第五話:母の思い
「もう一週間ですね、奥様」
メイドのドリーは、温かな飲み物をベッドに座る貴婦人に手渡した。窓の外は夜の帳が降りていた。風が穏やかに木々を撫でる。
貴婦人はとても上品な面立ちをしていたが、その茶色い髪に艶はなく、青い瞳も疲れたように覇気がなかった。時おり出る咳に体を曲げ、ドリーは優しく背中を撫でた。
「ありがとう、ドリー」
「いえ」
「私もヒドイ母親だわ。あの子は王宮に行きたくなかったでしょうに……」
マイラ・アディソンは、セシリアの母親だった。
夫が亡くなってからは貯金を崩すだけの生活。いや、それどころではない。借金の形にとロココ調の美しい家具や趣味で集めていた絵画、宝石や衣類、全て取られていった。
思い出のたくさんつまった白い家はかろうじて残ってはいるが、ジョー・ド・レコンドの城館を手がけた造園家、アルバン・キュアールの作った自慢の庭は荒れ始めている。
使用人たちにもまともに給与が払えず、それでも長年使えてくれた執事とシェフ、そしてセシリアと仲のよかったこのドリーだけは残ってくれた。
他の使用人たちも給与は少なくてもいいと残りたがったが、それぞれの生活があるのだからとマイラが許さなかった。
皆、この家や家族を愛していたのである。そしてマイラたちも、使用人たちを大切にしていた。それが壊れてしまったのは、ここにいた誰にとっても悲しいものだった。
「奥様。奥様はセシリア様のために、後宮入りのお話を受諾されたのでありましょう?」
莫大な借金のあるアディソン家の娘をもらおうとする貴族などいなかった。お金があったころは、あんなにも仲睦まじかったというのに。クモの子を散らすように人々は去っていった。
このままではセシリアはどうなってしまうのかと、マイラは病気の自分の体よりも、母親として娘の身を案じていた。衣食住のことだけではない。下手をすれば、借金返済のためにと愛するセシリアがどこか汚い男たちの手に渡る可能性もあったのだ。
そんなことは絶対に避けなければ。
そこへたまたま後宮へ上がる話が舞い込んできた。後宮へ行くのに財政の条件はない。家名に助けられたと神と同時に感謝した。
もちろん、冷酷と聞く王の元へ行かせるのは気が進むものではない。
だがこの強大な国の後宮は規模が大きく、六百人もの娘たちがいると聞いていた。その中でどうかひっそりと身を潜めてくれていればと願っていたのだ。
後宮帰りとあらば箔もつく。そうなれば、お嫁にと拾ってくれる人もいるだろう。
それに後宮なら、食べ物や着る物に困ることはない。何より借金取りたちの手が届かない。
精一杯の親心だった。ある種の賭けではあるが。
「でも、あの子は曲者ですからね」
そこで初めてマイラは、キラキラとした表情になった。娘のことを思い出しているからだろう。
「なぜかいつも言われたことと反対の方へ進んでいく。お上品にと言えばドロだらけで帰ってくるし、イタズラを止めなさいといえばもっと凝ったイタズラをする。お妃になってと言えば、今頃はきっとそうならないような方法を必死に考えているでしょうね」
「ふふ、確かにそうです」
さすがに母親だけあって、マイラは見事にセシリアのするであろうことを見抜いていた。
マイラは窓の外を望んだ。
(セシリア。数年の間だけ、どうか……)
「心配ありませんわ。セシリア様なら、きっと上手くやっていけます」
ドリーもセシリアの性格なら、妃にならずにこの方を助けようとするだろうと考えていた。
「ええ、そうね……」
そうだと信じたかった。
そこでコンコンと扉を叩く音がした。
◇◇◇◇◇◇◇◇
「へっくし!」
「そなた……何をする」
クライドは浴びせかけられたくしゃみに、頬をヒクつかせた。
セシリアはベッドの上でシーツに包まり、強引にキスをされてた。
その途中に突然感じたむず痒さを我慢できなかったのだ。
唾がかかってしまったのか、クライドは不快そうに顔をぬぐった。
「わ、わざとではありません」と鼻をこする。
確かに嫌われるための作戦は練っているが、こんな下品な嫌われ方は自尊心が傷つく。
「わざとでたまるか」
怒っているのか呆れているのかは分からない。とりあえず処刑はされないようでホッとする。
あれから一週間。マイラの予想通り、セシリアは何とか王妃にならずに済む方法を考えていた。そのために嫌われようと奮闘しているが、クライドは一枚も二枚も上を行く。
