三
5
国鉄私鉄を乗り継いで、太陽が傾き始める前には静沢市に着いた。来ようと思えば簡単に来れる距離だということはわかっていたけれど、そのあまりの手軽さに正広は何とも言えない艶消し感を覚えた。
もう何年ぶりになるのだろうか。大学進学とともに故郷を離れて、実家の両親がその数年後にまた別の田舎に越してしまってから、まったく帰ってくることがなかった生誕の地。車窓を眺めていても生まれ故郷に近づいている感覚がまったく身に振ってこなくて、本当に僕はここで生まれたのだろうか、違うとしたら僕は一体どこで生まれたのだろうか、実は出生の地なんてないのではなかろうか。そんな気分に正広はなった。しかし、経歴の上で正広は高校を卒業する十八年間、確かにこの地で育ち学んだのだった。
目的の駅のアナウンスが車内に響き正広は席を立つ。ガラガラの車両を見通すと一つ、自分の気持ちを鼓舞するために大きく短く息を吸った。
わかってはいたけれど、いざ現実として目の前に現れると気持ちがまごつかないではいられない。当たり前のように文明の波は正広の故郷を覆い尽くしていた。自動改札をくぐって綺麗にならされたロータリーには清潔さが溢れていたけれど、かつてあったいつくしむべき埃臭さと人間臭さはアスファルトの下に埋められている。そして開発が進んだからといって、直接地域経済が潤うかといえばそうではなく、この街もそれを体現するような侘しさが充満していた。
かつて活気のあった商店街は人間の温かみの少ないただの目抜き通りとなっていて、昼日中からシャッターが下ろされている店も一つや二つじゃなかった。ターミナルに停車する市営バスの、その運転手の肩にはどんよりとして靄がかかっている。通行人は決して少なくはない。しかし、その人々は文字通りそこを通行しているだけだったのだ。
正広の知っている静沢市は、静沢市の人々はこれほど無機質ではなかったと、正広はうろ覚えながら記憶している。変わらないものはない。人も街も変わらずにはいられない。そんなことは歴史の教科書を開くまでもなく人間は知っている。諸行無常などと大袈裟な言葉に置き換えるまでもなく、みんな先天的に悟っていることだ。それでも正広にとってはやっと過去を見直すきっかけとなるべき静沢市が、まる違う街へと変貌を遂げていた。そして多分きっとこれからも静沢市はまだまだ変化の波を受け入れるだろう。そんなに変えてしまっていいものなのだろうか。正広は思わずにはいられない。どうして人は変わらないことを恐れるのだろうか。取り残されることがそんなに恥辱なのだろうか。正広は打ちひしがれたような気持ちになった。しかしそれだって一人よがりの押しつけだ。正広はそのことも十分に自覚している。故郷はこうあれかしというドラマや映画で刷り込まれた既成概念に、この静沢市がそぐわなかっただけだ。
「あんたあ、何そんなとこでぼさっとしとるかね」
ふいに声をかけられた。しゃがれた声だった。びっくりはしたが、あえてそれを気取られないようにゆっくりと振り返る。優しい目をした老婆がそこに立っていた。
「ああ、ごめんなさい。邪魔でしたか」
こういうのを都会根性というのだろうか。何でもかんでも波風立てないようにすぐに謝ってやり過ごそうとする。
「いんや、邪魔とかでなくて人の店の前でぼさあっと5分も突っ立ってりゃ老婆心がほっとかねえべさ、あん?」
老婆に言われて正広は初めて古めかしい焼き物屋の店先で放心してたことに気づく。
「これは失礼いたしました。すぐに動きますので」
そうは言ってもこの街の現在のバスのダイヤがどうなっているかもまったくわからない。「あの、もしよければ次のバスの時間を教えていただけませんか?」
決まり悪く付け足す。
「だから、邪魔とかじゃねえってよ。さっき言ったべ?店先で浦島太郎見てえにぼうとされてっと、こちとら何やらわけありかと首を突っ込みたくる。な?えやろ。ばあさん見ての通り暇なんや。今時若いもんなんて焼物になんの興味も沸かんだろ。みんあ店ん中憐れんだ目え流すだけじゃからな。さ、さ、お上がんなさいて」
うながされるまま店の中に通され、正広はざらざらした土間を踏む。店内は種々雑多の焼物がまるでアニメ映画の美女と野獣の家具什器類のように正広を歓迎しているように感じて、この空間だけはなんだか取り残されているような、そんな悲しくも勇敢なる孤独さを感じた。
「あんさんはここが生まれ故郷かえ?」
土間から一段上がった和室へと大儀そうに膝を運ぶ老人は親しみのこもる声で正広に聞いた。
「はい。一応。しばらく帰ってきてませんでしたけど」
「そうかあ。何年振りだ?」
老婆の後に続いて正広も土間に上がる。年季の入ってそうな壁掛け時計に足の低い卓袱台。目を上げれば神棚があるだけで実に撒布系な部屋だった。
