見えない言葉
第一章 失われた声
私は、「空気が読めない」らしい。
「らしい」というのは、自分ではよく分からないからだ。教室で誰かが黙り込んだ時、私は何か間違ったことを言ったのだと後になって気づく。クラスメイトの表情が曇った瞬間、私の言葉が原因だったのだと、家に帰ってから一人で反芻してようやく理解する。
「お前、空気読めよ」
何度この言葉を浴びせられただろう。でも、「空気を読む」ということが私にはよく分からない。空気は目に見えない。形もない。それをどうやって読むのか。皆が当たり前のようにできることが、私にはまるで異国の言語のように理解できなかった。
「もっと周りをちゃんと見ろ」
これもよく言われた。でも私は周りを見ている。クラスメイトの顔も、教室の様子も、ちゃんと見ている。なのに何が足りないのか。何を見落としているのか。それが分からない。
高校二年の冬、私は学年末のクラス会で大失敗をした。
親友だと思っていた香織が、実は密かに片想いしていた男子生徒のことを、私は何も考えずに皆の前でからかってしまったのだ。「香織、最近あの人のこと見てるよね」と軽い気持ちで言った一言。教室が一瞬で凍りついた。香織の顔が真っ赤になって、そして蒼白に変わった。
その場にいた誰もが気まずそうな表情を浮かべていた。私だけが、何が起きたのか分からなかった。
香織は私を睨んで教室を飛び出していった。追いかけようとした私を、クラスメイトの一人が腕を掴んで止めた。
「美枝、お前さ……本当に空気読めないよな」
その言葉が、胸に突き刺さった。
それから香織は私を避けるようになった。LINEも既読無視。廊下ですれ違っても目を合わせてくれない。何度謝ろうとしても、「いいよ、もう」と冷たく言われるだけだった。
私が何をしたのか、頭では理解できた。でも、なぜそれがそこまで悪いことなのか、心の底からは理解できなかった。ただ、私の言葉が誰かを傷つけたという事実だけが重くのしかかった。
『口は災いの元』とはよく言ったものだ。
だから私は喋らなくなった。
いや、正確には、喋ることができなくなった。
無口、とも違う。
声が出せなくなったのだ。
それは高校三年の春、新学期が始まって一週間ほど経った朝のことだった。
目が覚めて、いつものように「おはよう」と声を出そうとした。でも、喉から音が出なかった。息は吐けるのに、声にならない。何度試しても、喉が動くだけで音にならなかった。
パニックになった。何度も何度も声を出そうとしたが、出るのは「ヒュッ」という乾いた空気の音だけだった。
階段を駆け下りて、母にそのことを伝えようとした。でも声が出ない。慌てて紙に「声が出ない」と書いて見せた。
「え?何?声が出ない?」
母は最初、冗談だと思ったようだった。「美枝、そんなことで嘘ついて。遅刻するわよ」と笑った。
私は首を激しく横に振って、もう一度紙に書いた。
「本当に出ない。助けて」
「……美枝?」
母の表情が変わった。父も新聞から顔を上げた。
「本当に……声が、出ないの?」
私は涙を流しながら頷いた。
父が「馬鹿にするのも大概にしろ!」と怒鳴った。「学校に行きたくないからって、そんな嘘をつくな!」
でも私がただ泣くだけで何も言い返せないのを見て、両親の顔色が変わった。母が私の肩を掴んで、「美枝、本当に?本当に声が出ないの?」と何度も聞いた。
私は頷くことしかできなかった。
その日、学校は休んで、すぐに病院に連れて行かれた。耳鼻咽喉科で喉を診てもらい、レントゲンを撮り、様々な検査を受けた。でも、声帯には何の異常も見つからなかった。
最終的に案内されたのは、心療内科だった。
メガネをかけた、五十代くらいの温厚そうな男性医師が私たちを診察室に招き入れた。
医師は私と両親から丁寧に話を聞いた。学校での人間関係のこと。香織との一件。「空気が読めない」と言われ続けてきたこと。全てを話した。話したというより、私がホワイトボードに書いて、母が補足する形で。
医師はゆっくりと頷きながら聞いていた。
「美枝さん。あなたは今、とても疲れているんだと思います」
医師の声は穏やかだった。
「声が出なくなったのは、あなたの心があなた自身を守ろうとしているからです。精神的なストレスが身体症状として現れることを、私たちは転換性障害と呼んでいます」
「精神的なもの、ということですか?」父が聞いた。
「そうです。でも、『気のせい』ではありません。美枝さんにとって、声が出ないというのは紛れもない現実です。心が限界を迎えた時、身体がそれを表現することがあるんです」
母が泣きそうな声で医師に詰め寄った。「この子が声を取り戻す方法はないのでしょうか!?」
医師は優しく首を横に振った。
「声帯は生きていますから、声を取り戻せる可能性は十分にあります。ですが、いつどうやって治るのか、一概には言えません。声を出せなくなる例はままありますが、治し方も、治り方も、人それぞれですから」
診察室を出る時、医師が私だけに言った。
「美枝さん。無理に声を出そうとしなくていいんですよ。今は、休んでください」
その言葉が、不思議と心に染みた。
分かったのは、私が声を出せなくなったことと、私が「空気が読めない」と揶揄されていることに、何か関係がある、ということだけだった。
両親はたいそう不安そうにしていた。このままでは「マトモ」に社会に出ることができないと、高校三年生の当の本人よりもオロオロしていた。母は夜中に泣いていることがあった。父は私の顔をまともに見られなくなった。
でも私は、もうこのまま喋れなくてもいいか、と単純に考えていた。
「空気が読めない」と言って揶揄されるより、ずっといい。
声が出せないことを理解してくれる職場は、きっとあるはずだ。声が出せなくてもできる仕事がきっとあるはずだ。筆談で会話もできる。
