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私の名前が言えたらね

作者: 藍間真珠

 春になるとこの家のにぎやかさはいつも半減してしまう。それは今日も例外じゃなくて、二人きりの家には時を刻む音が染み込んでいた。

「コンスタン師匠、今日も遅いよなあ。あーもう帰ろうかなあ」

 我が物顔で食卓に居座るニコラが、古びた時計を見上げながら一人でぼやく。お父さんは今日も忙しくて、もう日が暮れたというのにまだ帰ってきていない。

「じゃあさっさと帰ったら? ニコラいても掃除の邪魔になるだけだし」

 私はほうきの柄でニコラの小さな頭をつつくと、片づけぐらい手伝ってよ、と付け足した。でもニコラは食卓にぐたりともたれかかったまま、ふてくされた顔でこちらを見上げているだけ。

 効果無しか。私はため息一つついて掃除を再開した。もはや我が家の住人と化したニコラには私のお小言は聞かない。言い聞かせられるのは、この居候もどきの師匠である、お父さんだけだ。

「なあフェリシー、コンスタン師匠は今日はどこに呼ばれていったんだ?」

 しかし掃除がはかどることもなかった。スカートの裾を引っ張って尋ねるニコラに、私は疲れた眼差しを向ける。邪魔するのもいい加減にして欲しい。

「今日はオリオールさんのお屋敷だって。誰かの誕生日みたい。誕生会に名前呼びを招くなんて貴族様のやることは違うわよねえ」

 そう、お父さんはこの国でただ一人の、ううん、この世界でただ一人の『名前呼び』なのだ。名前を美しく呼ぶことが役目という、ちょっと変わったお仕事。でもそれも仕方がない、ここレリリアーシェラの国民の名前は、信じがたいくらい長いんだから。両親の名前を唱えるのにも苦労するくらい、長くてややこしいのだ。だから表彰式とか結婚式とか、名前を呼ばなければいけない式にはその専門である『名前呼び』が必要となる。

「貴族? いいなあ、うまいもの食べられるんだろうなあ。俺も早く一人前の名前呼びになりたい」

「私の名前が言えたらね」

 いつもの言葉をぴしゃりと浴びせかけると、その途端不機嫌になったニコラは不満そうに眉根を寄せた。子どもっぽい顔で怒りを表して、でもすぐに真顔になって息を整え姿勢を正し始める。

「フェリシーの名前くらい言えるって」

 そしてその薄い唇をゆっくりと動かし始めた。

「フェリシー・エルランジェ・コンスタンタンジュヌヴィエーヴリュン――――」

「あ、今『ブ』が抜けた」

「え? うわー、ってフェリシーが悪いんだからな! そんな難しい発音の名前してるから」

「そんなの私のせいじゃないわよ」

 頭を抱えるニコラに醒めた視線を浴びせて、私は掃除の続きを始めた。するとその途端、扉の鈴が控えめに鳴って、見慣れた姿が入ってくる。

「ただいま、フェリシー、ニコラ。遅くなってすまなかったね」

 灰色がかった柔らかい茶髪をなでつけながら、お父さんが後ろ手に扉を閉めた。今日はいつに増しても顔色が悪くて、何だか疲れてるみたい。

「お帰りなさい、お父さん」

 その言葉にお父さんは小さくうなずくと食卓の椅子に腰掛けた。そしてニコラの頭を左手で撫でると、おいでフェリシー、と珍しく神妙な声音で私を呼ぶ。不思議に思いつつも、はい、とだけ返事して食卓につくと、真剣な眼差しが向けられた。

「オリオールさんのところに息子さんがいるんだ、次の春で十八になるらしい」

「え? 何、突然?」

「その息子さんがお前と見合いをしたいって言ってきてね」

 急な話に、私の頭の中は真っ白になった。何も考えられなくなり、ただ口をぽかんと開けたまま、気の毒げに眉をひそめているお父さんを見つめる。ふと視線をずらすと、間抜けな顔で口を開けたニコラが目に入ってきた。今は私も似たような顔をしてるのだろう。

「大丈夫かい、フェリシー?」

「も、ものすごく驚いてるけど。えっと、でもその息子さん私のことなんか知らないでしょう?」

 油断するとどこかへ飛んでいきそうな思考をつなぎ止めて私は問い返した。常連さんとはいえ私は一度も行ったことがない。お父さんは相槌を打ちながら、ゆっくりと口を開いた。

「肖像画を見たそうだよ。ほら、この間お前言っていただろう? 絵描き修行のしている少女に描かせてあげたって」

 そういえばそんなこともあったかもしれない。でもそれにしたってお見合いだなんて急な話だ。確かに私はもうすぐ十六で成人だけど、結婚とかそういうのは考えてみたこともなかった……。

「とにかく一度だけ会ってくれないか、フェリシー? 相手も直接会えば気が変わるかもしれないし」

「ってちょっとお父さん、それどういう意味!? わかりました、会えばいいんでしょう!」

 私は音を立てて食卓を叩くと、くるりと背を向け部屋へと小走りに駆けていった。




 その後見合いは明後日だと聞かされた私は、珍しく早くベッドに潜った。

 相手はどんな人だろう? お付き合いしないとだめだろうか? そのうち結婚とかなるんだろうか?

