絶対正義の百面記者
1
その男は百の顔を持つと言われていた。
本名は曖昧だ。新聞社では切れ者の社会部記者、警察内部では情報屋、裏社会では使い走り。政治家の秘書、ホームレス、若手起業家、果ては犯罪組織の会計係にまで化けたことがある。
彼の名は仮に、白石と呼ぼう。
白石は「正義は絶対だ」と信じていた。
それは子どもの頃に父を詐欺で失ったことが理由だった。弱い者から奪う者は、すべて裁かれるべきだ。正義とは悪を暴くこと。彼の信念は単純で、曇りがなかった。
そんな彼が潜入したのは、関東一帯を縄張りとする犯罪組織・辰巳会だった。役割は雑用係。名は偽名の「佐伯」。そこに正義はない。暴力、金、裏切り。それだけが支配している場所だと白石は思っていた。
だが、最初に目にしたのは違った。
組長の辰巳は、毎月決まった額を孤児院に匿名で寄付していた。しかも、返済不能な借金を抱えた老人の帳簿を、そっと破り捨てる姿も見た。
「うちは義理を重んじる。それだけだ」
辰巳はそう言った。白石の中で、小さな違和感が芽生えた。
悪は、悪であるはずなのに。
2
潜入半年。白石は完全に組織の一部になっていた。裏金の流れも、警察との癒着も、敵対勢力との抗争もすべて把握している。
だが同時に、彼は知ってしまった。
辰巳会は、より凶悪な海外シンジケートの流入を防いでいたのだ。
薬物を子どもにまでばらまく連中を、徹底的に排除していた。彼らの縄張りでは、ドラッグの被害が極端に少なかった。
「俺たちは悪だ。だが、無秩序じゃない」
若頭の榊が酒の席でそう言った。
白石は反論できなかった。
警察に情報を流せば、辰巳会は壊滅するだろう。しかし、その隙間にもっと酷い存在が入り込むのではないか。
正義の名のもとに秩序を壊し、より深い混沌を生む。
それは正義なのか?
白石の中で白と黒は混ざり始め、灰色へと変わっていった。
3
ある日、内部抗争が起きた。
若い構成員が裏切り、海外シンジケートと手を結んだのだ。辰巳会内部に薬物を持ち込む計画だった。
辰巳は激怒した。
その若者は捕らえられ、処分が決まった。
白石はその場にいた。
記者として、警察に連絡を入れれば命は救える。だがそれは同時に、組織全体を崩壊させる引き金になる。
若者は震えながら言った。
「俺は金が欲しかっただけだ。正義とか知らねぇ」
榊は静かに答えた。
「正義なんて、誰も言ってねぇ。ただ筋を通せ」
銃声が響いた。
その夜、白石は初めて記事を書かなかった。
自分は何者なのか分からなくなったからだ。
悪を暴く記者か。秩序を守る共犯者か。
百の顔の一枚が、はがれ落ちた。
4
警察の上司から催促が来た。
「もう十分だ。情報を出せ」
白石は迷った。
辰巳は確かに犯罪者だ。恐喝も、違法取引も行っている。だが彼らはこの街の“防波堤”でもあった。
善と悪は線ではなく、濃淡だった。
白石は決断する。
彼は警察に、海外シンジケートの情報だけを流した。
辰巳会の核心は伏せたまま。
数日後、大規模摘発が行われ、海外勢力は一掃された。
辰巳会は生き残った。
榊は白石を見つめた。
「お前、何者だ」
白石は答えなかった。
正義の顔も、裏社会の顔も、どちらも嘘になりつつあったからだ。
5
数年後。
辰巳は病で倒れ、組織は縮小した。街は小さな混乱を経て、別の形の秩序へと移り変わっていった。
白石は新聞社を辞めていた。
彼は今も記録を続けている。
だが記事は出さない。
書いた瞬間、どちらかの正義が消える気がするからだ。
彼は知ってしまった。
正義は刃だ。振るえば誰かを守るが、同時に何かを切り落とす。
百の顔を持つ男は、最後の顔を見つけられないまま生きている。
ある夜、彼は辰巳の墓前に立つ。
「正義って、何だと思いますか」
答えはない。
だが風が吹き、墓前の花がわずかに揺れた。
白石は微笑む。
もしかすると、正義とは“選び続けること”なのかもしれない。
白でも黒でもなく、その都度、誰かの痛みと向き合いながら。
百の顔は、まだ増え続けている。
そして彼は今日も、新しい顔をかぶる。
正義を探すために。