私は小さなホワイトボードと、ホワイトボード用のペンを常に持ち歩くようになった。何か話したい時はそれに書いて、相手に見せる。最初は戸惑われたが、次第に周りも慣れてくれた。
筆談は良かった。
考える時間が与えられるから。
書きながら、「これは言っても大丈夫だろうか」「この言葉は相手を傷つけないだろうか」と考えることができる。書いた後で、「やっぱりやめよう」と消すこともできる。
私の失言率が劇的に減った。
「空気の読めない」私には、筆談が性に合っていた。
言葉で話す時は、考える時間がない。即答を求められる。口が勝手に動いて、脳が追いつかない。言ってから「しまった」と思う。そんなことの繰り返しだった。
私はきっとそれが苦手だったのだ。
私に必要だったのは、「返答を考える時間」だったのだと思った。
だから私の心は、私から声を奪ったのかもしれない。
守るために。
第二章 沈黙の中の平穏
高校卒業後も私の声が戻ることはなかった。
声を出そうとすると、「ヒュッヒュッ」という乾いた空気音しか出ない。まるで壊れた笛のようだった。
卒業式の日、クラスメイトたちが「美枝、元気でね」「また会おうね」と声をかけてくれた。私はホワイトボードに「ありがとう」「また会いましょう」と書いて返した。
香織とは、結局最後まで和解できなかった。卒業式の後、遠くから彼女の姿を見かけた。私の方を一瞬見たが、すぐに目を逸らして友達の輪の中に消えていった。
ああ、と思った。これで本当に終わったんだな、と。
大学進学は諦めた。というより、両親も私も、それは現実的ではないと判断した。声が出せない状態での大学生活は想像できなかった。
ハローワークに通った。障害者雇用の窓口で、様々な仕事を紹介してもらった。そして、障害者手帳を交付された。それは私が「普通」ではなくなった証明書のように感じられた。
私はA級作業所という場所で働くことになった。
両親はたいそう残念そうにしていた。
「せっかく美枝は頭が良いのに。公務員試験も受けられたかもしれないのに」
母はそう言って、またリビングで泣いた。
「あの子が普通に喋れていたら……」
父は何も言わなかったが、私を見る目には失望が滲んでいた。期待していた娘の未来が、音を立てて崩れ去ったのだろう。
当の本人の私があっけらかんとしているのに、両親の方が深刻そうなのが不思議だった。
私はもう、この状態に慣れていた。というより、安心していた。
A級作業所での私の仕事はデータ入力だった。
企業から委託された様々なデータを、パソコンに入力していく。住所録、アンケート結果、売上データ。単純作業の連続だった。
でも私は、この仕事が好きだった。
入力作業には自信があった。高校時代、パソコン部に所属していて、タイピングの速さには定評があった。作業所の職員さんにも「美枝さん、入力速度が速いですね」とよく褒められた。
それに私は単純作業が苦ではなかった。同じことを繰り返すことに安心感があった。予測可能で、裏切られることがない。数字は嘘をつかない。データは私を批判しない。
私の取り柄といえばそれくらいだった。でも、それで十分だと思った。
それに、誰とも話さずに済む職場は快適だった。
もう私を「空気が読めない」と言って揶揄してくる人はいない。誰も私に即答を求めない。必要なことはホワイトボードに書けばいい。職員さんたちも、他の利用者たちも、私の筆談を当たり前のように受け入れてくれた。
安全。安心。
この二つの言葉が、私の世界を包んでいた。
作業所に通い始めて三ヶ月が経った頃、不思議なことが起きた。
朝、いつものように目が覚めた。ベッドの中で伸びをして、何気なく「ん〜」と声を出そうとした。
すると、声が出た。
掠れた、か細い声だったが、確かに声帯が振動して音になった。
え、と思った。
もう一度試してみる。「あ……」小さな、震えるような声が喉から漏れた。
声が、戻ってきた。
最初は掠れた声しか出なかった。しばらく声帯を使っていなかったので当たり前だ。でも、鏡の前で「あー」「いー」「うー」と練習していると、少しずつ声量が戻ってきた。一週間もすると、ほぼ元の声に戻っていた。
でも私は、両親にも、作業所の誰にも、そのことを言わなかった。
なぜなら、今の「安心・安全」を守りたかったから。
もう「空気が読めない」なんて、揶揄されたくない。「周りをちゃんと見ろ」なんて言われたくない。
私は私のペースを守って生きていきたい。
だから、声が出ないフリを続けることにした。
第三章 偽りの沈黙
喋れるのに筆談で喋ることは、思ったほど苦痛ではなかった。
でも、せっかく取り戻した自分の声を再び封印し続けるのも怖くて、私はこっそり一人カラオケに行くようになった。
最初は恐る恐るだった。カラオケ店に入る時、誰かに見られていないか何度も振り返った。個室に入ってドアを閉めると、ようやく安心できた。
マイクを握る。画面に歌詞が流れる。
最初に歌ったのは、高校時代によく聞いていた曲だった。サビの部分で、思い切り声を出した。
「あ゛あ゛あ゛ーーー!」
掠れて、音程も外れて、声量もまだ足りなかったけれど、確かに歌えた。
涙が溢れた。
私の声。私の声だ。これは私の声なんだ。
それから、週に一度は一人カラオケに通うようになった。声帯を鍛えるため、というのが表向きの理由だったが、本当は、自分の声を確認したかった。私はまだ「声を持っている」のだと、実感したかった。
でも、段々と、このまま「声の出せない者」として生きていくことに不安を覚えるようになった。
誰かに声が出せるようになったことがバレたらどうしよう。
カラオケ店で知り合いに会ったら?作業所の誰かに見られたら?
