琵琶湖[1]
五ヶ月が過ぎていた。
拓真は、西へ向かう電車の窓に肩を預け、流れ去る景色をぼんやりと眺めている。
夏の光を浴びた田畑が、規則正しく後ろへと引き延ばされていく。ガラス越しに映る自分の顔は、どこか他人のように薄く、現実感に乏しかった。
──確かに、歴史は変わった。
関ヶ原で勝者となった石田三成は、近江七十七万五千石の大大名となり、豊臣家の大老として政権中枢に座した。
敗れた東軍は大きな抵抗も見せずに処罰を受け入れ、西軍の諸将も論功行賞に異議を唱えることはなかった。
あれほどの大乱の後とは思えぬほど、戦後処理は静かに、淡々と終わっている。
その裏に、龍仙寺衆の存在があったことを、拓真はよく知っていた。そして、島左近が自分を裏切ったことも。その事に恨みはない。歴史を見れば、左近の選択は必然であったと理解できたからだ。
龍仙寺衆を束ねる主君、石田三成は、諸大名から畏怖の目で見られ、政権運営において無用な政争に煩わされることもなく、その手腕を存分に発揮した。
──左近の狙いは、完璧に的中した。
だが、拓真が最も意外に思ったのは、その後の歴史だった。
豊臣政権下においても、日本は一六四〇年に鎖国政策を採っている。
一六三〇年代、江戸時代と同様に九州でキリシタンの反乱が起こり、それを契機として国は閉ざされた。
結果、日本は二百年以上にわたる平和な時代を過ごし、十九世紀半ば、帝国主義の波に押されて近代国家への道を歩み出す。
それ以降の近現代史は、拓真の知る歴史と驚くほど大差がなかった。
──だが。
二〇一一年の日本は、拓真にとってまるで別世界だった。
この世界の人々は、葛飾北斎を知らない。坂本龍馬も、夏目漱石も、手塚治虫も存在しない。
彼らは歴史に名を残す以前に、生まれてすらいなかった。
その事実を思い出すたび、胸の奥が締めつけられる。
後悔と喪失感が、今もなお、じわじわと心を蝕んでいた。
もちろん、工藤拓真という人間も、この世界には誕生していない。
──それでも、自分はここにいる。
その矛盾を整合させるため、拓真は再び「記憶喪失者」を演じた。
入院中に記憶喪失を訴えると、治療と並行して身元調査が行われたが、当然ながら何一つ出てこない。
津波被災者という事情もあってか、比較的早く、記憶喪失者として正式に認定された。
今は、就籍許可を申請している最中だ。
許可が下りれば、拓真は書類上、この世界の人間になる。
──だが。
たとえ正式にこの世界の一員になれたとしても、拓真が救われることはない。
ここには友人もいない。家族もいない。
かつて笑い合った人も、帰る場所も、何一つ残っていない。
それが命の代償だったのだとしても、自分の過去と人間関係がすべて断ち切られた現実は、想像以上に重かった。
ぽっかりと心に空いた穴を、どう埋めればいいのか分からない。
だから拓真は、その空虚から目を逸らすように、龍仙寺衆の調査と研究に没頭していった。
歴史を記録することでしか、自分がこの世界に存在している証を、確かめられなかったから──。
関ヶ原の戦いから三日後。
龍仙寺は、謎の失火によって一夜にして灰燼に帰した。
夜明け前、山裾を舐めるように走った火は、本堂から工房、倉へと燃え移り、長く築き上げてきた伽藍と施設を容赦なく呑み込んだ。
幸いだったのは、火薬や雷汞といった危険物の多くがすでに運び出された後だったことだ。あの時もし火薬庫が空でなかったら、寺は跡形もなく吹き飛び、多くの命が失われていただろう。
結果として人的被害は軽傷者を数名出すに留まったが、建物の大半と、そこに積み重ねられてきた年月、そして拓真が残した衣類や筆記用具はすべて失われた。
工藤内匠頭と龍仙寺を、ほぼ同時に失った石田家は、無事に残った機材と資料を基に、雷汞の研究開発を続けた。
だが、拓真が残した「核心」に辿り着くことは、ついに叶わなかった。
史料をいくら繰っても、一六〇〇年以降、石田家で雷汞が製造されたという記録は存在しない。
そこにあるのは、試みと断念の痕跡だけだ。
──賀津は、拓真との約束を守った。
雷汞の生産能力を失ったとはいえ、龍仙寺衆にはなお五百挺を超える雷振筒と、十万発以上の弾丸が残されていた。
その一部は豊臣家に献上され、また諸大名へと譲渡されたが、弾丸の供給能力が有限であることは、意図的に伏せられた。
雷振筒は「天下を変えた武器」として珍重され、弾丸は法外な値で取引される。
だが、皮肉なことに、泰平の世ではそれらは急速に居場所を失っていった。
戦がなければ、雷振筒はただの鉄棒にすぎない。
十七世紀半ばには弾丸の多くが劣化し、使用不能となる。
供給も途絶え、十八世紀に入る頃には、雷振筒という名そのものが、人々の記憶から静かに消えていった。
垣屋勘兵衛は五千石を与えられ、家老として龍仙寺衆を束ねた。
組頭、隊士、職人衆もまた厚遇され、それぞれが相応の地位と栄誉を得る。
彼らは勝者として生き延び、そして歴史の中へと溶け込んでいった。
──それが、記録に残る「正しい歴史」だった。
拓真は、丹念に史料を読み解き、かつての仲間たちのその後を一人ずつ辿っていった。
名前を見つけるたびに、胸の奥で何かが小さく鳴る。
だが、最も時間を費やしたのは、佐名の行方だった。
閲覧可能な史料、書籍、古文書、そして現代のネットワーク。
考えうる限りの手段を尽くし、拓真は佐名の痕跡を探し続けた。
それでも──何ひとつ、見つからない。
まるで、最初からこの世界に存在しなかったかのように。
「佐名……さん……」
西へ向かう電車の車窓に額を預けたまま、拓真はかすれた声で呟いた。
手の中では、小さな大黒天像が冷たい感触を伝えている。
二〇一一年に戻ってからというもの、拓真は時折、抗いようのないフラッシュバックに襲われた。
戦場の音、血の匂い、そして佐名の声。
そんな時、彼は決まってこの像を強く握りしめる。
それは祈りというより、唯一現実に残された「証」を掴む行為だった。
掌に伝わる硬さを確かめながら、押し寄せる悲嘆と絶望が通り過ぎるのを、ただ耐える。
失ったものは戻らない。
だが、それでも──忘れてしまうことだけは、どうしても出来なかった。
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