第十二話:久々の再会
「よろしいんですか? 陛下」
アレックスは、腕を組み壁にもたれながら窓の外をのぞむクライドに声をかけた。
その視線の先には、乗船しようと桟橋を渡るセシリアの姿がある。
「このままセシリア様を行かせて」
あれから数日後。クライドはセシリアの願いを受け入れ、家へ帰すことに決めた。彼女は一度も振り返ることもなく、城を去っていく。
クライドは、その後姿を寂しげに見つめていた。彼が森の中で拾ってきた子ぎつねも、クライドの足元に絡みつきながらどこかしんみりとして見える。
「よろしいわけがないだろう」
彼の瞳には、深い憂いがあった。あれだけ美しかったサファイアブルーの瞳が、今は光を失っている。
「なら陛下、今からでも――」
「今のセシリアに何をどう言っても無駄だ。あれは余に失望していた」
「それで。彼女を諦めなさると?」
アレックスの問いに、クライドは体を震わせた。
泣いている……のではない。
端整なその顔には、セシリアが悪魔と称す笑みが浮かんでいた。
アレックスはやはりそうかとでも言いたげにため息をつく。
「このまま、みすみす逃がしてたまるか……セシリア」
遠ざかっていく船をつかむかのように、クライドはこぶしを握った。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
久しぶりの故郷に、セシリアは馬車の外をのぞきながら胸を躍らせていた。この道、この風景。
それほど長い間離れていたわけではないのに、やけに懐かしい気がする。
「セシリア様!」
馬車を下りると、屋敷の玄関前で待っていたらしいメイドのドリーと執事のアルバートが出迎えた。目を潤ませて駆け寄ってくるドリーに、セシリアも両手を広げて抱きしめる。
「ドリー! アルバートも」
本当に帰ってきたのだ。セシリアは今までの城であったことが、まるで一晩だけの悪い夢であったように感じた。
(ここでまたみんなと穏やかに暮らせるんだわ!)
平凡だった日々を愛おしく思う。
ドリーはセシリアから体を離し、表情を曇らせた。
「お聞きしましたわ。本当に、なんと申し上げていいか」
後宮に上がったものの、すぐに家に帰されたとあらば、世間からあらぬ疑いをかけられるだろうとセシリアは覚悟していた。
(でも、この家もお母様も。私一人で守るって決めたんだから)
全て一人で背負いこんででも。そう思ってクライドに帰郷を申し出たのだ。
何があろうとも、腹は決めている。
「ドリー、心配しないで。私がなんとしてでも――」
「ご懐妊だそうですわね!」
ドリーの輝く笑顔に、セシリアの思考回路が停止する。
「……え?」
「一時はどうなるかと毎日不安でしたのに、もう、みんな本当に嬉しくて!」
後ろを振り返るドリーの視線を追うと、執事のアルバートもハンカチで目を拭っている。
ドリーは顔を曇らせたのではなく、どうやら感激して涙を浮かべているだけらしい。それも訳の分からない理由で。
「ちょっと待って。え? 何の話……」
妊娠など寝耳に水。混乱する頭を、何とか正常に戻そうと試みる。
「もう本当に屋敷中が沸き立ちましたわ。昨日なんてちょっとしたパーティーも開きましたのよ! ご出産までゆっくり静養なさってくださいね」
「ままま、待って。違うの、ドリー。私は静養に来たんじゃなくって――」
「ささ、お嬢様。お体にさわりますから」
アルバートまでもが話を遮り、いたわるように背中を押して屋敷内へ案内する。
(ななな、なにこれ! どうなってるの!?)
事情を呑み込めないまま、ふらふらと玄関を入る。さっきまでの感動は完全に凍結し、もはや夢うつつの区別すら曖昧だった。
「セシリア様、ほら! お城からもこんなにベビーグッズが」
玄関に山盛り積まれた玩具や英才グッズに、セシリアは徐々に事の発端を悟り始めていた。
(まさか)
思い浮かぶのはあの男の顔。すべてはクライドが仕組んだことに違いない。
(あの王め……っ!)