このまま一生、「話せないフリ」を続けていくことが私にできるのだろうか。
私は、嘘をつくのはきっと得意ではない。
顔に出やすいタイプだと、昔から言われていた。隠し事をしていると、すぐにバレる。
いつかは、バレてしまう。
そうなった時、どうなる。
医師や両親に怒られるだろうか。
「あなたは嘘をついていたのですか」と医師に責められるだろうか。
「私たちがどれだけ心配したと思ってるの!」と母に泣かれるだろうか。
障害者手帳は取り上げられ、過去に遡って違約金などを払わされたりするのだろうか。作業所から追い出されて、どこにも居場所がなくなるのだろうか。
でも、それ以上に怖かったのは別のことだった。
「声の出る私」に戻った時に課せられるものを考えた時、心臓が凍りつくような恐怖を感じた。
今のA級作業所での生活は崩れ去り、母の望む通り、公務員試験などを受けさせられるだろう。そして厳しい社会の波に揉まれて生きていく。また「空気が読めない」などと詰られながら。失言を繰り返しながら。人を傷つけながら。
「声のでない私」でいる方が、私にとって都合が良かった。楽だった。
これは「逃げ」だったのかもしれない。
誰かと会話することが怖かった。できれば誰とも話さずに過ごしたかった。
でも。
夜、ベッドの中で、私は自分に問いかける。
逃げてばかりで良いのか、私。
そんな一生を本当に望んでいるのか、私。
怖がって、「嫌な自分」から逃げている私は楽だった。
予定調和の毎日。誰も私を批判しない。失言する機会もない。傷つけることも、傷つけられることもない。
だが、逃げてばかりいたら何も変わらない。
「空気が読めない」自分が嫌だった。
だから逃げたのだ。
でも、逃げていては何も解決しない。
ねえ。私は本当はどうしたい?
「空気が読める私」になりたいんじゃないのか。
天井を見つめながら、私は自分の本心と向き合った。
そう。本当はそうだ。
もう誰かに「空気が読めない」と言われるのが嫌だ。
でも、それ以上に、私は普通に人と話したい。笑い合いたい。友達が欲しい。
香織との友情を、もう一度取り戻したい。
いや、もう遅いかもしれない。でも、また誰かと友達になりたい。
じゃあどうすればいい?
逃げるな。
「嫌な自分」から逃げるな。
声を取り戻したことを隠して生きていくのは、結局また「嫌な自分」から逃げているだけだ。
そうだ。
逃げない。私は、逃げない。
作業所に通い始めて半年が経った十月の終わり、私は意を決して、声が出るようになったことを両親に伝えることにした。
夕食後、リビングでテレビを見ている両親の前に立った。
いつものようにホワイトボードを手に持っていたが、今日は使わない。
深呼吸を三回した。
そして、口を開いた。
「お父さん、お母さん」
掠れた、小さな声だったけれど、確かに言葉になった。
両親が同時に振り返った。
母のお茶碗が手から滑り落ちて、畳の上で転がった。
父の新聞が床に落ちた。
「み、美枝……?」
母が震える声で言った。
「声……声が……」
「出るようになったの」
私は続けた。
「三ヶ月前から。ごめんなさい。隠してて」
両親は驚きながらも、「良かった、本当に良かった」と涙を流して喜んでくれた。
母は立ち上がって私を抱きしめた。父も目を真っ赤にして、「美枝……」と私の頭を撫でた。
「なんで黙ってたの」と母が聞いた。責めるような口調ではなく、ただ純粋に疑問に思っているようだった。
「怖かったの」
私は正直に答えた。
「声が戻ったら、また普通の生活に戻らなきゃいけない。そしたらまた、空気が読めないって言われる。失言して、誰かを傷つける。それが怖かった」
母は何も言わずに、私を抱きしめる腕に力を込めた。
「でも」
私は続けた。
「逃げてばかりじゃダメだって気づいたの。私、変わりたい。空気が読めるようになりたい。普通に人と話せるようになりたい」
父が言った。
「美枝は十分頑張ってきたよ。これからは、ゆっくりでいい。焦らなくていいから」
その言葉に、また涙が溢れた。
第四章 新しい一歩
翌日、私は作業所の所長に声が戻ったことを報告した。
所長の田中さんは五十代の穏やかな女性で、いつも利用者一人一人に丁寧に接してくれる人だった。
「美枝さん、それは良かったですね」
田中さんは心から嬉しそうに笑った。
「でも、無理はしないでくださいね。声が戻ったからといって、すぐに全てを変える必要はありません。あなたのペースで大丈夫ですから」
私はホワイトボードに「ありがとうございます」と書いて、そして小さな声で「ありがとうございます」と言った。
田中さんの目が少し潤んだ。
「美枝さんの声、初めて聞きました。素敵な声ですね」
その日から、私は少しずつ声を使うようになった。
最初は「おはようございます」「お疲れ様です」といった挨拶から。次に、簡単な返事。「はい」「いいえ」「分かりました」。
でも、少し複雑な会話になると、まだホワイトボードに頼ってしまう。考える時間が欲しくて。失言が怖くて。
ある日、作業所で一緒に働いている佐藤さんという女性が話しかけてきた。佐藤さんは私より十歳ほど年上で、いつもニコニコしている優しい人だった。
