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第十話:クライドの怒り

               

「ごっほごほごほ! あー……もうだめ」


 セシリアは頭のふらつきと喉の痛みを覚え、ベッドに横たわった。多少熱もあるようで、額に当てた掌がジンワリ熱い。


「陛下に会ってからろくなことがないわ」


 ここに来てからというもの、クライドに心も体も弄ばれ、挙句の果てには郵便配達の少女に物を盗まれるなどという散々な日々が続いている。


――『陛下ではなくアレックス様ならよかったのに』


 だがそう言ってクライドを酷く怒らせた時のことを思い出すと、内心穏やかではいられなかった。少し傷ついていたようにも見えた。


「どうしろっていうの」


 謝るという選択肢はもちろんセシリアの頭に浮かんだ。だが日頃あれだけバカにしてくる男に対して、素直にそうする気など起きない。


(それにそもそも、私はあの人に嫌われようとしてたじゃない)


 願ったりかなったり。

 そう思いたいのに、あれ以来現れないクライドが気にならないといえば嘘だった。


(分かりましたよ、私が謝ればいいんでしょう?)


「呼んでいるのが聞こえんのか」


 セシリアは肩をビクリと上げた。扉の前にクライドが腕を組んで佇んでいる。


「へ、陛下……! いつからそこにいらしたんですか?」

「ここまでバカにされたのは生まれて初めてだ」

「はい?」


 声の調子があまりにも静かだった。一挙手一投足に、どこか怒りを感じる。

 かみ合わない会話に首を傾げつつ、こちらに近づいてくるクライドの顔色をうかがった。先日怒って帰ったのだからいつもの様子でないのは想定済みだが、もっと奥の深い怒りを抱いているように見えた。

 

