第七話:若き医師
セシリアはヒールを手に、裸足で廊下をヒタヒタと走る。人の気配を感じ、スパイよろしくハッと壁に背をつけて身を隠した。
顔を半分だけのぞかせ、二人組みの女性警備員が通り過ぎるのを待つ。
「午後二時二十分、警備隊B班ヴィエラ回廊を通過。ふむふむ」
セシリアの手帳には、何やら時間や場所がつらつらと乱雑に書き連ねてあった。
警備隊の二人がいなくなったのを確認し、角から飛び出した途端――
ビタン! と何とも景気のよい音と共に軽い痺れが全身を駆け巡った。
どうやら何かにつまづいて転んだようだが、それ以前に何事かと転んだ本人が一番驚く。
「何をやっているんだ? 貧乏貴族」
その声にハッとして腹ばいのまま振り返ると、クライドが腕を組みながら、廊下の壁にもたれかかっていた。
(み、見つかったっ!)
ほふく前進で慌てて逃げるセシリアに、クライドは腕を組んだままツカツカと歩み寄ると、手を差し伸べて引き上げる……ようなことはせず、セシリアの背中にドカリと腰掛けた。
「ぐぅ、な、何をなさるんですか!」
じたばたするも、格好が格好のために力が入らない。
「何だこれは」
「あ、そ、それは!」
セシリアから手帳を奪い取り、パラパラとめくって中身を確認する。
「ほう、警備隊各班の通過時間と場所、それにこの辺りの部屋の配置と外へ通じる経路の確認か。脱出計画でも立てていたのか? ん?」
「ちょちょ、ちょっ……あっ」
あろうことかクライドはセシリアにまたがったままドレスの裾をたくし上げ、太ももを直に触り始めた。美しい掌でやんわりとなで上げるようなその触り方が何とも艶かしく、ゾクゾクとした感覚が体を駆け抜けていく。セシリアの顔は一瞬で真っ赤になった。
(こ、こんなところで……!)
「しかし下手な地図だ」とクライドの方はあっけらかんと言い放つ。
「この後宮を知り尽くした余ですら、何が何だかさっぱり分からん。そなた、この世には方向というものがあるのを知っているか? 歩いた順に書き記してどうする」
「やっ……ちょ、おやめください! そ、それはただ、早くここに慣れようと思って」
「ほう、では褒めてやろうセシリア」
ツーッと指で内ももをなぞられ、何とも言いがたい感覚に目を瞑った。思い出したくもない寝室での数々が鮮明に頭を巡る。
「――!」
鼻血が吹き出るのではないか? と思うほどにセシリアの体は熱くなっていた。実際そうなっては、黒歴史にランクインするほどの恥ずかしエピソードが再び生まれ出る。それだけは阻止しなければと歯を食いしばった。
「陛下、もうそのあたりで許してさしあげては?」
春の木漏れ日のような優しい救世主の声に、セシリアは背骨を軋ませて顔を上げた。
「大丈夫ですか、セシリア様」
目の前に手を差し伸べるその人を見上げる。セシリアにはその人の背後に後光が見えるようだった。
濃い栗色の髪に、透き通ったブラウンの瞳の優しそうな青年。恐ろしいほどに整ったその容姿に、セシリアの心拍数が一気に跳ね上がった。
「あ、はい!」
背中から下りたクライドに、セシリアは服の乱れを整えながらその手を取って立ち上がった。何とも温かみのある繊細な手だろうと思う。
(わぁ……キレイな人。陛下は悪魔だけど、こちらは天使様だわ)
黒いカバンを持った青年はその天使の微笑みを浮かべると、
「私は医者のアレックス・ヘンリー・べレスフォードです。あなたの母上様の担当医を仰せつかることになりました。以後お見知りおきを」
そう言ってアレックスはゆっくりと頭を下げる。髪がサラサラと重力にしたがって下りた。
(お母様の担当医様……この方が!?)