「美枝さん、声が戻って良かったですね」
「はい……ありがとうございます」
「でも、まだホワイトボード使ってますね」
「あ、はい……その方が、安心できて」
佐藤さんは少し考えてから言った。
「私もね、昔は人と話すのがすごく苦手だったんです」
「え?」
「信じられないでしょう?でも本当なんです。人の顔を見て話せなくて、いつも下を向いてて。何を話せばいいか分からなくて」
佐藤さんはそう言って、少し恥ずかしそうに笑った。
「でもね、ここに来て変わったんです。ここの人たちは、私が変なこと言っても、笑って許してくれる。間違えても、優しく教えてくれる。だから、少しずつ話せるようになったんです」
私はその言葉に、何か大切なことを気づかされた気がした。
「美枝さんも、焦らなくていいんですよ。ゆっくり、少しずつでいいんです」
「……はい」
それから、私は意識的に声を使う練習を始めた。
でも、やはり失言は減らなかった。
昼休み、他の利用者たちと一緒にお弁当を食べていた時のことだった。
隣に座っていた山田さんという男性が、「昨日、久しぶりに映画を見に行ったんだ」と話していた。
「へえ、何の映画ですか?」と佐藤さんが聞いた。
「アクション映画。すごく面白かったよ」
私は何気なく言った。
「山田さん、アクション映画好きなんですね。意外です。もっと地味な映画が好きなのかと思ってました」
その瞬間、場の空気が変わった。
山田さんの表情が曇った。佐藤さんが「あ……」という顔をした。
しまった、と思った。
「あの、ごめんなさい。変なこと言いました」
私は慌ててホワイトボードを取り出した。でも、何を書けばいいか分からなかった。
山田さんは少し間を置いてから、「いや、いいんだ」と言った。でも、その後はあまり話さなくなった。
休憩時間が終わって、私が一人で落ち込んでいると、田中所長が声をかけてきた。
「美枝さん、さっきのこと、気にしてます?」
「はい……また、失言してしまいました」
「そうですね。でも、美枝さん、大事なことに気づきましたか?」
「え?」
「すぐに謝りましたよね。昔の美枝さんなら、何が悪かったか分からないまま、ずっと悩んでいたんじゃないですか?」
言われて、はっとした。
確かに。今回は、自分が失言したことにすぐ気づいた。そして謝罪もできた。
「美枝さんは、成長してるんですよ。少しずつだけど、確実に」
田中所長のその言葉に、少し救われた気がした。
第五章 理解への道
それから私は、もっと「空気を読む」ということについて学びたいと思うようになった。
田中所長に相談すると、作業所で月に一度開催されている「ソーシャルスキルトレーニング」に参加することを勧められた。
「SST、って呼んでます。コミュニケーションの練習をする場所です。美枝さんみたいに、人との関わり方に悩んでいる人たちが集まって、一緒に学んでいくんですよ」
初めてSSTに参加した日、部屋には八人ほどの人がいた。年齢も性別も様々だった。
ファシリテーターは、心理士の資格を持つ若い女性、橋本さんだった。
「今日は、『断り方』の練習をしましょう」
橋本さんがそう言って、ロールプレイを始めた。
「友達から、忙しい時に遊びに誘われました。でも今日は予定があって行けません。どう断りますか?」
参加者の一人が手を挙げた。
「ごめん、今日は用事があって」
「いいですね。他には?」
「せっかく誘ってくれたのに申し訳ないんだけど、今日はちょっと都合が悪くて。また誘ってくれる?」
「素晴らしい!相手への配慮もあって、次につながる断り方ですね」
私は聞いていて、驚いた。
断り方一つにも、こんなに選択肢があるのか。そして、言い方によって相手の受け取り方が全く変わるのか。
今まで私は、「断る」=「無理です」くらいの選択肢しか持っていなかった。だから、相手を不快にさせてしまっていたのかもしれない。
橋本さんが私に声をかけた。
「美枝さんは、どうですか?何か思いつきますか?」
私は少し考えてから、声を出した。
「あの……『ごめんなさい、今日は先約があって。でも、来週なら大丈夫です』とか……」
「いいですね!代案を提示するのは、とても良いコミュニケーションです」
橋本さんに褒められて、少し嬉しくなった。
SSTでは、様々なシチュエーションの練習をした。
謝り方、お願いの仕方、感謝の伝え方、意見の言い方。
今まで私が「空気が読めない」と言われてきた場面の多くは、こういった基本的なコミュニケーションスキルが欠けていたからなのだと気づいた。
でも、それは私の「性格」の問題ではなく、「学んでこなかった」だけなのかもしれない。
そう思うと、少し希望が見えてきた。
学べるということは、変われるということだ。
SSTに参加して三ヶ月ほど経った頃、ある出来事があった。
作業所で、新しい利用者が入ってきた。高校を卒業したばかりの、田村くんという男の子だった。
田村くんは私と同じように、声を出すことができなかった。ホワイトボードで筆談をしていた。
初日、田村くんは緊張した様子で作業所に来た。周りをキョロキョロと見回して、不安そうな表情をしていた。
私は、かつての自分を見ているような気がした。
休憩時間、私は田村くんの隣に座った。
