一
1
水のはねる音がした。分離するようにちぎれた小さな水滴がひらひらと宙に舞う、そんな音がした。
残暑の大気。外で雨は降っていない。リビングの出窓を透かして入ってきた陽だまりで、愛犬が昼寝をしている。テレビではワイドショーのスタジオ中継。娘の芳美は昨日買ってあげたばかりの絵本をうつぶせた体に足をばたつかせて読んでいて、妻の春海は最近定期購読し始めた園芸雑誌に目を落とし平和的な欠伸をしている。そんなゆったりとした時間が流れる昼下がりに正広は革張りのソファに深々と腰をかけて先週末に持ち帰った仕事のリストの最終確認をしていた。そんな時にその水の音を聞いたのだった。
外は晴天、水回りは無人、テレビは屋内。この条件で水音がリビングに響くはずはない。正広は不思議に思い小さく首をひねった。鈍色のアスファルトを透過する水たまりが家に面した道路にあって、その上を車が通り過ぎたのだろうと思ったがそれも違う。昨日家族で終日出掛けていたが、いつ空を仰いだところでそこには大海と見紛うばかりの青空が広がっていて一朶の雲さえなかったし、眠りの浅い正広は、夜更けに雨粒が屋根や木の葉やアスファルトを打つ音を聞いていなかった。
「いま、なんか変な音がしなかったか?」
正広が尋ねても春海は聞いているのかいないのか、呆けたように見ていない、と言うだけだった。芳美にいたってはすっかり絵本の世界に耽っていると見えて歌さえ唄いだしそうにニコニコ笑顔を浮かべている。とにかく2人は何の音も聞いてないようだった。
それでは一体何の音だったというのだろうか。思い当たるとしたら、遅く起きた今朝のその起き抜けにかかってきた正広の母親からの電話だった。春海が出て事務的に内容を受け取ると、受話器を置いて朝食の準備に戻ろうとするその道すがらに寝ぼけ眼で立っている正広にパタパタと歩くついでのように聞いた。
「村澤菜摘さんて、あなた知ってる?」
聞いたことのない名前だと正広は思った。固有名詞、特に人名を受けてその姿かたちが何も思い浮かばないといった事態はここ何年かで珍しいことではなくなっていたので、脳内で検索をかけるまでもなく、「いいや、知らないな」と捨てるように吐いた。別に不機嫌そうに言ったつもりはなかったが、妻はそれをどう受け取ったのか、せっかく言伝してあげようと思っているのにそのぞんざいな言い草はなんなのよと言いたげな、実に具体的な表情を作って言った。
「そ。ならいいんだけど。その村澤さんて方がね。一昨日の夜遅く亡くなったんですって、今のお義母さんからの電話」
それは今まで聞いた訃報のどれとも色を違えて正広の耳に響いた。何せ正広はその女性の名前に聞き覚えがないのに、母親がわざわざ電話をよこすということは、かつて間違いなく正広の人生に関わっていた人物で、それを母親が知っているのは、その関係が浅からぬという証左に他ならなかったからである。
しかし、そんなこともあるのかなとその時正広は深く気に留めなかった。年輪を重ねることとはつまり過去を忘れること。働き盛りと言われる正広の年齢だが、一介のサラリーマンである正広にとって身を粉にして働くことはもはや見聞を広げる役割を果たさない。今まで培った知識と経験を徒とまでは言わないまでも放出するに相違なく、記憶、経験の絶対量は緩やかな下降線を描き始めていることを、正広は感覚的にわかっていた。
歳を取るということは忘れること。そこに重要度のフラグをつけることはかなわない。だから正広はその忘却の底へと沈んだ村澤菜摘という女性の訃報を受けて悼む気持ちにならなかったし、村澤という女性を思い出せない自分にヤキモキとさえしなかった。
そんな出来事と先ほど自分にだけ響いた水のはねる音がどのように連絡しているのかはわからなかったが、正広は直感的に無関係ではないと思った。僕は確かに小さい頃に水のはねる音を聞いた。ただ水のはねる音じゃない。確固たる意味を持って。くどくどと正広は考えるが、一向にその靄は明ける兆しを見せない。芳美が絵本に飽きたのか、愛犬のクロのところまで小走りで向かい、寝ているクロを無理やりに頬寄せた。迷惑そうなクロはそれでも尻尾がじねんと振れてしまうジレンマを、芳美の小さな体を押し倒してじゃれつくことでうやむやにしているように見えた。
埒が明かない。無理だ。正広はことの無謀さを悟り手元の資料をガラステーブルになげうち横になろうとした。瞬間、ふたたびその音が正広の耳に届いた。
『フチャリ』
続いて、表の道路から自転車が呼び鈴を鳴らして通り過ぎる音が聞こえた。幻想から響く水の音と、現実に鳴った自転車の呼び鈴がうねり合うようにリンクして、気が付くと正広は殺人的な陽射しが照りつける真夏の畦道に立っていた。道の両端は熱風に揺れる草花がどこまでも連なり、その向こうでは鬱蒼と木々がひしめき合っている。空間を支配する音はその森の住人である種々の蝉たちが自らを誇示するように喚き散らしている鳴き声だった。。