 クライドはセシリアの脇を通りぬけて背中を見せた。


「アレックスをお前の母親の主治医から外した」

「え……」


 セシリアの双眸がゆっくりと見開かれる。

 振り返ったクライドの表情には、いつものようなからかいはなかった。


「なぜです……なぜそんなことを!」とクライドに詰め寄る。

「そなたが悪いのだろう」


 クライドはそう言って彼女の足元へ手紙を投げつけた。

 クライドの目を睨みつけるように見すえ、セシリアはかがんでそれを拾い上げた。

 便箋に踊る文字を見て口を開ける。言葉を発しようにも何も出てこない。


「こんな手紙知りません!」


 やっとのことでそう言った。


「ではあの郵便配達員の女が持っていたそなたの品物の数々は何だ。口封じにやったくせに」

「あれは全て彼女に盗られたんです!」


 クライドは額に手をやり、頭を振りながら鼻で笑った。


「盗られただと? 見え透いた嘘を」

「確かにおかしいと思われるでしょうけれど、あの子は本当に普通じゃないんです!」

「余の目の前で、真実を告白して泣き崩れた女が普通ではないと」

「陛下、あなたはロゼと私。どちらを信じるのですか」


 どこかすがるような思いだった。

 “自分が本当のことを言っているのだ”と証明する術を知らない。

 あれほど数々の品物を、犯人を知りながら黙って盗まれていたなど、普通は信じないだろう。

 香水の件も“使い切った”ということにしていたのだ。なのに今更盗まれたと言っても……。


 だが夜まで共にしてきた自分と一介の郵便配達員たる彼女の言葉となら……どれだけ不利な状況下だろうと、自分を選び、信じてくれてもいいだろうとセシリアは思っていた。


 だが、クライドはあくまで冷徹な眼差しを引き下げようとはしない。


「そなたを信じようとした余が愚かであった」


 その一言で、セシリアは何かが抜け落ちてしまったような感覚を覚えた。どこか諦めに似たような。

 言い返す気力もない。


 クライドが黙って部屋を出て行くと、セシリアは傍のソファーに腰を下ろした。

 正直なところ、クライドにどう思われようとどうでもいい。ただ――


「お母様……」


 セシリアは両手で顔を覆い、肩を震わせた。

 医者を外されたとなれば、母はまた病気で苦しむことになる。もしかしたら治りかけていたかもしれないというのに。

 どれだけ屈辱的であろうと、彼に“信じてください”とすがればよかったのだろうか。


「なんて、私がおいおい泣いているだけの女だと思ったら大間違いですからね!」


 どうやら彼女は涙ではなく怒りに打ち震えていたらしい。体の不調も忘れて鬼の形相で立ち上がった。


「もう嫌! こんな腹黒たちの巣窟、抜け出してやるわ!」


 寝室の扉を開け、大きな風呂敷に服やら宝石やらを包んで荷造りを始める。カバンが欲しいところだが、生憎パーティー用の小さなものしかない。

 だがこれも前々から立てていた脱出計画の一部だった。大きなカバンを用意して怪しまれても困る。

 元々嫁入り道具らしい道具も持ってきていなかったため、すんなりと荷を包み終えることができた。

 それを小脇にか抱え、クライドに貶された地図を手に決意に満ちた表情で立ち上がる。


「お母様、お医者様の件は、私がきっとなんとかしますから」

「ねえ」


 それにセシリアは再びビクリとした。

 どうやら荷造りに夢中で注意散漫になっていたらしい。

 現れたロゼの姿に、セシリアは警戒するように包みを握りしめた。


「どの顔を下げて私に会いに来たの? 陛下に嘘までついて」

「嘘って?」


 ロゼはまだ何か持っていこうというのか、セシリアの部屋を物色するように見渡す。


「あの手紙、あなたが私の字をまねて書いたんでしょう? ロゼあなたって本当に……」

「私、後宮へ入ることになったの」

 

 可愛らしいガラスキャビネットの中にあった置時計に目を止め、それを手に取りながらロゼはそう言った。


「はい??」

「それでね、目標を達成しちゃってからハッと我に返っちゃって。ああ私、あなたになんてヒドイことしたんだろうって」


 後宮入りが決まったからなのか、どこか上品なそぶりでセシリアに向き直ると小さく肩をすくめる。


「何を企んでいるの」


 彼女が改心などするはずがない。セシリアはそう思っていた。置時計とて、しっかりと彼女のカバンの中へしまわれているのだから。

 ロゼはおかしそうに笑う。


「まあ確かに私のためといえばそうね。結婚と言うことになれば、神の前で誓い合うことになるもの。罪を背負ったままっていうのもね」


 ロゼは鏡に映った自分自身に笑いかけ、髪をなおして振り返る。


「だからこれはせめてもの償い。あなた、ここから出て行きたかったんでしょう? 私がその手配をしてあげたわ。川を下って帰るための船もね。お城の裏手からなら誰にも見つからずにここを出ることができるわ。これであなたは家に帰れるし、私は罪の償いができる。一石二鳥じゃない」


(本音は私が目障りで追い出したいわけね)とセシリアは直感的に思った。


「悪いけど、あなたの手は借りないわ」と扉へ向かう。

「ここへ来て以来、後宮から出たことがないくせに、どうやって外へ出る気?」


 それに足を止めた。

 ロゼは地図の書かれたメモを差し出してくる。


「受け取って? 心配いらないわ。私はもう欲しいものを手に入れたんだから。ね、セシリア様」

 

 さんざん悩んだ挙句、セシリアはそのメモを受け取ると、後ろを振り返ることなく足早に部屋を出て行った。


「さようなら、セシリア様」


 窓の外は、黒く分厚い雲が天空を覆っていた。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


「北? 北ってどっちなの?」


 セシリアはメモに書かれた地図をクルクルと回しながら、目標地点へと向かっていた。

 額にポタリと雫が落ちてきたのをきっかけに、ゆっくりと雨が降り出す。

 だが今更引き返すことはできなかった。


「帰るには河の方へ行かなきゃいけないんじゃなかった? 山の中に入ってる気がするんだけど」


 方向はよく分からないが、ランドマークを頼りに間違えることなく進んできたはずだ。天候のせいで人々はどこか慌しく、それに乗じてすんなり脱出できた。

 だがどんどんと人気のない森の中へと入り込んでいる。確か彼女は城の裏手から逃げられるといっていたはずだが、どこだというのだろう。

 整備された道はとうになくなり、獣道のような足場の悪いドロ道を歩いていた。


「ここはどこ……」


 強い雨のせいで右も左も分からない。周囲は高い木々が空を覆うように茂っていて、最早城の方向すら分からなくなっていた。


 雨あしが徐々に強くなってくる。忘れていた体調不良が、いまはっきりと彼女に異変を訴えかけていた。苦しいのに呼吸がうまくできない、体は震えるほどに寒く、頭は割れるように痛かった。

