第九話:暗雲
午後の配達時間のころ。
コンコン。
セシリアは最近、そのノック音にイライラを覚えるようになった。理由はそう、あの郵便配達員ロゼのせいだ。化粧品やら小道具やら、最近は何も言わずに黙って持って行かれることまであった。
これはもうビシッと言ってやらねばと意気込む。
「ああ、心なしか何だか頭痛もしてきたわ……」
少し熱もあるような気がしたが、大したことではないかと自己診断する。
大きく息を吐いて扉を開けた。
「ロ……陛下!」
見上げた先にいたのは、想像していた彼女ではなくクライドだった。不敵な笑みを浮かべながら彼女を見下ろす。
「遅いぞ貧乏貴族。貧乏なら貧乏なりに、もっと敏速に動いてみろ。褒美に金がもらえるかもしれんぞ、やったな」
(く……この方もこの方ですけどねッ!!)
引きつった笑顔を浮かべながら、
「まあこんなお昼間から。ところで私に何かご用ですか?」
クライドは悪魔的微笑を浮かべると、セシリアの手首を引っ張っていく。
「ちょちょちょ……っ!」
「用などこれしかないだろう」
クライドに乱暴にベッドへ放り投げられた。
セシリアが体を起こす間もなくその上にのしかかると、あたりまえのように首筋に顔をうめる。
「……何て最低な用事でしょうかしら、陛下」
「最近いつものはどうした」
「え?」
皮肉っぽく返したそれに戻ってきたのは、あきらかに話の流れと食い違う問いかけ。
「“いつもの”……とは?」
「香水だ」と首筋から顔を上げる。「変えただろう。余はこれではなくそちらの方が好みだ」
不満げに美しい完璧なまゆをひそめた。
その悩ましげな表情に少しドキリとする。
「ああ……あれですか」
あれはもうない。ロゼに持っていかれてしまったのだから。
セシリアとてあの香りがお気に入りだったのだが、新しく買うお金もない。だがそう言えば、またこの腹黒王に何を言われるか。
“小瓶一本も買えないのか”と自分のことのみならず一族全体を笑われるに決まってる。セシリアとてアディソン家としてのプライドがあるのだ。
「私はこっちの方が好きなので」
「ダメだ。元に戻せ」
(ダメって何……!?)
「別に香水ぐらいなんでもいいではないですか。それに人の好みにまで口を出さないでください」
「誰のおかげでアレックスのような有能な医者をつけてもらえていると思っているんだ? それも医療費を払わずにな」
「くっ……」と眉間にしわをよせる。
何かといえば貧乏だと笑い、かとおもえば自分の思い通りにしようと圧力をかける。
だがクライドは押し黙ったセシリアに満足したのか、
「分かったな。明日からは言った通りにしろ」と再び首筋に顔を埋めた。
「陛下ではなくアレックス様ならよかったのに」
「――!」
それに空気が変わったのを感じた。
顔をあげて見下ろしてくるクライドの目には、明らかな怒りと僅かな動揺が渦巻いている。
「…………何、だと?」
しまったと思った。深い意味があったわけではないとは言え、それはいくら何でも言ってはいけなかった。
それもこんな場で。
「あ、違、その――」
「まさか……そなたはアレックスに気があるのか」
そう思われてもしかたない発言だった。何とか謝らなくては。
「いえ、ただあの方は陛下と違ってとても穏やかでお優しいですし、それに私の一族を見下したりもしませんから、ですからそれでそんなあの――」
だが怒りの収まらないクライドは、一度強くセシリアをにらみつけた後さっさとベッドをおりた。
「もういい」
バァンッと扉が外れそうなほど強くドアを閉めて出て行った。
それにセシリアは(やってしまった……)とグラグラし始める頭を押さえた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
部屋を出たクライドは、広い廊下を踏みしめるように歩いていた。未だに怒りが収まらない。
「何と言う無礼な女だ……! あのような場で他の男がいいだと? まさかずっとそのように…………っ。処刑だ処刑!!」
だが彼女の言葉がやけに胸に突き刺さる。
――『陛下ではなくアレックス様ならよかったのに』
本気でそう思って言ったのだろうか。だとしたら……。
ヒンヤリとした嫌な感情がうずまく。怒りのような強い憎しみのような。
セシリアが他の男を慕っているかもしれないなど、考えもよらなかった。ここにいる女たちは全て自分に取り入ろうと夢中になっているのだから。