ホワイトボードに書いた。
『初めまして。私も昔、声が出ませんでした』
田村くんが驚いた顔でこちらを見た。
『今は出るようになりました。大丈夫。きっと良くなりますよ』
田村くんは目を潤ませて、ホワイトボードに書いた。
『本当ですか?僕も、声が出るようになりますか?』
『分かりません。でも、声が出なくても、ここでは大丈夫です。皆、優しい人たちです』
田村くんは小さく頷いて、『ありがとうございます』と書いた。
それから、私は田村くんの良き相談相手になった。
彼の悩みを聞き、自分の経験を話した。SSTのことも教えた。
不思議なことに、誰かの役に立っているという実感が、私自身を癒していった。
かつて自分が苦しんだ経験が、今、誰かの助けになっている。
それは、私の過去を無駄にしないということだった。
ある日、田村くんがホワイトボードに書いた。
『美枝さんは、なぜ声を出せるようになったのに、しばらく隠していたんですか?』
私は少し考えてから、正直に答えた。
『怖かったんです。声が戻ったら、また普通の社会に戻らなきゃいけない。また失敗する。また人を傷つける。そう思ったら、声を失ったままでいる方が楽だと思ったんです』
『でも、今は違うんですか?』
『はい。逃げていても、何も変わらないと気づきました。変わりたいなら、怖くても前に進むしかない』
田村くんはしばらくホワイトボードを見つめていた。
そして、小さく頷いた。
第六章 見えない言葉
SSTに参加して半年が過ぎた頃、私は一つの疑問を抱くようになった。
「空気を読む」とは、結局のところ何なのだろう。
橋本さんのSSTで学んだスキルは確かに役に立った。断り方、謝り方、感謝の伝え方。それらを学ぶことで、明らかに失言は減った。
でも、何かが違う気がしていた。
まるで、外国語のフレーズを丸暗記しているような感覚。その言語の文法や背景にある文化を理解しないまま、表面的な言葉だけを使っている。そんな違和感があった。
ある日のSSTで、橋本さんが興味深いテーマを出した。
「今日は、『言葉にならない気持ち』について話しましょう」
橋本さんはホワイトボードに一枚の写真を映した。公園のベンチに座る老人の後ろ姿だった。
「この人は、今どんな気持ちだと思いますか?」
参加者たちが次々に答えた。
「寂しそう」
「疲れている」
「何かを思い出している」
「穏やかな気分」
橋本さんは頷いた。
「全部、正解かもしれません。この写真からは、その人が何を感じているか確実には分かりません。でも、私たちは何かを感じ取ろうとしますよね。なぜでしょう?」
私は手を挙げた。
「その人の……立場に立とうとするから、ですか?」
「そうですね。共感、empathyと言います。でも美枝さん、『立場に立つ』って、具体的にはどういうことだと思いますか?」
その質問に、私は言葉に詰まった。
橋本さんは優しく微笑んだ。
「難しいですよね。私も長年、これを考えてきました。そして一つ分かったことがあります」
橋本さんは、もう一枚の写真を映した。今度は、泣いている子どもの写真だった。
「この子を見て、皆さんはどう感じますか?」
「可哀想」
「何があったんだろう」
「助けてあげたい」
「では、次の質問です。なぜ、そう感じるんでしょう?」
部屋が静かになった。
橋本さんが続けた。
「私たちは、相手の表情や仕草から、その人の感情を『想像』します。でも、それは本当にその人の気持ちではありません。あくまで、私たちの『想像』です」
「だから、『空気を読む』というのは、実は『相手の気持ちを完璧に理解する』ことではないんです」
私は思わず聞き返した。
「では、何なんですか?」
橋本さんは、まるで大事な秘密を打ち明けるように、静かに言った。
「それは、『相手の気持ちを想像しようと努力し続けること』なんです」
その言葉が、私の中で何かを解き放った。
第七章 想像すること、間違えること
SSTの帰り道、私は橋本さんの言葉を何度も反芻していた。
「空気を読む」=「相手の気持ちを完璧に理解する」
私はずっと、そう思っていた。
だから、完璧に理解できない自分は「空気が読めない」のだと。
でも、もしかしたら、みんなも完璧には理解できていないのかもしれない。
ただ、想像しようとしている。そして、間違えることを恐れていない。
翌日、作業所で昼食を食べていた時、佐藤さんがため息をついた。
「はあ……」
今までの私なら、何も言わずにスルーしていただろう。ため息の理由が分からないし、下手なことを言って失言するのが怖いから。
でも今日は、少し勇気を出してみた。
「佐藤さん、何かありましたか?」
佐藤さんは少し驚いた顔をして、それから苦笑した。
「あ、ごめんね。ちょっと母のことで悩んでて」
「お母様?」
「うん。最近、物忘れがひどくなってきて。病院に行くように言ってるんだけど、頑なに拒否するの。心配で」
私は少し考えた。ここで何を言えばいいだろう。
昔の私なら、「病院に行った方がいいですよ」と言っていたかもしれない。正論だけど、相手が求めている言葉ではない。
佐藤さんは今、何を求めているんだろう。
アドバイス?
いや、違う気がする。
共感?