セシリアは驚きに息を呑んだ。
メイドのドリーの手紙では、“素晴らしく腕のいいハンサムでステキでお優しそうなお医者様”とだけ書かれてあったものだから、頭の中では口ひげの似合いそうなダンディーなオジサマ医師を想像していた。腕がいいと聞いて、てっきり経験豊富そうな人を思いうかべていたのだ。それがこの若さ。
失礼と思いつつ、つい靴の先から頭までジロジロと眺めてしまった。
「粗相はするなよ。何せ余のいとこにあたる者だ」
「そ、そうなのですか?」
このガゼルのように穏やかな空気を放つ青年と、ライオンかヒョウかと思うような殺伐とした王との間に近しい血が流れているとは。世の中は分からない、とセシリアはつくづく思った。
(ああ、やっぱり腹黒より純粋で優しそうな男性ってステキ!)とときめきに頬を染めるセシリアを知ってか知らずか、クライドはセシリアの腰に手を当てながらその耳元に唇を寄せ、
「そなたのような女には手に負えん男だ」
と艶っぽく囁いた。その意味がわからず、セシリアは“はて?”と眉をひそめて首をかしげた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「まさかべレスフォード家の方がお医者様をなさっているなんて。あ、いえ……別に変な意味ではなく」
セシリアの部屋のバルコニーには、白のテラスチェアとテーブルがあった。そこに用意された紅茶を口にしながら、セシリアはそう言う。庭から吹き上がってくる心地よい風が頬をなでた。
べレスフォード家は、売れない画家や音楽家のためにサロンを開く芸術をこよなく愛する一族で、神学や文学、法学に秀でたものが多かった。逆に言えば科学や物理、数学といった理系方面を得手としているものは少ない。
そこでアレックスは表情を硬くした。
「実は幼い頃、身内を病で亡くしたんです」
「え……」
セシリアは予想しなかった言葉に、カップを持ったまま身をこわばらせた。彼女の隣に座るクライドも何も言わない。
「そのとき何もできなかったことがとても悔しくて。もうあんな思いをしなくてすむような、そんな力が欲しかった。この仕事がその答えなのでしょう」
遠くを見つめるアレックスは、その表情に少しの悲痛をにじませていた。きっと未だにその記憶は彼の心の傷となって、ことあるごとに彼を痛めつけるのだろう。
「申し訳ありません。お辛いことを思い出させてしまって」
「いいえ、お気になさらず。我が一族のことを知る方なら、誰しも気になることです。それに私には天職のようですし」
そうやんわりと笑うアレックスに、セシリアはホッと安らぎを覚えた。ハリネズミのようにトゲトゲしくすさんだ心に、何とも新鮮ですがすがしい早朝の風が吹き込んだようだと思った。
(どこかの猛獣とは大違いだわ。どこかの猛獣とは――)
チラリと見たそのどこかの猛獣がジッとこちらを見つめていて、セシリアはドキッとする。どこか優しさすら漂わせるそのサファイアのような瞳から、不自然ながらも慌てて目をそらした。
(な、何? あの目は……)
「ところでセシリア様、一つよろしいですか?」
「え、あ、はい」
紅茶をソーサーにおいてアレックスを見やる。彼はセシリアの方を向いておらず、じーっと食い入るように部屋の中を見つめていた。
「あの壁に飾られている絵ですが、右に八分の一インチ(約三ミリメートル)ほど傾いていませんか」
「……え?」
一瞬何を言われたのか分からなかった。
だがゆっくりと頭の中で理解し、セシリアも部屋の中の森の絵を見る。
傾いているような、いないような。そう言われてみれば、まっすぐではないような気もするが、はっきりと、
“ふむ、そうですなぁ。右に八分の一インチ傾いております”
とは言いがたい。
「さあ、そうですか? 私には分かりませんが」
「ちょっと直してきます」
セシリアの答えなどハナから期待していなかったのか、アレックスはテーブルに手をついて立ち上がった。
「え、あの、アレックス様?」
「ついでにあの本棚も分類や大きさがバラバラです。それにあの陶器の人形は二度ほど正面からずれている。あとあの花瓶の花も均衡がいまいちとれていない」
「へ、平気ですよ。私は別に気になりま――」
「セシリア様」
アレックスはため息をつきながらゆるやかに頭を振った。そのたびに指どおりの良さそうな髪が小さく揺れる。
「いいですか、生活の乱れは体の乱れ。周りの物はいつもきちんと揃えてかつ清潔に。そして規則正しく過ごすことが大切です。それとセシリア様のイアリングですが、どうも左右位置が二五分の一インチ(約一ミリメートル)ずれているようですのでご確認を。おそらく転ばれたときにずれたのでしょう」
そう言い残して部屋の中へ入ってあちこち正し始める。
(細かぁッ!)
