのかも菜摘は考えていなかった。そもそも日のあるうちに海岸に着いたとしても、結局泊まる場所を考えていないから、困難に立ち会うことは目に見えている。しかし菜摘にとってそれは冒険を躊躇する理由にはならなかった。
「今日はゆっくり休んで明日に備えな。床はもう拵えてるから、ごはん食べ終わったら風呂入るなり少し横になるなり好きにしなさえな。おばあちゃんちょっと出てくるからね」
そう言って菜摘の祖母は立ち上がるといそいそと部屋を出て行った。作りすぎた料理のお裾分けにでも出ていくのだろうかと菜摘は思った。祖父に先立たれてからはずっとこの僻地で一人でやり繰りしている。久しぶりの客人に張り切りすぎて、分量を間違えるなんてことは大いにある話だ。菜摘は祖母のその心意気に感謝しつつ箸を動かした。ありがたみという感情がまだ芽生えない正広の分も含めて。
お互い夕食が片ずくと使った食器を流しに持っていき、頼まれてはいないが洗い物をすることにした。古めかしい家の造りに不釣り合いなほど文明の利器を感じる真新しい給湯器は少しおかしく菜摘の目に映った。かちゃかちゃと食器同士がぶつかる家庭的な音を立てながら、脇に何をやってよいものかと戸惑い顔で立ち尽くす正広に菜摘はいたずらっぽく声をかけた。
「これが終わったら一緒にお風呂に入ろうか?」
言われると正広の顔はみるみる赤くなった。「あらどうしたの?正ちゃん、女の子と一緒にお風呂入るの、恥ずかしいの?」
8歳児にしては存外ませているなと菜摘は思い、それを盾にとってからかった。
「別にはずかしくなんかないよ。いいよ一緒に入ろうよ」
正広も女の子を意識することが恥ずかしいと思ったのか、強がって了承した。その顔がまた繕っているのが容易にわかる表情で、菜摘は吹き出しそうなのを抑えるのに苦心した。8歳児には8歳児ながらプライドとか色々あるんだと思うとなおのことかわいく思えてきた。8歳児にもあるように十二歳の少女にもプライドとは言えないけどうまくこなしたい物事を一つや二つ控えている。菜摘はあと数か月後に修学旅行に行くことになっていた。他人と一緒にお風呂なんて入ったことのない菜摘はいい予行練習になればいいなと思って、泡立ちの悪くなったスポンジに食器用洗剤を足した。




