第十四話:セシリア禁断の恋 (後)
「んーっ」
柔らかい毛玉に顔をくすぐられた気がして、セシリアは目を覚ます。
一晩過ごした洞窟の中には、さんさんと朝日が差し込んでいた。
掛かっていた上着を取ってゆっくりと体を起こす。堅い石の上で眠ったせいか、体の節々が痛い。
すでに起きていたのか、それともずっと起きていたのか。ライデックは洞窟の入り口に座って荷物をまとめていた。
【おはよう】
「おはようございます」
こちらを振り返ったライデックの口の動きを読んで、セシリアはそう返した。
妙な咳払いをする彼に、セシリアはドレスが微妙に肌蹴ているのに気づき、慌てて直す。
「すみません」
それにライデックは小さく笑った。
ライデックはセシリアのそばに来ると、彼女の掌に文字をつづっていく。
口のきけない彼とのこのやりとりは、妙にセシリアの心をくすぐった。
自分たちだけの世界があふれている気がして。
【下山しながら、通りがかった馬車に乗せてもらおう。もちろん、奴らには見つからないように注意して】
「はい」
【そばに水がわき出ているところがあるから、顔を洗ってくるといい】
そう言って口づけを落とす彼に、セシリアは胸の高鳴りを感じ、頬を赤く染めた。
(何て優しい人……)
城ではさんざんな目に遭った。久しぶりに帰郷してもこのざま。
だが彼に出会ったことで、今までの心の傷がいやされていくような気がしていた。
(でも……)
セシリアは嫌な気持ちを振り払うかのように、冷水で顔を洗った。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
ウィルたちは未だセシリアたちを探しているらしい。所々から、妙なうめき声のようなものが聞こえる。
息をひそめてそれらを避け、そばを通った馬車の荷台に二人で飛び乗った。
【もう大丈夫だ】
セシリアもホッとして息を吐く。
【この積荷の送り先をみると、どうやら町の方へ行くらしい。運が良かった】
ライデックは自分の荷物を置いて微笑んだ。
町へ戻る。
あれだけの目に遭った後なのだから、それはとても嬉しいことのはず。家族とて心配しているだろう。
だが、妙に胸が痛い。
「町に着いたら、ライデック様はどうなさるおつもりですか。また、旅に……?」
それに彼はじっと押し黙る。やがて彼女の手を取り、
【本当は、私と一緒に来てほしい。だが……私は一人で行かなくてはいけない】
「……そう、ですか」
自分の立場をわきまえなければならないのは、セシリアとて同じ。
もし彼が一緒に来てくれと言ってくれても、それに応えることなどできない。彼女がいなくなれば、アディソン家は、母や使用人たちは確実に路頭に迷うことになるのだから。
このまま別々の道へ。それ以外になかった。
わかっていたことのはずだった。
【この短いひと時の間でも、私のことを愛してくれていたか?】
これほど悲しい問いがあっただろうか、とセシリアは涙をこぼしそうになった。
「……はい。とても」
見つめ合って微笑み口づけようとした瞬間、馬車が大きく揺れて、固定されていなかった荷物が崩れた。頭上に降り注いでくる木箱に、セシリアは息をのんで目をつむる。
「――!」
大きな音がしたが、セシリアに痛みはない。どうやらライデックが覆いかぶさるようにして庇ってくれたらしい。
「だ、大丈夫ですか! ありがとうご――」
ハラリと包帯が取れた。
その下から現れた顔に目をむく。
サファイアブルーの瞳、はちみつ色の美しい髪の男は――
「へ……陛下!」
クライドはほどけた包帯を引っ張りながら、やれやれと体を起こす。
「そんな……らららら、ライデック様は……あなただったんですか!?」
「見ての通りだ」
よくよく考えてみれば、LYDECはCLYDEを少し並び替えただけの名前。話せないと言ったのも、声でバレるのを防ぐためだったらしい。
確かにあの包帯の下は、セシリアが目をそむけたくなるような真実が隠れていた。
(うそでしょう! 恥ずかしい! 恥ずかしすぎる!!!!)
嫌っていたはずの男相手にも気づかず、胸をときめかせていた数分前の自分を殴って、いや、蹴り飛ばして木につるし上げてやりたくなった。
(愛してるって言っちゃった! 愛してるって言っちゃったあああ!)