正広は小さな体にパンパンになったアウトドアリュックを背負い、汗に張り付くように伸びきったTシャツに、穿き古した綿素材の短パンというみそぼらしい格好だった。足はまだまだ快活に運ばれ、左手で鼻筋を始め、顔中を滴る汗を間断なくぬぐって、汗と土で汚れた右手は誰かに握られていた。
「正ちゃん大丈夫?お水また飲む?」
正広はその誰かの方へ向き直ると元気よく言った。
「うんありがとう!なつみねぇちゃん」
2
正広と菜摘はどことも知れない田舎道を歩いていた。
「なっちゃんだよ。正ちゃんは私のことをなっちゃんて呼ばなくちゃいけないの、ほら」
「わかったよ。なつみねえちゃん」
全然わかってないじゃない。そう頬を膨らませつつも持っていた水筒を正広に手渡すと、正広はおぼつかない手つきで水筒を開ける。
「いつかなっちゃんって呼ぶんだよ。約束」
脇に立つ菜摘は緩い風に傾く麦わら帽子を手をつないでいない方の左手で押さえると、自分たちにかぶさるように覆われた空を見上げた。海のように輝く青空を眺めると、汗の臭いもなんだか潮の香りに感じて、およそ山地にいるとは思えないすがすがしさを覚えた。
「なつみねえちゃん!海はまだ?」
「うーん、まだまだだね」
菜摘は空を見上げたまま言った。がぶ飲みしていた水筒を口から離して息が整うのを待って正広ははやる気持ちを抑えるよう聞く。
「そっかー。海には僕の自転車があるんだよね?そうだよね?」
邪気のない正広を見て菜摘は複雑な表情を浮かべながら微笑む。
「うん、そうだよ。この大きい山を越えたらね。そこに海がどーんってあったね、すごくきれいな場所なんだよ。それでその海岸に正ちゃんの自転車があるんだよ」
「ほんと?そんなきれいな場所に僕の自転車はあるのかあ。ちょっと自転車のやつが羨ましいな。でも早く見つけてあげなくちゃな」
「そうだね。あ、あんなところにおうちがあるよ。行ってみようか?」
菜摘が指差したのは、欅や杉に囲まれるようにして建つ古式の日本家屋。敷地内には土蔵もあった。近くまで行くと漆喰の塀は歴史を吸い込んだように黒ずんでいて物々しげだったが、開け放たれた縁側の窓の中から響くラジオの歌謡曲がその雰囲気を相殺していた。
「ごめんください」
正広と菜摘が声を揃えて言うと、腰の曲がった老婆が人のよさそうな声をあげて迎え出た。
「おやおや。どうしたんだいこんなとこまで子供だけで。疲れたでしょう。さ、さ、お上がんなさいな」
見上げれば天狗や般若などのお面が雑多にかけられた玄関を靴を脱いで上がると木張りの廊下のひんやりとした感覚が靴下ごしにも感じられて、菜摘は心なし涼を得たが、隣を歩く正広は足を置くたびに泣く木の軋みが面白いらしく、菜摘に気づいてもらおうと必要以上に足を踏んで笑いかけてくる。
この正広の顔を見て菜摘は大義を果たしたような気持ちになって2人に従うようにしてやや後ろを歩く老婆に小声で「おばあちゃん。ありがとう」と囁いた。老人は満面に優しさを映してうなずく。居間は昼間だというのに薄暗かった。窓際にある扇風機がカラカラと音を立てながら温い風を送っている。漆塗りのテーブルの上には細い枝で編んだ籠があってその中には、最寄りの製菓店で買いこんでくるのであろう袋詰めの和菓子が頭を出している。居間の反対側を見通すと2人が座った場所より一段高くなったところに囲炉裏があり、その中空には鍋が梁より釣られていた。目敏い正広は菜摘が囲炉裏に目を遣る頃にはその一角に鎮座して珍しそうに五徳を眺めていた。
菜摘自身だってこの家の敷居を跨ぐのはいつ以来だかすぐには思い出せなかったので、目につくもののほとんどが物珍しく映ったが、そこはお姉さんとして正広を連れている身である。そうそう簡単に目を輝かせては威厳に関わるかもしれない。菜摘はそう思うと部屋にあるものになるべく関心を寄せないように努めた。古風なことを除けば、何の変哲もない木造家屋である。年長者然とすることはさほど難しいことではない。しかし大人びたい一方で、菜摘は正広と純粋な友達として笑い合いたい側面もあった。正広はもちろんのこと、菜摘にも友人と呼べるような同級生はいなかった。理由は簡単だ。菜摘の家庭にはたくさんの問題があって、そのどれもが一般社会、家庭に取ってみれば後ろ指を指すに足りるものだった。ただ不幸なことに菜摘自身はその要素に一切加担していなかった。母親の水商売。父の元暴力団という経歴、酒癖。これは菜摘の公私にわたる品行方正な生活態度を帳消しにしていて、同級生の親たちは菜摘と関わらないことを息子や娘たちに強く言い含めた。
早熟な菜摘は親に逆らえない同級生の心情を理解していたからどうしても必要な時以外は自ら周りに話しかけることはしない。周囲も菜摘が決して悪い人格の持ち主でないことを知っていたので、関わらないだけで嫌がらせや陰口の対象にはならなかった。
実に平和的な関係を築いていた菜摘とその周囲だったけれど、菜摘は友達というものに憧れてしまうのは無理からぬことで、そんな彼女の目についたのが下級生の正広という存在だったのである。