そう、きっと。佐藤さんは心配で、不安で、誰かにその気持ちを分かってほしいんだ。
「それは……心配ですね」
私はそう言った。
佐藤さんの表情が少し和らいだ。
「そうなの。本当に心配で。でも、母も母で、プライドがあるから難しくて」
「お母様の気持ちも分かる気がします。認めたくないのかもしれないですね」
「そうなのよ!そうなの。だから難しいの」
佐藤さんは堰を切ったように話し始めた。母との関係、自分の不安、どうすればいいか分からない気持ち。
私はただ聞いていた。時々、「大変ですね」「難しいですね」と相づちを打った。
話し終わった佐藤さんは、「あー、スッキリした。聞いてくれてありがとう、美枝さん」と笑顔で言った。
私は何も解決していない。アドバイスもしていない。
でも、佐藤さんは満足そうだった。
これが、「想像する」ということなのかもしれない。
相手が今、何を必要としているのか。完璧には分からないけれど、想像してみる。そして、それに応じて行動してみる。
間違えるかもしれない。でも、それでもいいのかもしれない。
第八章 失敗という名の学び
その日の午後、新しい利用者が作業所に見学に来た。
二十代前半くらいの女性で、名前は川口さんといった。
田中所長が川口さんを案内している時、私たちは作業を続けていた。
でも、川口さんは明らかに緊張していた。手が震えていて、所長の説明もあまり耳に入っていない様子だった。
見学が終わって、川口さんが帰ろうとした時、私は思わず声をかけた。
「あの、川口さん」
川口さんが振り返った。
「ここ、すごく良いところですよ。皆、優しいですし」
川口さんは少し驚いた顔をして、それから小さく笑った。
「ありがとうございます」
でも、その笑顔はどこか寂しそうだった。
川口さんが帰った後、田中所長が私のところに来た。
「美枝さん、さっき川口さんに声をかけてくれてありがとう」
「はい。でも、あまり喜んでもらえなかった気がして……」
田中所長は少し考えてから言った。
「そうですね。実は、川口さんは前の職場でうつ病になって、今はとても自信を失っているんです」
「そうだったんですか……」
「『ここは良いところですよ』という言葉は、きっと川口さんにとっては重かったかもしれません。『私はそんな良いところにも馴染めないかもしれない』って思ってしまったのかも」
その言葉を聞いて、私はハッとした。
良かれと思って言った言葉が、相手を傷つけてしまった。
また失敗してしまった。
私の落ち込んだ様子を見て、田中所長が言った。
「でも、美枝さんが川口さんのことを気にかけて声をかけたのは事実です。その気持ちは間違っていません」
「でも……」
「美枝さん、大事なことを教えますね」
田中所長は私の目を見た。
「『空気を読む』ことは、失敗しないことじゃないんです。失敗してもいいんです。大事なのは、失敗した後、どうするか」
「失敗した後……」
「そう。気づいたら謝る。そして、次はどうすればいいか考える。それの繰り返しです」
私は翌日、もう一度川口さんが見学に来ると聞いて、待っていた。
川口さんが来たら、謝ろうと思った。
でも、川口さんは来なかった。
三日後、田中所長から聞いた。川口さんは、別の作業所に行くことにしたという。
私のせいだろうか。
そう思うと、胸が苦しくなった。
その夜、私は一人カラオケに行った。
個室で、思い切り歌った。失敗した悔しさ、自分への苛立ち、全てを声に乗せた。
歌い終わって、マイクを置いた時、ふと思った。
私は、川口さんの気持ちを想像しようとした。
でも、私の想像は間違っていた。
それでも、私は想像しようとした。そこに意味があったんじゃないだろうか。
完璧に相手を理解することなんて、誰にもできない。
でも、理解しようとすることはできる。
そして、間違えたら、それを認めて、学べばいい。
橋本さんの言葉を思い出した。
「想像しようと努力し続けること」
努力し続ける、ということは、間違え続けることでもあるのかもしれない。
でも、それでいいのかもしれない。
第九章 言葉の向こう側
翌週のSSTで、私は橋本さんに川口さんのことを話した。
「失敗してしまいました。良かれと思って言った言葉が、相手を傷つけてしまって」
橋本さんは静かに頷いた。
「美枝さん、それは辛かったですね。でも、その経験から何を学びましたか?」
私は少し考えてから答えた。
「相手の状況を、もっと深く想像する必要があったのかなって」
「そうですね。では、どうすれば深く想像できたと思いますか?」
「……分かりません」
橋本さんは、ホワイトボードに絵を描き始めた。
氷山の絵だった。
「人の心は、氷山に似ています。水面上に見えているのは、表情や言葉。でも、水面下にはもっと大きな部分がある。その人の背景、経験、価値観、今抱えている問題……」
橋本さんは氷山の水面下の部分を指した。
「『空気を読む』というのは、この水面下を想像しようとすることなんです。でも、完璧には見えません。だから、私たちは『質問』するんです」
「質問……」
「そう。『今日は調子どうですか?』『何か心配なことはありますか?』。そうやって、相手の水面下を少しずつ理解しようとする」
「でも、質問しすぎるのも……失礼じゃないですか?」
「良い疑問ですね」
橋本さんは微笑んだ。
「確かに、プライバシーに踏み込みすぎるのは良くありません。だから、『質問の仕方』が大事なんです」
橋本さんは、また絵を描いた。今度はドアの絵だった。
「想像してください。相手の心には、たくさんのドアがあります。あるドアは開いていて、あるドアは閉じている。私たちがすべきなのは、『開いているドアから入る』こと。閉じているドアを無理やり開けようとしないこと」
私は思わず聞いた。