『愛してくれていたか』の問いかけに、肯定してしまった事実に軽く混乱する。
キッとクライドを見据えた。
「くっ……私の理想の騎士様を返してください! 初恋だったのに」
「知ったことか。そなたのせいで包帯が取れたのだろう……」
絶対にからかわれると思ったが、そんな様子はない。むしろどこか気まずそうに見えた。
「何をしに来られたんですか。私はあなたと一生会わないつもりで帰郷したんです。顔も見たくありません」
クライドはそれを鼻で笑う。
「そなたは莫迦か。女がたった一人で何ができる。あの家と土地の維持管理費や母親の医療費、それに自分たちの生活費に加えて使用人たちの給与まで面倒みられると本当に思っているのか?」
「何とかします! あなたに頼るくらいなら」
「だからそなたに一体何ができる。余に頼るしか――」
「あなたには頼りません! たとえ……この身を売ってでも……」
本気だ。その力強い双眸が言っている。クライドは視線をそらした。
「……そんなに嫌なら表向きには余の妻としておいて、どこか遠くで別の男とでも暮らせ。一応余の妻という身分にしておけば、そなたの家の面倒を見る理由づけになる。アレックスも好きに使えばいい」
「――!?」
「良かったな。これでそなたの家も安泰、そなたも余の顔を見ずにすむ……。万事解決だ」
クライドはどこか悲しげに顔を伏せた。
だが、その言葉がセシリアの頭の血管をぶち切った。
「何なんですか……」
クライドが顔を上げた。
「だから、これでそなたの気も済むだろうと――」
「何なんですか、勝手に決めて勝手に落ち込んで! 自分一人で決めて私の気持ちは無視ですか? それで償った気にならないでください! ありがたいどころか、こっちは気持ち悪いんですよ!」
「き、気持ち悪いだと? これだけしてやって、何が不満なんだ!」
「“何が不満”? “これだけしてやって”? お金にばっかり逃げてるだけじゃないですか! 面と向かって、素直に一言謝ることも考えられないんですか!?」
「余は国王だ。謝罪などするものではないと教わってきた」
「ならもういいです。さようなら」
それきり二人とも口をつぐんだ。ガタゴトと馬車の走る音だけが響く。
「……謝れば、城に戻ってくるのか」
たっぷり時間をおいて、クライドがそう尋ねた。
「国王は謝らないんでしょう? そんなこと、聞くだけ無駄です」
セシリアはクライドのそばを離れ、小窓のそばにもたれた。クライドはそれを追いかけ、隣に座る。
体を離そうとしても、すぐに距離をつめてくる。
「何ですか?」
「謝れば、戻って来てくれるのか。余の元に……」
「ええ、いいですよ? 謝るのなら」
半ば投げやりに返事する。だがクライドは何度か咳払いすると、真剣な表情でセシリアに向き直った。
「こ、この度は――」
どうやら本気で謝ろうとしているらしいクライドに、セシリアは驚きと戸惑いの入り混じった表情を見せた。
(本当に謝るの? あの腹黒王が……?)