まるで不敵な笑みを浮かべるクライドに、崖から蹴落とされるかのような錯覚に陥った。
「奥様もセシリア様と赤ちゃんの帰りを心待ちにされておられますわ。私も勝手ながら、おばになったかのように感じております」
くすぐったそうな笑みを浮かべるドリーに、セシリアは顔を真っ青にした。
「お……お母様まで」
母親の休んでいる部屋に足を踏み入れるのが、これほど恐ろしいと思ったことなどなかった。
いったい何と言って説明すればいいのか。そんなことがグルグルと頭の中を回っている。
「セシリア!」
セシリアの姿を見ると、母のマイラはベッドから下りて強く抱きしめた。
その行動に驚く。
「お母様、お体はよろしいのですか!?」
いつも病床にふせがちだった母が、自ら出迎えてくれるなんてとセシリアは瞠目する。
「ええ。孫が生まれるんですから、寝てばっかりもいられないでしょう? 見て? 毛糸の帽子と靴下を編んだの。冬は冷えるものね。性別が分からないから、イエローにしてみたんだけど、どうかしら」
今まで見たこともない母親の明るい表情に、セシリアは声を詰まらせる。
激しい頭痛を覚えてこめかみを押さえた。
(でも早いうちに言っておかないと、あとでもっと取り返しがつかない事態になるわよね……)
「お母様、ドリー、聞いて」と神妙な面持ちで二人に向き直る。「妊娠なんてしてません。本当に全部でたらめなの」
期待を裏切ってごめんなさいと深く謝罪しながら、セシリアはそう言い切った。
その場にいたドリーとマイラは顔を見合わせ、悲痛な面持ちで顔を伏せる。
「二人とも、せっかく楽しみにしてくれてたのに。ごめんなさい。でも、これが真――」
「セシリア」
マイラは眉をひそめ、セシリアの頬に掌を当てた。
「確かに出産に対する恐怖や不安はあるとは思うわ。でも大丈夫。陛下がきっと支えてくださるわ。それに私たちも。ね、ドリー?」
「ええ。あれだけセシリア様の身を案じておられるんですもの。陛下をずっと冷たくて残酷な方だと思っていた自分を心から恥ずかしく思いますわ」
二人はセシリアが妊娠していると信じ込み、彼女の話に耳を傾ける様子がない。
それどころかあれだけ印象の悪かったクライドへの印象が一変している。
(ちょっと待ってちょっと待って! どうしてそうなるわけ!?)
ドリーが歩み寄る。
「事情は分かっていますわ。初めてのことにセシリア様がひどく戸惑って、ご懐妊を認めようとなさらないと陛下からのお手紙に。それで今回の生家での静養を許可されたと。はあ、寛大なお方だわ」
(どこまで先手を打ってるのよ!!!)
とんでもない作り話に、セシリアは二の句が継げなくなった。確かに城へ行った初日から、毎日のように行為を迫られてはいた。だが、そう簡単に子供ができれば誰も苦労はない。
時々あった検査でも、ずっと陰性反応だったのだ。
「ここでゆっくりなさったら、きっとセシリア様もお子様の誕生が待ち遠しくなられますわ。ね? 赤ちゃん」
ドリーはセシリアの空っぽのお腹に優しく触れる。
「はは……ははははは」
説得しようとは思う。だが口から洩れるのは乾いた笑いのみだった。城から逃げてきたはずが、そう思っていたのは本人だけで、どうやら首輪に鎖までついていたらしい。
もちろん、その鎖を握っているのはあの憎らしい男。
「でも気を付けるのよ、セシリア」
マイラは不安げに影をおとす。
「気を付けるって……?」
「最近、妙な男たちが若い女性をさらう事件が多発しているそうですの」とドリーが付け加えた。
「誘拐ってこと?」
平和だったはずの故郷が、そんな物騒なことになっているとは。
「セシリア、お腹の赤ちゃんのためにも絶対に一人で屋敷の外へ出るんじゃありませんよ」
「は……はい」
母に強く釘をさされ、セシリアはぎこちなくうなずいた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「どうしてすぐバレるような嘘をつくのかしら!」