「どうすれば、どのドアが開いているか分かるんですか?」
「それは、相手の反応を見るんです。質問して、相手が話してくれたら、そのドアは開いている。相手が話題を変えたり、曖昧に答えたら、そのドアは閉じている」
橋本さんの言葉に、私の中で何かがつながり始めた。
空気を読むというのは、一方的に想像することじゃない。
相手とのやり取りの中で、少しずつ理解を深めていくこと。
質問して、反応を見て、また質問する。
その繰り返し。
「コミュニケーションは、キャッチボールなんです」
橋本さんが言った。
「ボールを投げて、相手がどう返すか見る。強く投げすぎたら、相手は取れない。弱すぎても届かない。相手に合わせて、投げ方を調整する」
「でも、私は……ずっと間違った投げ方をしてきました」
「だから、今、練習しているんじゃないですか」
橋本さんは優しく言った。
「美枝さんは、自分が間違っていたことに気づけた。それはすごいことです。多くの人は、気づかないまま同じ失敗を繰り返します」
その言葉に、少し救われた気がした。
第十章 沈黙の意味
作業所に通い始めて一年が経った頃、田村くんに変化があった。
彼の声が、戻り始めたのだ。
最初は、「あ」という小さな音だけだった。それでも、田村くんは泣きそうな顔で喜んでいた。
私は自分のことのように嬉しかった。
でも、田村くんは私と違う選択をした。
「美枝さん、俺、声が戻っても、すぐには使わないと思います」
ホワイトボードにそう書いた田村くんに、私は聞いた。
「どうして?」
「美枝さんから聞きました。声が戻っても、しばらく隠していたって。俺もそうしようと思います」
「でも、私のは……逃げだったから」
「逃げ、ですか?」
田村くんは首を傾げた。
「俺は、逃げだとは思いません。美枝さんは、準備をしていたんだと思います」
「準備?」
「声を使う準備。社会に出る準備。自分と向き合う準備」
田村くんの言葉に、私は言葉を失った。
「俺も、今は準備がしたいです。声が使えるようになっても、ちゃんと使えるようになるまで、練習したいです」
そう言って、田村くんは少し照れくさそうに笑った。
私は、自分の過去を違う角度から見た気がした。
あの沈黙の日々は、無駄ではなかったのかもしれない。
声を失ったからこそ、私は筆談を学んだ。
筆談をしたからこそ、言葉を選ぶことの大切さを知った。
言葉を選ぶ練習をしたからこそ、今、少しずつ人と話せるようになっている。
全ては、つながっていたのかもしれない。
その日の午後、私は久しぶりに香織のことを思い出した。
もう二年近く会っていない。連絡も取っていない。
でも、会いたいと思った。
謝りたい。そして、今の自分を見てもらいたい。
私は勇気を出して、香織にLINEを送った。
『香織へ
久しぶり。美枝です。
突然ごめんね。
会って話せないかな。
謝りたいことがあるんだ』
既読がついた。でも、返事は来なかった。
一日、二日、三日。
一週間経っても、返事は来なかった。
ああ、やっぱりダメか。
そう思った時、香織から返事が来た。
『美枝
ごめん、返事遅くなった。
会おう。
来週の土曜日、駅前のカフェでどう?』
私は画面を見つめて、涙が溢れた。
第十一章 再会
約束の土曜日。
私は三十分前にカフェに着いて、窓際の席で待っていた。
香織は時間ぴったりに来た。
「久しぶり」
「久しぶり」
最初は、ぎこちなかった。何を話せばいいか分からなくて、お互いコーヒーカップを見つめていた。
私は意を決して口を開いた。
「香織、あの時のこと、本当にごめん」
「……うん」
「私、空気が読めなくて。香織の気持ちを全然考えてなくて。傷つけて、本当にごめんなさい」
香織は少し黙ってから、ゆっくりと話し始めた。
「美枝、私もごめん。あの後、美枝を避けて。美枝が謝ろうとしてくれてたのに、ちゃんと向き合わなくて」
「ううん、私が悪かったんだよ」
「でもね」
香織は私の目を見た。
「あの後、私も色々考えたの。美枝が空気読めないのは確かだけど、美枝は悪気がなかったんだよね。ただ、思ったことを素直に言っただけで」
「でも、それで香織を傷つけた」
「うん。でもね、美枝。私も悪かったと思うの」
「え?」
「私、自分の気持ちを美枝に伝えてなかった。好きな人がいることも、それを秘密にしたいことも。何も言わないで、美枝が察してくれることを期待してた」
香織は苦笑した。
「でも、言わなきゃ分からないよね。美枝は超能力者じゃないんだから」
その言葉に、私は目を見開いた。
「私ね、高校卒業してから、色んな人と出会ったの。大学で、バイト先で。そしたら気づいたの。みんな、ちゃんと言葉にしてるんだって」
「言葉に?」
「うん。『これは言わないでほしい』とか、『今はそっとしておいてほしい』とか。ちゃんと伝えてる。私、それを美枝に言わないで、勝手に期待して、勝手に傷ついてた」
香織はコーヒーを一口飲んだ。
「だから、私も美枝に謝りたい。ごめんね」
私は、香織の言葉に何と答えていいか分からなかった。
空気を読めなかった私が悪いと、ずっと思ってきた。
でも、香織は違うと言っている。
「でもね、美枝」
香織が続けた。
「美枝が気づこうとしてくれたら、もっと嬉しかったかな。『何か嫌なことあった?』って聞いてくれたり」
「……うん」
「それが、空気を読むってことなのかもね。完璧に分かることじゃなくて、分かろうとすること」
私は、橋本さんの言葉を思い出した。
「想像しようと努力し続けること」
香織も、同じことを言っている。
「ねえ、美枝。今、何してるの?」
私は、この二年間のことを話した。声が出なくなったこと。作業所で働いていること。SSTで学んでいること。少しずつ、変わろうとしていること。
香織は静かに聞いていた。