 おまけにヒドイ耳鳴りがして、ザーザーぶりの雨音すら遠くに聞こえる。


「い、一旦引き返さなきゃ……」


 カッと雷の閃光が走り、ドォンと空気が震えるような落雷があった。


「きゃ!」


 それに感覚を狂わされたのか、セシリアはドロの中へビシャリと倒れこんだ。

 ぬるぬるとした感覚に手も膝も滑る。


「はあ、はあ……苦しい……もう、だめ……」


 起き上がる気力も、雨宿りをしようということに頭も回らない。とうとう頬を地面にくっつけた。跳ね返った雨水が口の中へ入る。


「お母様、ドリー……みんな……ごめんねっ」


 強気な彼女の流す一筋の涙が、ゆっくりと地面に溶け入った。



◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 クライドは荒れる空をじっと眺めていた。景色を見るためというよりは、ただぼんやり考えごとをしているように見える。

 心ここにあらずという佇まいで、魂の飛んだ瞳でガラスの向こうを見つめていた。


「陛下、あの……何と申し上げればいいのか……ご心痛お察しいたします」


 手紙を届けに来たロゼは、そんなクライドの背におずおずと声をかけた。

 あくまでしおらしく。あくまで被害者なのだといいたげに。


 クライドは大きく息を吐き出すと、振り返って机に両手をバンと叩きつけた。


「もういい!」


 引き出しからセシリアにプレゼントしようと思っていた香水の箱を取り出すと、それを持ってずんずんと部屋を出る。


「へ、陛下! あの、どちらへ」


 まるで存在を無視するようなクライドの後を、ロゼは急いで追いかけた。


「陛下……あの、陛下?」


 背の高いクライドを必死に見上げ、ロゼは自分で“飛び切りいい”と思うような笑顔を作る。


 だがクライドは「手紙なら置いておけ」と足を止める様子はない。


「いえ陛下あの……私はいつ後宮へ?」

「後宮? いつも出入りしているだろう」

「そ、そうではなく」


 ロゼは焦ったように目をしばたかせた。


「だって陛下、私あなたに真実を伝えて、あなたをあの女からお守りしたのですよ? 褒美に後宮に入れてくださったりするのでしょう? ね? あの、陛下?」


 さわがしいロゼにクライドは足を止めた。

 訝しげな表情でロゼを見つめる。


「お前ごときが後宮に入れるわけがないだろう、郵便配達員」

「……え?」


 さも当然のようにそう言われ、名前すらも呼ばれなかった。

 目が落ちそうなほどに丸く開け、ロゼは呆然と立ち尽くしていた。



◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


「セシリア!」


 クライドは扉を蹴破るようにセシリアの部屋へ入った。あたりを見渡して、目的の人物を探す。


「母親にもう一度医者をつけて欲しかったら、今すぐ余の足元にひざまずいてこのたびのことを詫びろ! そして死んでも余だけを愛し続けると誓え! そうすれば手紙のことなど全て忘れて今まで通りにしてやる」


 だがセシリアの姿はどこにもなく、無遠慮にもシャワー室も覗いたが中は空だ。


「セシリア! どこへ行った! おい! 貧乏貴族!」


 寝室の扉を開けて息を呑む。開きっぱなしのクローゼットや引き出し、彼女が持ってきたらしいものが全て姿を消している。


「セシリア……」


 クライドは反射的に窓の外を見上げた。分厚い雲からはバケツをひっくり返したような雨が降り注ぎ、腹に響くような雷が何度も轟いている。

 このあたりは一度嵐になると風や雨や雷が怒り狂ったように入り乱れ、この世の終わりかと思うような天候へ変貌する。ここに来た使用人はまず、嵐が止むまで外には絶対に出るなということを教わるくらいだった。


 妙な胸騒ぎがしたクライドは、来たとき以上の勢いで部屋を出て行った。


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