セシリアは耳に手をやりながら、唖然としてその様を見つめた。
それにクライドは小さく笑う。
「言っただろう。そなたのようなズボラな女には手に負えぬと。あれは昔から極度の完璧主義者だ。僅かなズレも歪みも許せんタチらしい。綿密な作業をしいられる医者には向いているのかもしれんがな」
「へぇ、そうですか……って誰がズボラですか!」
そうは言いつつ、勝手に部屋を寸分の狂いもないほどビッチリと整えて回るアレックスの姿に、
(これは無理ね。長く一緒にいたら窒息するわ)
と少々散らかっている方が落ち着く派の彼女は悟った。
「陛下」
満足したのか、しばらくしてアレックスがバルコニーへ帰ってきた。その後ろに見える部屋は一見何も変わっていないが、その実、寸分の狂いもバランスの崩れたものもない。
「私はこのあと会議があるのでこれで」と懐中時計をしまいながら言った。
「ああ。ご苦労だった」
「セシリア様、ご安心して私にお任せください。必ずお母様のご病気を治してみせます」
「はい、よろしくお願いします!」
セシリアはスッと立ち上がると、彼に深々と頭を下げた。部屋を勝手に修正されたことはともかく、この人を信じて母親の命を託すしかない。彼ならきっとやってくれると。
クライドは座ったまま、
「アレックス、すまないが外に侍女を待たせてあるから案内を頼んでくれ」
「分かりました」
「え……あの、陛下は?」
少々嫌な予感が頭をよぎりながらも、セシリアはイヤミも込めてそう尋ねた。
「私はここに残る。そなたに色々教え込んでやらんとならんことがあるからな」
「――!」
それと同時に尻を撫でられ、とっさに文句を言おうとした。
だがどす黒いオーラと鋭い光を宿したクライドに、セシリアはゾッと肌があわ立つのを感じ、ゆっくりと開きかけた口を閉じた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「全く、余と結婚する身でありながら他の男に色目を使うとは。一体どのような神経をしているんだ」
ベッドに腰掛けてシャツのボタンを留めながら、クライドは呆れたように息を吐いた。
「す、すみませんでじた……私の愛する世界で一番ステキな陛下様」
セシリアはシーツに包まりながら、活力を失ったかのようにぐったりと横たわっていた。
”色目を使って”などいつもなら即刻抗議に出るところが、夜通し”教え込まれた”今では、もう食ってかかる余裕などない。
そんなセシリアを満足げに横目で見つめながら、
「これからアレックスと連絡を取るときには手紙を使え。きっちりとした字で書かんと、訂正付きで返ってくるぞ」
冗談とも本気ともつかない言葉。
(手紙……?)とセシリアは思った。
「ですが私、便箋と封筒がありません」
それにクライドは怪訝な顔をする。
「そんなもの配達員が持っているのではないのか」
あなたを好きな女たちの嫌がらせで回ってこないんです、と言ってやろうかと思ったが、告げ口は彼女のポリシーに反する。やるならあくまでも直接対決がモットーだった。
何人だろうとまとめてかかって来るがいいわ、と鼻息を荒くした。
「まあよい、用意してやろう」
「本当ですか!?」
これで母親やドリーたちに手紙が書けるわ、とセシリアはホッと胸をなで下ろした。
「今すぐにそのシーツを取って余に肌を見せればな」
(やっぱりタダじゃだめなのねッ!)
「余は優しいから、手で隠すのは許してやる。ほら、早くしろ」
期待した自分がバカだった、いや、やっぱりバカはこの王だとセシリアは思った。
(覚えていなさい!)
セシリアはイヤイヤ体を起こしながら、もう何度目か分からない心内宣戦布告をした。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
セシリアの部屋から現れたクライドを、遠くからうっとりとした表情で見つめるものがあった。
――「医者を用意してやったお礼のキスぐらいしたらどうなんだ、セシリア」
――「も、もう十分……わ、わかりました! ……これでいいですか」
――「短い」
――「あ、ちょっとんんっ……」
深い口づけを交わす二人……いや、セシリアを見据える彼女の目には、どす黒い憎悪が渦巻いていた。