 疑問はどんどんわいてくる。

 今まで当たり前のように思ってたけど、この生活がいつまでも続くわけじゃないんだよね……。

 瞼の裏に蘇ってくるのは、優しい顔で私を受け入れてくれるお父さんに、ころころと表情を変えながらもつきまとってくるニコラ。お母さんが病死してからも私が何とかやってこられたのは二人のおかげだ。

「あれ? 何か声が聞こえる」

 私はむくりと起きあがり、そろそろと扉の方へと向かった。お父さんの独り言ってことも考えにくいし、何だろう?

 扉をそっと開けると、階段の下から会話が聞こえてきた。言い聞かせるようなお父さんの声と、ニコラの声。

 ニコラはもう帰ったはずじゃ?

 私は首を傾げながら耳をそばだてた。

「名前呼びは、名前に込められた思いを尊重して、丁寧に、そして美しく呼ばなければいけないんだよ。ニコラはまだ発音するのに必死で、そこができていない」

 何度も聞いて耳馴染んでしまったお父さんの言葉。はい、といつになく真剣なニコラの返事が階段越しにもはっきりと聞こえた。何でこんな時間に練習してるんだろう? 練習できない日は今までだってあったけど、だからって夜にやったことは一度もないのに。

「気持ちを込めるんだ。伝えたい気持ちを込めて、ゆっくりと呼びなさい。もうニコラにはわかるだろう?」

 私は音を立てずに扉を閉めた。考えても仕方ない。私には明後日の見合いというとてつもない事態が控えてるんだから。寝不足の顔で会うのはさすがにまずいだろう。

 自分に言い聞かせるようにしてベッドに潜ると、私は頭から思いっきりシーツをかぶった。そして固く目を閉じて、深い深い思考の海へと潜っていく。

 その夜は、とても長かった。




 見合いの日、午後からオリオール邸に向かう約束になっていた私は、鏡の前で何度目かのため息をついた。灰色がかった茶髪は今は綺麗に結われており、肌を覆うのは鮮やかな空色のドレスだ。自分で言うのも何だが、これならば貴族のお屋敷でもそれほど見劣りはしないんじゃないかと思う。ただ問題なのは礼儀作法の面だけど、でもこれは今さらどうこうなるものじゃない。

「もうすぐ時間かな……」

 下ではお父さんが支度をして待っているはずだ。渋々と鏡台の椅子から立ち上がりゆっくりと振り返ると、不意に扉がギギギと開いた。

「ニコラ? ちょっと、ノック無しってのは失礼じゃない?」

 格好が格好なので何だか照れくさかったけど、私はいつもの調子でそうたしなめる。でもニコラは落ち着かない様子で小さくうなずき、それきり黙り込んでしまった。

「何か用事?」

 そう尋ねるとニコラはすっと顔を上げた。今まで見たこともないような不思議な光をたたえた瞳が、私を真っ直ぐ捉える。

「ニコラ?」

「黙って聞いてて、お願いだから」

 落ち着いた、それでいてどこか力のある言葉に私はただうなずいた。何故だか声を出してはいけない気がして、そのまま唇を結ぶ。

「フェリシー、フェリシー・エルランジェ・コンスタンタンジュヌヴィエーヴブリュンティエール・ジョルジュジュディッ――――」

 それは、私の名前。何度となく耳にして、もはや生活の一部となった私の名前。棒読みだったり、つっかえたり、間違ったりを繰り返しながら唱えられた、大事な大事な名前。

 それをニコラは今、大切に、すべらかに、よどみなく呼んでいる。

 お父さんと、同じように。

「――――アフェクスィオン・マリリアレーリャレリリアーシェラ」

 私の名を唱えたニコラはそこで一度小さく息を整えた。そしてはっきりと問いかける。

「俺と、結婚してくれませんか?」

 沈黙。

 長い沈黙。

 そうだったんだ。そういうことだったんだ。全ての謎がとけたみたいに嬉しくて、私は突然声を上げて笑い出した。笑わずにはいられなかった。

「え? え? ちょっ、ちょっと何それフェリシー!?」

 泣きそうな顔でニコラが叫ぶけど、笑いは止まらない。

「あのね、ニコラ。あなたは十二歳でしょう? 結婚はまだできないのよ?」

 その言葉に、しまった、という表情をニコラ浮かべた。肝心なところが抜けているこの困った居候もどきは、やっぱりまだまだ子どもなのだ。

「いいわ、じゃあ婚約ってことにしておいてあげる。オリオールさんの息子には悪いけど、今日のお見合いは破談ね。未来の名前呼びのためですもの」

 私はニコラの頭を撫でて、その頬に軽くキスをした。彼の顔が真っ赤に染まり、こんな時ばかりはかわいらしく感じられる。

「で、でも見合いはコンスタン師匠が――――」

「お父さんだってわかってくれるわよ、きっと」

 ニコラの脇をすり抜けて、私は軽やかに階段を下りていった。いつになく気分が良くて、体がふわふわと浮いてしまいそうだった。



 その後、私は見合いの話がそもそもなかったことを知らされる。

 お父さんの策にまんまとはまった私たちは、まだまだ独り立ちできそうにない。

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