会わせなければよかったと後悔の念すら覚える。
彼女を処刑すれば満足か? いや、違う。
「全く……っ」
「陛下、御機嫌よう」と女の声がしたが、返す気にもなれずに無視した。だが“あの香り”がしてハッと足を止める。
急いで振り返ると、配達員の女だった。
「そなたその香水……」
「え?」とロゼは目を丸くする。
唐突すぎるな、とクライドは考え直した。
「いや、そなた名は」
クライドがそう尋ねると、ロゼは朝日のようにパアアッと顔を輝かせた。
「ロゼ……! ロゼです! ロゼ・ブラウン!」と前のめりになる。
だがクライドはそれを耳半分で聞いていた。セシリアの言葉を思い出していたのだ。
――『ただあの方は陛下と違ってとても穏やかでお優しいですし』
どうやら彼女はそういった男が好きらしいと思量する。
思えばプロポーズ云々の前に、花の一本もプレゼントしてやったことがなかった。金に困ってもいるわけでもないのに。
彼女が自分のことをどう思っているのか分からないが、セシリアがああ言ったのも自分に少しは原因があったはずだ、とクライドは初めて反省の念のようなものを抱く。
あの香水はいつもつけていたのだから、本当は彼女も気に入っているのだろう。
おそらく切らしたか、あの通りのおっちょここいだから落として割りでもしたのかもしれないと考えをめぐらせる。
それを、プレゼントをしてやろうと思った。いつもより少しだけ優しい言葉と一緒に。
「気に入った。その香水の名を教えてくれないか」
彼女はそれをどんな顔で受け取るのだろうと、淡い期待に頬を緩ませながら。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「本格的に頭がぁ……」
翌日。セシリアはクライドに対し、初めての手紙をしたためていた。さすがにアレは男性の自尊心を傷つけたろうと反省を込めて。
だがさきほどから頭がぼんやりとしていて、一体自分が何を書いているのか分からない。
「もう何かもう何でもよくなってきた……『あなたのセシリア・アディソンより』……っと完成」
コンコンとノック音に顔をあげると、扉が勝手に開いた。どうせ彼女だろう。普段なら怒りを覚えるが、今は逆にありがたい。
「セシリア様!」
やはりそうだ。相変わらずセシリアがしてやったあの髪型と化粧をしている。明るい表情で物書き机に近づいてきた。
「ロゼ……ちょうどよかったこれよろしく」
ロゼはそれをよく見もせずに受け取ってカバンへしまう。
「ねえ聞いて? 昨日いいことがあったの。……陛下に名前を聞かれたのよ!! それも今まで見たこともない優しい笑みを浮かべられていて。きっと私がそれだけ特別なのよ! どうしましょう、きゃー」
両手で自分の口を塞いで軽く飛び跳ねる。
「そう」と適当に返答する。体がだるくてそれどころではない。
「はあ……私もそろそろ後宮に入れるかしら」と物色するように部屋を見わたした。
どうやらキャビネットにあった小さなガラスの人形に目をつけたらしい。
「かわいい」と勝手にポケットにしまう。
それにセシリアは頭痛を忘れるかのように、机に両手をついて立ち上がった。
「いい加減にしてくれないかしら! 毎日毎日私のものを取っていくなんて。欲しいなら自分で買えばいいでしょう?」
ロゼはキョトンとして首をかしげる。
「いいじゃない、たくさんあるんですもの」と両手を広げる。
「一体何がいけないの?」と肩をすくめる。本気で分かっていないらしい。
セシリアは大きなため息をついた。
「私がいつ“あげる”と言ったのかしら。知ってる? そういうのを”泥棒”というの」
ロゼはそれに一瞬にして無表情になった。
そしてジワジワと怒りがこみあげてきたのか、怒り狂った犬のような顔になる。
「“泥棒”!!? よくもそんな卑劣なことを言えるわね!」
「卑劣なことをしてるじゃない、現に」
「アンタはきっと後悔するわ!! 私はもうすぐ後宮入りするの。陛下に愛されて愛妾……いえ、正妃としてずっとずっと大切にされる運命なんだわ。だってあの方は“気に入ったって”言ってたもの」
「あのね、現実的に考えて無理ですって。正妃は血縁が――」
「うっせぇんだよッ!!」
「――!」
突然口調が変わって思わず押し黙った。
セシリアも物怖じしない令嬢らしからぬ性格だったが、ロゼのあまりの変貌ぶりと俗な物言いに言い返す言葉を忘れてしまった。