「えっと、高校以来なんで15年ぶりくらいですね」
畳の香りが芳しい。
「15年!ほお、わしなんて一年だってここを離れたこたないわ。ずいぶん変わったじゃろお」
老婆は手近のポットからまるで長年の習慣のように急須に湯をそそぐ。コポコポと和む音がポットからなって、柔らかそうな湯気が宙に舞いあがる。
「ええ。まるで違う街です」
正広は答えながら差し出された湯呑を受け取り中を覗くと、絵の具を溶いたような鮮やかな薄緑色が湯を彩色している。
「そうじゃろそうじゃろ。わしもな、ここに住んでながらも、いつの間に違う場所に連れてこられた気分が時々するんじゃ。いくら自分が年寄りだからって、そりゃ幾らか理不尽な気分になるってもんだわ」
ふと、正広はなぜここでこうしているのだろうかと思った。縁もゆかりもない老人の宅に上がりこみ茶をすすり、故郷をそれぞれ懐かしんでいる。まったく滑稽な光景だった。
「それじゃ僕はそろそろ行きます。どうも、ごちそう様でした」
気まずくはないが、ぽっかりと空いた空間はただつくねんと座っているには忍びない。正広はそろりと腰を上げる。
「そうかえ。ちょうどバスも来るとこだな。久しぶりのふるさと、楽しんできなや」
正広は深々と頭を下げ焼物屋を辞した。老婆の人の良さそうな笑顔が頭の中に薄い残像の膜を張った。正広が久しぶりに味わう人の温かさである。都会暮らしの長い人間にとっては到底理解などできぬもてなし。ただ店先でぼさっと立っていただけの人間に対してできることだろうか。そう思いながら夏なのに何だか冷やりとしたアスファルトの上を歩く。運転席で頬杖をしている中年バスドライバーに会釈をして乗車。当然無反応。その対応のギャップにどちらが本当の人当りなのかとまごつきながら正広は車内を見渡す。ガランとした空気がどっかりと腰を落ち着けていた。最後部より一列前の席にけだるそうに衣服を着崩した若者が携帯ゲーム機に貪りついていて、正広の眼下、前から2列目には中年の女性がつまらなそうに窓の外を睨んでいた。正広はその二人の中間辺りにいたたまれない気持ちで腰を下ろして静かに出発を待った。
携帯ゲーム機なんて持っていない。外を眺めても何かあるわけじゃない。一体僕はこういった時間にどうやって時間をつぶしていたのだろうか。正広は考える。答えが浮かび上がると、またぞろため息がついて出た。つぶす時間などなかったのだ。常に仕事が頭の片隅どころか真ん中に居座り続けていて、一時だってそのことを蔑ろにすることはなかった。仕事の鞄の一番取りやすいところにはいつだって書類が入っていて、暇ができれば条件反射的にそれらを手に取ってにらめっこをしていた。
正広は自分の脇を手で探ってみた。そこにあるのは、古い座席の固い感触だけで鞄はない。思い立って家を出てきたのだから当たり前だ。正広はこんなひょっとした時間ですら埋めることのできない自分に唾棄したい気持ちになった。バスが小さく揺れて制服を着た女子高生と思われる二人組が遠慮のない話し声をあげながら乗車してきた。決して大きすぎる声ではなかったけれど、このぽかりと空いた時間、空間の中では存在感がありすぎる。正広は頭を抱えたくなるのを必死で抑えて前を歩く女子高生に目を向けた。肩にかかるかかからないくらいのセミショートの毛先がゆらゆらと揺れていて、そのリズムはバスの揺れるリズムとちょうど半テンポ遅れだった。眉は細く整えられていて、それは派手さを演出しているよりは蛾眉といった形容の方が似つかわしく、顔の陰影を際立たせる役割を担っている。上品な鼻筋、滑らかに動く口唇。全体として清廉といった印象を与える顔立ちの少女は座席の真ん中ら辺に座る正広にその足でバスを揺らしながら近づいてきた。胸が鳴るのを正広は自覚した。その少女に菜摘の影を見出したからだ。決して似ているわけではない。けれどなぜか正広はこの少女の顔に菜摘の顔を重ね合わせた。今に至っても正広ははっきりと菜摘の顔を思い出せていないから、容姿の端麗なこの少女で代用を試みたのである。その顔が、正広の心の中で過去の正広に向かって微笑みかけた。花が揺れるように細やかに。髪の毛は烏羽色で濡れたようにつややかなロング。静かな花柄のワンピースが夏の風にさらされている。そこまでは補正されたけれど肝心な顔は已然目の前の少女のままで、その少女も正広の目の前を通り過ぎて、その後ろに歩いていたあまり美しくない女子高生に視界がすげ替ってしまったので、正広の心の中は再び無人となった。学校の教師の悪口を言い合っていた二人の女子高生が後方席に前後で席を埋めると、その近くに座っていたくたびれた若者が顔をしかめた。
バスは身震いするようにエンジンがかかり、ゆっくり腰を叩きながら立ち上がる老人のように走り出した。
6