今日も仕掛けていた水入りバケツや、ある地点だけ目一杯かけたワックスがまんまとかわされた。
いや、ワックスは自分が引っかかり、ツルツル滑ってどうにも逃れられなくなったところを”抱いてください”と言う代わりに助けてもらったのだ。
”もっと色っぽく”や”心が入っていない”などと何度もやり直しを言い渡された。二十三回目でやっと助けてもらった後ベッドに押し倒され、最中も何度それを蒸し返されたか。
セシリアの人生の汚点ワーストスリー内にもれなくランクインされた。
初日のあの日から、クライドは毎晩欠かさず部屋へ来ていた。
いっそのこと抱くだけ抱いてさっさと帰ってくれればいいものを、セシリアをわざと苛立たせるようなことを言わなければ気がすまないらしい。そしてその反応を見ては、またあの不敵な笑みを浮かべるのだ。
子供云々は建前で、むしろそちらがメインで来ているのではないかとセシリアは思った。
身体だけでなく、心までクライドに弄ばれる。
(恐るべし、オモチャの宿命……)
「いつだ」
突然の問いかけに、考え事がそこで途切れた。
「え? 何がです?」
その答えに、クライドは心底恨めしそうな眼を向ける。
「結婚式に決まっているだろう。プロポーズをしたのだから」
――『これからも存分に余を楽しませろ。王妃道の贈り物よ』
クライドはそう言った。
だが”王妃道の贈り物”がお妃を示すとは知らないセシリアは、それがプロポーズだったとは気づかなかった。
いつそんな言葉があったのかと記憶の糸をたどる。
(プロポーズ……?)
そこでアッと思い出す。
――『そなたに余の子を孕ませてやる』
(ってあれ!? 嘘でしょう、王様のくせに何てお下品なプロポーズかしら!!)
信じられないとため息をついた。
「なぜ没落貴族の私を妃に? 王族のべレスフォード家やアッカーソン家からお選びになればいかがです」
べレスフォード家はクライドの母方の血筋にあたり、売れない画家や音楽家のために多くのサロンを開くような芸術をこよなく愛する一族だった。このサロンから今も活躍するピアニストやデザイナーが数多く輩出されている。
対するアッカーソンは彼の叔母の嫁ぎ先だった。こちらも芸術を愛するが、どちらかといえば海外から価値のある品を集め、コレクションするのを好んでいた。特に最近では東洋の美術品に興味を抱いているらしく、一般向けにもよく展覧会を開催している。
どちらもセシリアのアディソン家とは違い、財界や政界に多大なる影響を及ぼす力を持つ伝統ある名家だった。
「血は遠いほうがいいのだ。余のように美しい顔を持っているなら不器量を、余のように優秀なら低脳を」
「く……ッ!」
他人を不器量やら低脳やら。やっぱりろくでもない人間だとセシリアは歯噛みした。
こんな男が夫ではたまらない。おそらく自分を一生オモチャにする気だろうと思った。
(ん? ……そっか)
だがそこでセシリアはピンとひらめいた。
(これできっとお妃にならずにすむわ!)
小さく笑うセシリアを、クライドは気味が悪そうに見つめていた。
◇◇◇◇◇◇◇◇
「どうぞ?」
「失礼いたします」
マイラの返事の後、そう言って部屋に入ってきたのは執事のアルバートだった。眉毛が長く、ひげを蓄えているために表情はよく分からない。
彼は若い頃からアディソン家に仕え、もう半世紀になる。父親もまた、ここの執事をやっていた。給与は新人の頃よりも安くなっていたが、思い入れの強いこの家に死ぬまで仕えられるのなら彼には十分だった。
「どうかしたの、アルバート」
「ええ、実はお客様が……」
それにマイラは首を傾げつつ、「では、お通しして」と身なりを整える。
執事を始めた頃からそうしていたように、おろしたての白い手袋をしたアルバートは客人を丁寧に室内へと案内した。
入ってきた若い男は左手に大きな黒いカバンを持ち、右腕にきちんと折った白衣をかけていた。濃い栗色の髪に、透き通った淡いブラウンの瞳をもつ、”美しい”との形容がとても相応しい青年だった。
「初めまして。医者のアレックス・ヘンリー・べレスフォードと申します。国外にいたため、こちらへ参るのが遅くなりました」
落ち着いた声。優しそうな笑顔を湛えていた。
「お医者様……、”べレスフォード”?」
医者と言う単語と王族を示す姓に、マイラもドリーも息を呑んで顔を見合わせた。