「あの人はアタシに挨拶をしてくれるようになった! アタシの名前を聞いてくれた! アタシの香水まで気にかけてくださるようになったッ! そして笑いかけてくださった!! どう考えてもアタシをお慕いくださってるッ!! お前はただのお慰みものだけどなッ!!」
それに……セシリアの中で切れるものがあった。
言っていい事と悪い事がある。
ヒトの事情も知らず、よくもそんな言葉が言えたものだと。自分より目上の者の言うことには大人しく従うくせに、一旦安全圏内の人間とみればどこまでも礼儀を知らない言葉を吐き散らかす。
セシリアの怒りは頂点に達した。
「ロゼ……言わないでいようと思ったけど、挨拶は私がするように陛下に献言した。香水は私がつけていたものだから気になったんだわ。あなたの名前はそのついで。あの方はその香りが好きだと言っていたから」
それにロゼはカミナリに打たれたかのような顔をした。少しずつ気にかけてくれると思った想いの人は、すべて目の前の女に繋がっていたことに激しい怒りと嫉妬を覚えたのだろう。
「違う……違う!!!」
「別に信じなくてもい――」
ロゼはポケットにしまったガラスの人形を投げつけた。床へ叩きつけられ、ガシャンと割れて首が取れる。
「お前は地獄に落ちる! この薄汚れた裏切りモノがッ!!!」
喚くだけわめくと、ロゼは扉を激しく閉めて出て行った。
「う、“裏切り者”……って。ああ神よ、教えてください。一体いつ私が彼女を裏切ったのか……。だったらもう陛下と結婚でも何でも好きにしなさいよ。腹黒同士お似合いだわ……いだだだ、頭痛が」
セシリアはギリギリと痛む頭に手を当てると、掌に僅かに熱を感じた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
数日後、クライドは落ち着かない様子で執務室にいた。
もう就業時間は終わっているが、自室に戻る気配はない。手には包装された小箱が握られ、少々緊張ぎみに室内をうろついていた。
せっかく頼んでいた品が届いたというのに、まだそれを本人に渡し行く心の準備が整っていない。
「一体何と言って渡せば“優しい”んだ」
未だかつてそんな風にプレゼントしたことなどなかった。いや、そもそも身内の誕生日等義務のようなもの以外では、誰かにプレゼントなどしようと思ったこともない。
だからこそ戸惑っていた。どうすればいいのかと。
だが分からないとはいえ、そんなことを誰かに相談するなど恥で死ねる。
そのとき、小さなノック音が部屋に響いた。
「誰だこんなときに」と小箱をデスクへ置き、舌打ちして扉を開ける。
そこにいたのは、郵便配達員ロゼだった。以前名前を聞いたが、クライドは香水の名前ばかりに気を取られて彼女の方のは忘れていた。
「何だ。午後の分の手紙なら受け取った」
「お話があるんです……」
彼女はそういうと、勝手に部屋の中へ足を踏み入れる。
「おい!」
許可もなしにそんなことをするなど、常人のすることではない。
だが彼女はジッと俯いたまま、震えながら斜めがけカバンをぎゅっと握った。
「陛下……ずっと黙っていたことがあるのです。もう良心の呵責に耐えられません……っ」
「だから何だ」とイライラしながら言う。
「こ、こ、これを」
ロゼがカタカタと震えながら差し出したそれは、一通の手紙だった。
一体何なんだと思いながらそれを開けてみる。
「『親愛なるアレックス・ヘンリー・べレスフォード様へ。毎日あなたのことを思うと、胸が苦しくてはりさけそうです。初めてお会いしたときから私はずっとあなたのことだけを愛していました』……何だこれは」
カッと瞠目する。
「『……毎晩のようにあのような冷酷な王の慰みものになるなど、もう心が耐えられません。ああ優しいあなたの腕の中へ行きたい。一日も早くそれが実現することを願って。あなたのセシリア・アディソンより』――」
「セシリア様に……これを届けろと。そして黙っていろと言われて、色んな品を握らされました」
弾かれたようにカバンから次々に品を出してデスクに並べていく。
「化粧品、髪留め、アクセサリー……香水も。でも私……陛下を裏切るなんて……本当はこんなの欲しくないのに無理矢理……処罰は覚悟の上でございます! 申し訳ございませんでした、ああああああああっ!!!」
そう言ってロゼは大声で泣き始めた。
クライドは手紙を握りつぶし、唇を震わせながら、デスクに乗った使いかけの香水と包装された小箱を睨みつけるように見つめていた。