二
3
「思い出した」
気だるささえ滲み始めた昼下がりのリビングに正広のつぶやきが響いた。春海が顔を少しだけ傾けて正広を視界に入れる。
「何を?」
ほとんど興味がないといった風に聞く春海は、事実興味がないどころか意識は雑誌の紙面へと向けられていた。
「村澤菜摘って女性のことだよ」
芳美はクロに力では勝てないことを知っているので、クロを苦労して自分の体から引きはがずと、遊び道具のボールをテレビの横にある籠から取り出して得意げにボールをクロの前にかざす。舌を出し荒く呼吸をするだけで無反応なクロを何とか興奮させようと芳美はあさっての方向にボールを投げつけるが、クロはぼんやりとボールの行方を見送っただけですぐに芳美に向き直る。芳美は思い通りいかないもどかしさに肩をいからせ足を大袈裟に踏み鳴らしながら結局自分で投げたボールを取りに行った。
「ふうん。で結局誰だったの?」
仮にも故人の話をしている時に片肘ついて聞くやつがあるかと、一瞬正広は責め立てたい気持ちになったが、考えてみれば自分もよくやることだった。興味がない話に故人もクソもないのに、まったく自分が聞いてもらいたいときにだけ最もらしい建前をつくって傾聴させようなんてまったく都合がいいと苦笑したくなった。
「おねえちゃんだよ。俺の。なつみおねえちゃん」
だから問わず語りのように淡々と答えた。別に誰も聞いてなくたっていいんだ。正広はそう考えて訥々と語る。
「何言ってんのよ。あなた一人っ子でしょ。今さらお姉さんなんて出てこられても私びっくりしちゃうわよ」
「いや間違いなくお姉ちゃんだったよ。あの夏だけはな」
天井に向かって話すように言葉を紡いでいるとどんどんと意識が過去を巡回して、今まで地面の色と同化していた記憶の欠片にゆっくりと光が当たり始めた。
「ちょっと急にどうしちゃったのよ。あなたそういうこと言うタイプじゃないでしょ。昔のこと思い出した拍子に気でも触れちゃったの?勘弁してよ。まだまだ返さなくちゃいけないローンがたくさんあるのに」
この春海の無骨な忠告が、正広の中で組んず解れず蠢き始めていた現実と追憶をはっきりと両断した。
正広の暗い少年時代に唯一光が当たっている時期があったとしたら、それは8歳の夏休みだった。とある少女と初めて出会い、文字通りひと夏だけの幼いアバンチュールを過ごしたあの暑い暑い夏の2日間。その2日間だけは正広は他の人とまるで見劣りしない少年期があって、誰とも同じように思い起こすと胸が締め付けられた。いつぶりに思い出したかも思い出せない。どうしてあんなに印象的な人と出来事を忘れていたのかも説明できない。水の音と何の関係があるのかもまるで見当がつかない。ただそれよりも今は、
「そうか。死んじゃったんだな」
遅れてやってきた悲しさと空しさが自然と心から口をついた。あの頃の菜摘の顔だって朧げなのに、どうしてかあのつないでくれてた手の温もりだけは容易に思い出せた。あの夏の間はずっとつないでくれていたように感じるあのぬくもりと湿度で湿った手のひらを、その感触を正広はもしかしたら絵にだって描けたかもしれない。
「最後に行った葬式から、喪服ってクリーニング出したっけ?」
顔を見たくなった。
「この前取り入ったけど、あなた日取りとか知ってるの?私お義母さんからそんなことまで聞いてないわよ」
冠婚葬祭はいつでも面倒くさそうに、できれば参加したくないという態度を家の中だといつだって隠さない正広の発起に、春海は訝しげだったが、もはや正広にとってはそんなもの振り払うまでもない。
「大丈夫。行ってくるから」
しかし、菜摘の死に顔を見る前にやっておかなくてはならないことがあった。
「どこへ実家?わざわざ?電話すればいいじゃないそんなこと」
「違うよ。一緒に歩いた道をだよ」
「は?」
春海はいよいよ変人を見る目で正広を見た。
無理もなかった。春海の知っている正広は現実主義者で堅物で、ロマンチストのような振る舞いは過去に春海に対して一度だってしたことはない。事実その通りだった。正広に郷愁感やノスタルジックな面はなく、物思いに耽ることをただの時間の無駄だと考えていた。いつからか。正広が思い出せる限りずっと昔からだ。それでもあのひと夏だけは、例外的ポジションにあった。だからそれに関連する正広の行動が突飛で、普段の正広からは考えられないような詩人的行動だったとしても、それは菜摘との思い出だから、例外なのである。
いそいそと立ち上がると外套かけにかかった薄手の羽織ものを部屋着の上から羽織り、リビングを出る。そこでボールをずいぶん遠くまで取りに行った芳美と行き違う。
「パパ、どこへ行くの?」
少し怯えの含んだ眼だった。堅気の正広は娘の芳美にさえなかなか甘えさせる隙を無意識のうちに埋めていたのかもしれない。そんな中での芳美の甘えは正広の胸にくるものがあった。会社で必死に働くことと、一生懸命生きることをどうにもはき違えていたと悟らせるには十分な瞳だった。正広は腰を落として芳美の頭を撫でた。芳美の瞳はいつか見たことのある色に変わった。まるでブラインドを開ける時のようなスムーズさで。
「むかしだよ」
「むかし?」
愛らしく首をかしげた芳美をいつか自分がされたように胸にかき抱く。