さすが十数年ぶりとは言え、下りる場所に戸惑うということはなかった。最寄駅へ行くのための交通手段はこの経路をめぐるバスしかなく、高校卒業まで何百回と辿った道だった。
峠・首坂前。
これが正広が毎日のように使った停留所の名前だった。バスの中はすでに正広と前方に座っていた中年女性しかなく、草臥れた若者も、二人組の女子高生もとっくに降りていた。電子カードは持っていたけれど敢えて現金を計算して硬貨投入口に遠慮がちに小銭を投げる。ありがとうございました。足元にお気を付けください。無愛想な声は一瞬硬貨投入口から聴こえてきたと錯覚するほどに無機質だった。目の前の急勾配の坂を億劫そうに見つめるドライバーの口の端から発せられた声だと気付いたのはステップに足を置いた後だった。
バスから降りるとかつてのボロボロの木ベンチはスチール製のものに変わっていたし、砂利道がほとんどだった道路周辺は湖面のようなアスファルトが敷き詰められていた。正広の生家はここからにさらに十分ほど歩いた畑地の一軒家だったが、そこをのぞくのは止すことにした。どうせどこまでも続きそうなあの畑地の半分以上の敷地は、市の管理するきれいな集会所にでもなっているのだろうし、そんなものを見たって菜摘を想起させるきっかけになりようもないことは、正広はここまでの道のりで薄々気づいていた。
アイデアが駆使される様々なデザインの新築があちこちに建ち並ぶ。その家々の合間を正広が何かを追い求めるようにあてどなくふらふら歩いていると一つの公園に行き当たった。正広のもっともゆかりのある公園だった。ここで正広はいつも一人遊びをしていたのだった。
名前は銀すずめ公園。広場には休日の午後とあってたくさんの少年や親子が飛び跳ねていた。正広はその児戯が網入り擦りガラス越しに届くくぐもったような音に聞こえてきて公園内に入るのをやめて目についた細い路地に入った。正広はそこで少女との出会いを思い出した。
7×4段ギアの深緑のマウンテンバイク。頼みに頼んでようやっと買ってもらえた新しい自転車だった。誰に自慢することもかなわない正広は気持ちよく風を切ることでその悔しさをまぎらわして日々を過ごしていた。しかしこの日はふと公園に立ち寄りたくなった。人知れず思いを寄せる環が、今日この銀すずめ公園に遊びに来ると他のクラスメイトと話していたのを正広は耳聡く聞きつけていたからだ。
もし環がいたらこっそり声をかけて、この自転車を見てもらおう。正広はそう思い銀すずめ公園へと向かった。公園の駐輪場になんて置いたらだれかが悪戯するかもしれないと考えた正広は、人目のつかない路地に自転車をとめて、チェーンで鍵をかけて公園に向かった。十分くらいだっただろうか。公園に環の姿を見つけることができずに諦めてその路地に戻ってくるまでの時間は。正広が戻ってきたときには、その場所から忽然と自転車はなくなっていた。
事実は受け入れがたく、バベルの崩壊をただ眺めるだけの古代人のような心境でそこに立ち尽くしていた正広に声をかける少女があった。
「きみ何をやってるの?」
一連のやり取りがこの路地を見た瞬間に正広の心の中で蘇った。彼女もまた恐る恐る声をかけたような、少し怯えた印象の声色だったと正広は記憶している。正広は自分の影が映った地面を睨みつけながらそんなことを思い出していた。自転車を盗まれて呆然と、そしてついでに自失もしていた少年に、これを機にとばかりに話しかけたのが菜摘だった。正広はあの時まで誰に対してだって心を開いたことはなかった。それを不器用ながらもこじ開けたのが菜摘だった。正広の大好きなお姉さんだったのである。
ここでこうして立っていると、またぬっと影が現われて菜摘が自分に声をかけてきてくれるのではないかと正広は思った。あの時は夕暮れで、今はまだ日がわずかに傾き始めたにすぎない。もう少しここでこうやっていればもしかしたら僕はあの時に戻って、そしてあの時の菜摘がまた僕をかき抱いてくれるのはないか。そんな妄想に正広は取りつかれた。正広はこの時点ではまだ気づいていないけれど、彼は完全にあの頃の景色を追いすがっていた。忙殺に明け暮れたついさっきまでのあの日常が川の向こうで鈴を鳴らすほどの存在感にまで成り下がった。
ここでずっと待っていようかとも考えたが、誰かに声をかけられて、今生まれた静謐な心だまりに色水をたらされても面白くないと考えて正広はその場を立ち去った。子供たちのはしゃぎ声は明確な悪意を持って正広の心の奥底に突き刺さる。しかし、この感覚に正広は憂えを感じなかった。突き刺さるように聞こえれば聞こえるほど、自分が菜摘と過ごした頃の自分に重ね合わせられるような気がしたからである。
さて次は、あの旅路を辿ってみようか。正広は思うでもなく決心した。