「美枝、すごいね。ちゃんと向き合ってる」
「まだ全然できてないけど」
「でも、やろうとしてる。それが大事なんだと思う」
香織は微笑んだ。
「私ね、美枝と友達でいたい。また、仲良くしたい」
その言葉に、涙が溢れた。
「私も。私も、香織と友達でいたい」
二人で、笑って泣いた。
カフェを出る時、香織が言った。
「美枝、一つお願いしていい?」
「何?」
「これから、私が何か嫌なことがあったら、ちゃんと言うね。だから美枝も、分からないことがあったら、聞いて。『今、怒ってる?』とか、『これ言って大丈夫?』とか」
「……いいの?そんなこと聞いても」
「うん。その方が、お互い楽だと思う。変に気を遣い合うより」
私は頷いた。
「分かった。これから、ちゃんと聞く」
「約束ね」
「約束」
駅で別れる時、香織がハグしてくれた。
「また連絡するね」
「うん」
香織の背中を見送りながら、私は思った。
空気を読むって、結局、相手との関係を大切にすることなんだ。
完璧に理解できなくてもいい。
でも、理解しようとする。
そして、分からない時は、ちゃんと聞く。
相手も、ちゃんと伝える。
そうやって、お互いに歩み寄る。
それが、本当の「空気を読む」ということなのかもしれない。
第十二章 本質
それから数ヶ月、私は香織と頻繁に会うようになった。
そして、香織を通じて新しい友達もできた。大学時代の香織の友人たちだった。
最初は緊張した。また失敗するんじゃないかと怖かった。
でも、香織が言った通り、分からない時は聞くようにした。
「今の、何か変だった?」
「この話題、大丈夫?」
最初は友達も戸惑っていたけれど、次第に慣れてくれた。
そして、気づいたことがある。
みんな、完璧じゃなかった。
空気が読める人も、時々失敗していた。
でも、失敗したら謝っていた。そして、相手も許していた。
それの繰り返しだった。
私だけが特別に「空気が読めない」わけじゃなかった。
ただ、私は失敗に気づくのが遅かっただけ。そして、失敗を恐れすぎていただけ。
ある日、SSTで橋本さんが言った。
「美枝さん、最近、表情が明るいですね」
「そうですか?」
「ええ。何か良いことありました?」
私は少し考えてから答えた。
「あの……『空気を読む』ことの意味が、少し分かった気がします」
「おお、それは素晴らしい。どんな意味だと思いましたか?」
「それは……」
私は言葉を探した。
「相手のことを、想像し続けること。完璧に分からなくてもいい。でも、分かろうとすること。そして、分からない時は、ちゃんと聞くこと」
橋本さんは嬉しそうに頷いた。
「そして?」
「自分も、ちゃんと伝えること。『これは嫌だ』とか、『これは言わないでほしい』とか。相手に察してもらうんじゃなくて、ちゃんと言葉にすること」
「素晴らしい!」
橋本さんは拍手した。
「美枝さん、それが『空気を読む』ことの本質です。一方的に察することじゃなくて、お互いに理解し合おうとすること。コミュニケーションは、双方向なんです」
その言葉を聞いて、私の中で何かが完全につながった気がした。
私はずっと、「空気を読む」ことを、相手の心を完璧に読み取る超能力のようなものだと思っていた。
でも、違った。
それは、相手と一緒に作り上げていくものだった。
私が想像して、相手が伝えて、また私が想像して、また相手が伝えて。
その積み重ねで、お互いを理解していく。
そして、間違えてもいい。謝って、また やり直せばいい。
「美枝さん」
橋本さんが言った。
「あなたは、大きく成長しましたね」
「まだまだです。まだ失敗ばかりで」
「でも、失敗を恐れなくなった。それが一番の成長です」
その日、家に帰る道すがら、私は空を見上げた。
夕焼けが綺麗だった。
二年前、声を失った日。
あの日から、長い旅が始まった。
沈黙の中で、私は多くのことを学んだ。
言葉の重さ。
相手を思いやることの大切さ。
そして、完璧である必要はないということ。
声を失って、私は初めて「聞く」ことができるようになった。
相手の言葉を。相手の沈黙を。相手の表情を。
そして今、声を取り戻して、私は「伝える」ことも学んでいる。
自分の気持ちを。自分の限界を。自分の願いを。
聞くことと、伝えること。
その両方があって、初めてコミュニケーションが成り立つ。
「空気を読む」というのは、その中にある。
相手の言葉の裏にあるものを想像すること。
でも、想像だけで完結しないこと。
ちゃんと確認すること。ちゃんと聞くこと。そして、自分もちゃんと伝えること。
家に着いて、玄関のドアを開けた。
「ただいま」
「おかえり、美枝」
母が笑顔で迎えてくれた。
「今日は楽しかった?」
「うん。色々、分かったことがあった」
「そう。良かったわね」
母は優しく私の頭を撫でた。
夕食の準備を手伝いながら、私は思った。
これからも、きっと失敗する。
空気が読めない発言をして、誰かを傷つけてしまうこともあるだろう。
でも、それでいい。
大事なのは、失敗した後、どうするか。
気づいたら謝る。そして、学ぶ。
それを繰り返していけば、少しずつ、成長していける。
私は、もう逃げない。
声を取り戻した私は、これからちゃんと生きていく。
失敗を恐れずに。
人を大切にしながら。
自分も大切にしながら。
窓の外を見ると、夕焼けが少しずつ夜の闇に溶けていった。
でも、怖くなかった。
明日も、また新しい一日が来る。
新しい出会いがあって、新しい学びがあって、新しい失敗があって、新しい成長がある。
それが、人生なんだ。
私は、ようやくそれを受け入れられるようになった。
「美枝、お味噌汁、お願いね」
「うん、分かった」
私は笑顔で答えた。
この声で。
この言葉で。
この心で。
これから、私は生きていく。
──完──