「そ。パパ今からタイムスリップしてくるよ」
「ほんと!?お父さんすごおい!おみやげ買ってきてね!何時代に行くの?」
芳美は最近児童向けの絵本や歴史のマンガを好んで読んでいたので、昔というものに少しは興味があるのかもしれない。いい傾向だ。正広は思った。過去を顧みれないやつはろくな人間になれないからな。
まるで自分に言うように心の中でつぶやいた。
「大航海時代かな。パパにとっての」
「へえ!いってらっしゃい!」
芳美の頭を最後にぽんとたたくと、そのまま着のみ着のまま玄関をまたいだ。何年ぶりになるだろうか、弾む心を携えて。
4
「きみ何をやってるの?」
夕暮れ時の路地裏。腰を落として聞く菜摘に、少年は無表情に顔を下に俯けるだけだった。家々の隙間を通り抜ける風の音がむなしく二人の間にこだまする。
「何があったのかおねえさんに言ってみなよ。なんでも聞いてあげちゃうよ」
菜摘は耳にかかる髪を指で梳いて、なるべく優しい口調になるように努めて健気に根気よく少年の顔を覗き込む。その目にはうっすらと涙が溜まり始めていた。
「……」
目の前の男の子には何かを聞かれたら返事をするという習慣がないのか、それとも単に内気なだけなのか菜摘は量りかねて渋面をつくりかけた。よく見てみると地面のただ一点を見つめる少年のその視線の先には自らの右手の先で揺れているキーホルダーの影があった。それに気づいた菜摘は少年の右手の影から少年の右手へと目を移し、その先に揺れているキーホルダーを見つめる。
「…自転車の…鍵、だね」
少年が悔しそうにうなずいた。少年が菜摘に対して取った初めての反応だった。視線はまだ自身の伸びきった影を茫洋とした視線でねめつけている。
「盗まれちゃったの…?」
少年の目じりにたまった涙はその質問を合図に頬をつたった。強く目を閉じ意地になって頭を縦に振った拍子に、振り切られた涙は地面に落ちて、小さな黒い斑点をつけた。おそらくここに自転車が置いてあったのだろう、菜摘はそう思うと反射的に少年を自分の胸へとかき抱いた。
「な、なにすんだよ!離して」
照れ隠しに体の中でもがく少年の非力な拳を衣服越しに体で感じるたび、菜摘はなんだかくすぐったい気持ちになった。私が求めていたのはこうゆう感覚なのかもしれない。同級生に対して感じたことのない温もりのようなものがこの少年をきっかけに生まれた菜摘は、この少年の力になることでさらに大きい暖かさを自分の中で感じることができるのではないかと思った。
夏の夕暮れの暗い路地に呆然と佇む少年に興味本位で声をかけた菜摘の本意は、いつの間にか自身の欠落している感情の補填にしようとその様相を変えていた。私だって誰を相手にしてだって、例えこんなに小さい男の子相手にだって、お互い親しみを持って接する間柄になったっていいじゃない。菜摘が訴えるように思うとそれに比例して少年を抱き寄せる腕にも力が入った。
「く、苦しいよ…おねえちゃん…苦しいよ」
ハッとして菜摘は手を離す。圧していた力を突如失った少年は、勢いで大きく後ろへバランスを崩し、地面に尻餅をついた。菜摘は目下で顔をしかめる少年を気遣うより先に聞いた。
「…今、きみなんて言ったの?」
「痛いなあ、おねえちゃん…何すんだよお」
お尻をさすりながら立ち上がる少年の眼前に飛ぶようにして距離をつめるとふたたび抱きしめて、「それいいね!」と空にも響く勢いで叫ぶ。
「だ、だから苦しいって。さっきより苦しいよ!ねえ!」
懇願とも取れる少年の声だがしかし、菜摘の耳には入らず、「うん、そう私おねえちゃんだよ!君のおねえちゃん!ね、よろしくね」と児戯のようにはしゃいがせるだけだった。少年は少年で、先ほどまでぶすりとした表情はどこへやら、抱きしめ絡みつかれることに満更ではなく、わずかに頬に熱っぽさを覚えながら必死に抵抗するふりをした。少年とて他人から好意的に接せられたことが初めてに等しい体験だったから、理由は分からないけど自分の言葉で喜びはしゃぐこの年上の女の子に悪い感情を持ちようがなかった。
「きみ、名前は何ていうの?」
身をかがめた菜摘が少年の両肩に手を追いて聞く。その瞳が信じられないほど澄み切っていたことに少年は驚いた。自分を見る目なんて蔑みの色以外浮かべないと、この年齢にして決めつけていたからである。
「ま、正広だけど…」
瞳に吸い込まれないように必死になっていた正広はついに目をそらし、無抵抗に自分の名前を目の前の女の子に教えてしまった。そんなことしたら大変だ。名前なんて教えたらまた変なあだ名をつけられていじめられてしまう。正広は瞬時に後悔した。今まで兆していた楽しい気持ちは一気に萎縮へと向かい始めた。すがるような目で再び菜摘の見上げた。
「正広くん…まさ…正ちゃん!そうだ正ちゃんがいいね!決まり」
菜摘は両肩の手で今度は正広の両手首を取り、それをぶんぶんと振り回す。満面に広がる夏のひまわりのような菜摘の笑顔を見ていると、正広の抱いていた不安は霧散した。そしてこう呼んでいた。
「なつみおねえちゃん!おねえちゃん!」
心を開いた正広を、腕をいっぱいに広げて受け入れるように菜摘は呼応した。
「正ちゃん!正ちゃん!」
世間から爪弾きにされた2人の少年少女はすがり合うように何度も何度もお互いの名前を呼び合った。