「そなたを信じず、す、す、す……す…………かった」
言い切ったとばかりに、クライドはじっとセシリアを見つめる。
「……。聞こえませーん」
「何? す……かった、と言ってるだろうが!」
「“酢を買った”にしか聞こえませーん」
「す……すまなかったッ!」
おそらく彼の人生の中で、初めて出た単語なのだろう。それは転げ落ちるように口からもれた。
だが気恥ずかしさからか「なぜ国王たる余が……」などとまだブツブツと言っている。
セシリアはやれやれと嘆息した。
「父はよく言っていました。朝起きて朝食ができているのは、料理人を雇っているからじゃなくて、自分より早く起きて作ってくれる人がいるからだって。ベッドのシーツがいつもきれいなのは、使用人を雇っているからじゃなくて、一生懸命きれいにしてくれる人がいるからだって。野菜だって、ドレスだって、自分じゃない誰かが作ってくれているからお金で買える。みんなで支え合ってる。だからどんな大金より一人の人が大切で、大事にしなければいけないんだって」
クライドはじっとセシリアを見つめた。
「傷つけたら謝って、優しさを受けたらお礼を言う。そこには王様だとか貴族とか民とか関係ありません。単純で、だけどとても大事なことです、陛下」
クライドはゆっくりと荷台の天井を見上げた。
「……すまなかった」
まだ改善の余地がありそうな謝罪だが、彼にしては上出来だろうと思った。
(どこまで世間知らずで不器用なのよ……)
セシリアは気持ちを切り替えるように、小さく息を漏らす。
「ところで、どうして私のいるところが分かったんです? あのとき誰も後を追いかけてきている様子なんてなかったのに」
「ああ、そなたらを追いかけようとしたが、途中で見失ったからな。だがどういうわけか、いつもそなたの元へ導いてくれる者が――」
クライドはそう言って、荷物を包んでいた麻袋に手を伸ばした。だがそれはすでに開いていて、中に入っていたものが“いない”。
クライドは少々焦り気味にあたりを見回し、ふと小窓の外に目が行った。町の端を流れるキリー河の支流にかかる橋の欄干に、ちょこんと座る子ぎつねの姿が見えた。それがふいに霧のように消えた。
「まさか」とクライドは息をのむ。
「陛下。だからどうして分かったんです?」
不思議そうな顔をするセシリアをよそに、クライドは全てを悟ったように笑みをこぼした。
「キリー河の導き……かもな」
「何の話です?」
「だから王妃道の贈り物のことだ。あの河を通って、王の心を癒す妃がやってくるとかいう。まあ余はそんな話は信じていないがな」
「王妃道の贈り物……王の心を癒す妃……“妃”?」
――『これからも存分に余を楽しませろ、王妃道の贈り物よ』
「も……も、もしかしてあれがプロポーズだったんですか」
「今更何……まさかあの話を知らなかったのか?」
「ええまあ……なので、は、孕ませてやるのほうかと……」
「呆れたな。どこの未開族のプロポーズだ」
確かに、とセシリアは乾いた笑いをした。
(それじゃあつまり……私がこの人の心を癒してるってこと……?)
町で最近王が穏やかだという話を耳にしたことを思い出した。それが自分のせいなのかもしれないと思うと、今更ならもそれに小っ恥ずかしく思う。
「返事は聞かん。謝罪もしたし、そなたは余のものだ。よその男の元へ行くなら両方殺す。いや、男は殺すが……」
じっとセシリアの瞳を見つめる。
「そなただけは許してやる」
何を勝手な、と言いたかった。だが少し寂しげな顔で口づけてくるクライドに、何も言えなくなった。
「ん……」
クライドはセシリアの口内に舌を差し入れながら、ゆっくり押し倒していく。セシリアは慌ててクライドの胸を押した。
「あの……ちょっと?」
それでも強引に立ち並ぶ木箱の間に押し倒され、セシリアは慌てて体を起こそうとした。
「ちょちょちょ! まさか、こ、こんなところで……!? ダメです!」
「うるさい。何日ぶりだと思っている」
クライドは本気で抑えがきかないのか、いつものからかいも無しに息を荒げて首筋に顔をうずめる。
「や、ちょ……そちらが勝手に部屋に来なくなっただけでしょう?」
ドレスの中に性急に入り込んでくる手を必死にどかせようとするが、しょせんは女の力。簡単に床に押さえつけられ、身動きが取れなくなった。
「そなたのせいだ。アレックスが良かったなどとほざくから。あれ以来か……」
「あっ、ん、ちょっと……こ、後宮に、他にも腐るほど女性がいるでしょう」
「興味ない」
だがここは馬車の中。いつそれが止まって御者が荷物を下ろすかもしれない。だがドレスが引きちぎられそうな勢いで、乱暴に脱がされていく。