離れてもクライドの掌で弄ばれている事実に、セシリアは歯噛みした。
「そもそもあの人の身から出た錆なのに、まだ私を離さないつもり? どこまで腹黒なのよ、あの王は!!」
屋敷裏にある池のほとりから、思い切り石を投げ込んだ。石は小さな水しぶきを上げて沈む。
「セシリア」
お腹にさわると言って怒られるかと、セシリアはビクリとした。
「ウィル」
だが振り返った先にいたのは家の者ではなく、以前一族ぐるみで付き合いのあった幼馴染の青年、ウィルだった。
身長は高いが体型はやけに細い。体が弱いせいか、それとも読書好きでめったに外に出ないせいか、肌の色も白いを通り越して幽霊のように青白い。
少し伸びた髪で目元を隠していることもあって、いつもどこかどんよりとしたオーラをまとっている青年だった。
「久しぶりね! 元気だった?」
セシリアのアディソン家が衰退してからというもの、彼らの周りから次々と人が消えていった。所詮はお金や権力目当ての付き合いだったらしく、ウィルのブラックストン家もその中の一つ。
しかしウィルだけはしょっちゅうアディソン家に顔を出し、変わらぬ付き合いを続けていた。それをセシリアも喜び、損得勘定抜きの、数少ない本当の友人だと思っていた。
「うん。おば様のお見舞いに来てたんだ。セシリア、あの……赤ちゃんが生まれるんだってね。おめでとう……」
(やめてお母様ー! あの腹黒王のホラ話を拡散しないで!)
「どうかしたのかい?」
頭を抱えて左右に振るセシリアにウィルは首をかしげる。
「いえ……別に」
「そう。でもよかったね。競売で他人の手に渡ったこの屋敷も、きっと陛下が買い戻してくれるよ」
「え?」
セシリアはそれに息をのんだ。
(この家が……他人の手に!?)
ハッとして屋敷を見上げる。我が家に戻ってきたと思っていたのに、そこはすでに別人の家だった。家の者も母も、セシリアに気を使って黙っていたのだろう。
「そんな……」
「もしかして知らなかったの? ごめん」
ショックを隠せないセシリアの反応に、ウィルは言ってはいけないことを言ってしまったのだと、即座に謝罪した。
「でも大丈夫だよ、お優しい陛下がきっと――」
「いいえ。私、本当は王から逃れたいの!」
クライドなら屋敷の一軒や二軒、自身のポケットマネーで簡単に買えるだろう。だがそんなことまでクライドに処理してもらえば、自分は確実に逃れられなくなる。
セシリアは何とか信じてもらえるように慎重に言葉を選びながら、今までのことをかいつまんでウィルに説明し始めた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「ひどい話だ。おば様の命を盾に君を手中に収めようとするなんて!」
セシリアの話に納得してくれたのか、ウィルは憤ったように顔を赤らめた。彼がここまで感情を露わにしているところを、セシリアも初めて目にする。
「どうして僕に言ってくれなかったんだよ……僕ならきっと君の力になれた!」
「友達のあなたに負担をかけるなんてできないわ」
そう言ってまた池に石を投げ込む。
「今度こそ僕が君を助けてやる。君が陛下から逃れたいというのなら、僕が全力で逃がしてあげるよ」
「何言ってるの? 相手は善良な市民さえ躊躇なく処刑するような王なのよ。国中を敵に回すようなものじゃない」
ウィルはグッとセシリアの両肩をつかんだ。
「と、友達である君のためなら、僕は何だってできる!」
いつもどこか覇気のないウィルの目が、このときばかりはランランと輝いていた。
「ウィル……」
その時、カサッと音がして振り返る。一瞬、何か影のようなものが見えた気がした。
「今、誰かいた?」
「え? さあ? とにかくセシリア、僕が何とかしてあげるからね! 僕を信じて!」
意気込むウィルに、セシリアは笑顔でうなずいた。