閃光[1]
「しっ……死んだ……! 予が……予が死んでしもうたぁ!」
男は地面に尻餅をつき、両手を突いたまま後ずさった。膝は笑い、歯の根が合わず、視線は定まらない。まるで己の影に追われるかのような怯えようだった。
「殿! お気を確かに!」
家臣の声が、必死に理性を呼び戻そうとする。
「殿は死んでおられませぬ。死んだのは、小四郎にござる!」
「こっ……小四郎……? 小四郎とは、どこの誰じゃ……?」
半狂乱の問いに、家臣たちは顔を見合わせた。
「栢谷小四郎にござる! 殿の変わり身役を務める小姓にござる!」
「なっ……なぜじゃ……なぜ小四郎が死んだ!」
男──小早川秀秋は、幔幕の内からすべてを見ていた。
先ほど藤四郎が撃ち抜いたのは影武者であり、秀秋は無傷で生きている。だが、その事実が、彼の恐怖を和らげることはなかった。
家老の平岡石見は、言葉に詰まった。
「そっ……それは……」
理解できるはずがない。
三百七十メートル先からの狙撃など、この時代の常識の外にある。しかも本陣は高台の上、下方からの狙撃は物理的に不可能。近くで銃声もなかった。
小四郎は、ただ──突然、首から血を噴き出して死んだ。
それ以外の説明が、誰の頭にも浮かばなかった。
「おっ……秀吉様じゃ……!」
秀秋は、哀れなほどに身を震わせる。
「秀吉様が……内府に味方する予を、懲らしめたのじゃ……!」
錯乱した脳が、死を神罰と結びつけた。
(愚かな……!)
平岡石見は内心で叫んだ。
(殿下にそのような真似ができるものか! もしできるなら、内府様はとうの昔に死んでおるわ!)
だが、そんな理屈を並べたところで、秀秋が正気を取り戻すはずもない。
恐怖は理を食い潰し、妄想だけを肥大させる。
平岡石見は、家康とのパイプ役を担う男である。
妻は黒田長政の従姉妹。その縁で長政とも深い付き合いがある。
ここで秀秋を動かせなければ、自分の立場が危うくなる──いや、黒田や徳川との関係そのものが破綻しかねない。
小早川勢の眼前には、大谷吉継が率いる軍勢がいる。
彼らは徳川本軍の左翼とすでに交戦状態にあり、今この瞬間、背後から襲えば一息に壊滅させられる。
だが──。
秀秋が錯乱している限り、軍は動かせない。
「石見ぃーー─!」
鋭い叫びに振り返ると、いつの間にか秀秋は立ち上がっていた。
その目には、もはや恐怖ではなく、歪んだ昂揚が宿っている。
「総掛かりじゃ! 総掛かりで内府を討つ!」
「なっ……なんと……内府様を、お裏切り遊ばされるか……!」
平岡石見の声は震えた。
最悪の言葉が、最悪の形で飛び出した。
「裏切ったは内府が先じゃ!」
秀秋は叫ぶ。
「二位様の天下は、予が護る!」
その言葉に、平岡石見は眩暈を覚えた。
戦略も、計算も、すべてが吹き飛んだ。だが、こうなってしまっては、もはや止めようがない。
「総掛かりじゃ!」
秀秋の声が、狂気を帯びて響く。
「皆、死ぬ気で駆けよ! 内府の首を、予の前に持ってこい!」
その檄に応えるように、家臣たちが一斉に鬨の声を上げた。
恐怖と混乱、そして主命への服従が混ざり合い、小早川勢は巨大な獣のようにうねり、動き出す。
*
「殿! 後ろより軍勢、迫っております!」
輿に身を預けたまま采配を振るっていた大谷吉継は、その一報に思わず息を呑んだ。覆いの内にこもる膏薬と血の匂いが、胸の奥でざわりと揺れる。
「後ろ……とな。金吾様の勢か?」
静かに問い返した声には、わずかな警戒と、そして嫌な予感が滲んでいた。
「左様にございます! 我らの脇を沿うように抜け、すでに先頭の衆は徳川勢に突きかかっておりまする!」
「……なんと」
吉継は短く吐息した。
「後詰めに回ると申されたはず。まったく、辛抱というものを知らぬお方じゃ」
その言葉は嘆きというより、冷めた諦観に近かった。
「算段が狂いましたな。如何なされますか?」
側に控える湯浅五助が声を潜めて尋ねる。戦場に満ちる鬨の声と鉄のぶつかる音が、遠雷のように絶え間なく耳を打っていた。
大谷吉継率いる山中駐屯軍は七千四百。対する徳川本軍は三万五百。数だけ見れば、抗う術などない差である。だが吉継はここまで、攻めと退きを織り交ぜ、敵の鋭さをかわし続けてきた。前へ出すぎず、引きすぎず。東軍先陣衆第一軍との連携を寸断し、敵の勢いを殺す——それが彼の戦であった。
そこへ、小早川勢八千が牙を剥いた。
予想外の横撃に、徳川本軍の左翼は明らかに浮き足立っている。陣形は乱れ、号令も届かず、各所で混乱が走っている様子が音だけでわかった。
(今なら、押せる……)
一瞬、その考えが吉継の脳裏をかすめる。味方の士気は高まり、数も一時的とはいえ敵の半分にまで膨らんだ。ここで全面に出れば、確かに戦果は挙げられるだろう。
だが——。
(長くは持たぬ)
吉継は戦場全体を俯瞰する。脳内に描いた布陣図には、なお厚みを保つ徳川の主力が控えている。ここで消耗戦に入れば、いずれ押し潰されるのは自軍だ。勝ったように見えて、負ける戦。それだけは避けねばならない。
「総掛かりなぞ、長くは持たぬ」
吉継は低く、しかし明確に言い切った。
「我らは退がる。後詰めに回るのじゃ」
五助が息を詰めて聞き入る。
「小早川勢が疲れ果てた頃合いを見て、兵を入れる。ここで総崩れを起こさせてはならぬ」
そして、吉継はわずかに声を強めた。
「皆に下知せよ。金吾様を討たせてはならぬとな」
それは命令であると同時に、戦場に生きる者への戒めだった。感情で刃を振るえば、この戦は終わる。理で刃を収めねば、先はない。
輿の内で吉継は静かに瞼を閉じる。耳に届く戦の喧騒の中で、その思考だけは、凍てつくほど冷静だった。
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