「分かりました。分かりましたから、ちょっとだけ待ってください」
「今更無理だ」
「ちょっと、無理って……やあぁっ」
完全にスイッチの入ってしまったらしいクライドに押さえつけられ、抵抗むなしくされるがままに薄暗い馬車の中で翻弄されていった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「全く……あんなところで何回も何回も……。危うく見つかるところだったじゃないですか!」
馬車を下り、クライドに横抱きされながら屋敷に帰っていく。恥ずかしさと怒りをぶつけるように、クライドの胸をどんどんと叩た。
「あの御者、邪魔をしやがって。空気を読んでもっと先まで荷を運べ……!」
だがクライドそんなことに動じるようすもなく、彼は彼で別のことで怒っていた。
「ったく……」
セシリアは馬車でのことに怒りながらも、優しく気遣うように自分を運んでくれるクライドを見上げた。さっきまでの旅人への気持ちと、クライドへの気持ちが一つになりそうでドキッとする。
(違う違う違う! あれはこの人の仮の姿! 全部ウソなのよ!!)と目をつむる。
「どうした、どこか痛むのか?」
彼の中で何が起こっているのか分からないが、そう優しい気遣いを見せられると、どうしていいのかと戸惑いを覚えた。
(何なのよ、急に……)
「あの、なんでこんな恰好でこの町にいらしたんです? お仕事は?」
「そ、そなたが浮気をしないか見張りに来ただけだ……。事実あんな男と町を楽しそうに歩いて」
ウィルと町を歩いていたとき、感じた彼からの殺気は、どうやら嫉妬からくる怒りだったらしい。
だがそんなことで執務をほっぽって来るだろうか。本当に浮気の見張りなら、部下にでもさせればいい。
疑いのまなざしを向けるセシリアに、クライドは視線を泳がせ、そっぽをむいた。
「セシリア! 陛下!」
家の前で待っていた母や使用人たち、アレックスが二人に駆け寄る。警官たちも何人もいたが、クライドの姿に帽子を取って身をこわばらせていた。
「何があったのセシリア……!」
「誘拐に巻き込まれて……心配かけてごめんなさい、お母様」
「無事だったらいいの。でも……こんなに弱って……なんてひどい」
母のマイラはセシリアの頬を包み、ポロポロと涙をこぼした。
「いえ、お母様、脱出した時点では結構元気――」
「オッホン!」
クライドの咳払いに、セシリアは口をつぐんだ。
「陛下! 陛下が助けてくださったのですね……お、お怪我を!?」
クライドの腕に巻かれたハンカチに、マイラは顔を青くした。
「妻と子が無事ならば、この程度のけがなど大したことはありません」
彼らしくない言葉に、セシリアはいぶかしげにクライドを見上げた。いつもの黒いオーラはどこにもなく、キラキラとさわやかな好青年の笑顔で応対している。
(誰、これ)
セシリアのそんな心を読んだかのように、クライドは見えないところをつねる。
「痛っ、陛――」
「陛下……本当に、何とお礼を申し上げればよいのか」
使用人もマイラも、まるでクライドが神か何かのようなキラキラとした瞳で見つめていた。
「義母上、それにアディソン家の家従たちも安心するといい。もう心配ない」
それに皆は「ああ、何と頼りになるすばらしいお方!」「セシリア様は良い方に嫁いだ」と口々にクライドを褒め称えた。
そのある種おぞましい光景を、セシリアは冷えた目で見つめる。
(ああそう、お母様たちの前ではあの旅人バージョンなわけね!?)
どうりで家の者たちがクライドのことを信じて疑わないわけだと合点がいった。彼女自身ですら、その優しさに恋までしてしまったのだから。
「陛下、あとで傷口を見せてください」とアレックス。
「ああ」
アレックスはセシリアをチラッと見ると、
「良かったですね」とは声を潜めた。
「アレックス様、良かったとは?」
「いえ、もうセシリア様に会いたくて会いたくて、仕事が手につかないとおっしゃられていたものですから」
「え?」
「セシリア様がご病気の時なんて心配すぎて泣いて――」
「ア、アレックス!」
頬を真っ赤にそめて、クライドは声を上げた。
「陛下……もしかして私にこっそり会うためにそんな恰好で……?」
「笑ったら落とす」
どすの利いた声に、慌てて顔をこわばらせた。
だが、
――『この短いひと時の間でも、私のことを愛してくれていたか?』
あれはライデックを演じるための言葉だったのではなく、クライドの願望だったのではないか。セシリアはそんな気がした。
(だ、だからって何ってことでもないけど……)
そう思いながらも、しっかりとクライドの首にしがみついた。