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Last resort  作者: 蒼了一


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茶室[1]

 翌朝、拓真は耳元をかすめる鳥のさえずりで意識を引き上げられた。布団の上でゆっくり瞬きをすると、障子越しの光が白く滲んでいる。空気は澄んでおり、胸の奥にまで透き通って流れ込んでくるようだった。


 昨夜は久しぶりに泥のように眠った──それが効いたのか、身体が驚くほど軽い。何年も忘れていたような爽快感だ。昨日まで全身に貼りついていた疲労は跡形もなく、筋肉痛もやわらいでいる。


「ちょっとは夢オチを期待したんだけどなー……やっぱ夢じゃなかったか」


 ぽつりと零す声は、思ったほど暗くない。むしろ、朝日に向かって手足を伸ばしたとき、身体の隅々まで温もりが染みていく感覚に、どこか吹っ切れた笑みさえ浮かんだ。


「こうなったら、開き直るしかないよな」


 視界の端では、木々が朝風に揺れている。未知の世界で迎える朝は不安で満ちているはずなのに、体調が良いだけで、心にも少しばかり余裕が生まれていた。


 今日は一五九八年八月十六日。ここは伏見城の治部少丸。連れてこられたのは一昨日で、保護してくれたのは石田家の関係者。手元にある所有物は、着ていた服とコートの内ポケットのペンケースのみ。


 現状を整理していくと、胸の内に小さな緊張が戻ってくる。おそらく近いうちに──いや、今日にでも事情聴取があるに違いない。自分がここに運ばれた理由も、うまくいけばアイの消息さえも、そこで明らかになるかもしれない。


「さて、それでどうするかだよな……」


 室内の静けさが、逆に考えを追い詰めてくる。ここまで手厚く保護された以上、今すぐ害を加えられる心配はないだろう。だが、だからこそ“何者か”と評価を下される場は決定的になる。


 一度でも「危険」と判断されたら、どう扱われるか分かったものではない。


「未来から来ました、なんて……伏せといた方が良いよな……絶対」


 自嘲めいた独り言が漏れる。歴史書のどこにも“二〇一一年の日本人が伏見城に現れた”なんて話はない。つまり、本来なら自分がこの時代に干渉できる余地はないはずだ。


 それでも「未来人」とバレれば、どんなハレーションを招くか、想像もつかない。


 それはあまりにも危険だ。


「よしっ! 俺は歴史に関わらない! 全部黙って、シラを切り通す!」


 言葉にした瞬間、不思議と腹の底がすっと定まった。先が見えない状況には変わりないが、方針が定まっただけで、霧の中に一本の道が浮かび上がったような気がした。


 *


 朝食を終えてしばらくすると、襖の向こうからそっと足音が近づき、やがて静かな気配とともに佐名が姿を見せた。手には細やかな木目の浮いた桐箱を捧げ持っている。朝の光が差し込む室内で、彼女の立ち姿はどこか柔らかく、凛として見えた。


「お加減はいかがでしょうか?」


 控えめな声は、昨日と変わらず優しい。


「あ、お陰様でもうすっかり……いや、大分調子は戻ってきました」


 そう言いながら、胸の奥がふっと熱を帯びた。昨日、長い時間をかけて話をしたせいで距離が縮まった気でいた。しかし一晩明けて対面すると、むしろ緊張が強まり、脈が速くなる。


 異常な状況で手を差し伸べられたからか、それとも──南北線のホームで一目惚れしたあの女性と、あまりに似ているせいなのか。理由は判然としない。ただ、佐名に特別な感情が芽生えつつあるのは否定できなかった。


(四百年前の女性に惚れるなんて、俺は正気か? ってか、昨日今日でときめいてどうする、中学生かよ──)


 心の中で自分を叩きつけるように戒める。歴史には関わらない、と決めたばかりだ。この時代の女性と関係を持つなんて、方針どころか存在そのものを揺るがす愚行でしかない。


(そもそも佐名さんは南北線の彼女とは別人だ)


 確かに、見た目だけなら瓜二つだ。だが言葉を交わすたび、二人がまったく別の世界で育った存在だと思い知らされる。


 南北線で出会った彼女の仕草は、間違いなく“現代日本人”のそれだった。迷いのない動き、気取らない呼吸のリズム、人波に溶け込む自然さ。


 対して佐名は、同じ顔を持ちながら、立ち居振る舞いに武家の子女としての規律が滲む。所作の一つひとつに折り目があり、背筋を通す空気がある。


 語る言葉もまた然りだ。同じ「日本語」のはずなのに、使う語彙も前提とする概念も、四百年の距離をまざまざと感じさせた。


 拓真の言葉は一度ではほとんど通じなかった。佐名が小首をかしげるたび、意味を噛んで含めるように言い換え、時には手振りまで交えて説明した。


 仮に彼女が二〇一一年に現れたとしても、地下鉄どころか、自動改札の前で立ち尽くす姿しか想像できない。


「あの……本当にお加減はよろしいのでしょうか?」


 心の内で暴走する思考を遮るように、佐名の声が落ちてきた。


「あ、すいません。大丈夫です。ボーッとしてました」


「左様でございますか。ならばよろしいのですけど」


 佐名は静かに膝をつき、桐箱を拓真の前に置く。そして蓋を開けると、淡い香木の匂いがほのかに広がった。箱の中には、小袖と裃が整えられて収められている。


「工藤様をお連れするよう仰せつかりましたゆえ、こちらをお召しくださいませ。ご支度が整いましたら、ご案内いたします」


 胸がきゅっと引き締まる。


(──ついに来たか)


 今日かもしれないと思っていたが、いざとなると胃のあたりがざわつく。


 拓真は深く息を吸い、両頬をぱしん、と軽く叩いて気合を入れた。


 ここからが、本番だ。

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― 新着の感想 ―
小袖と裃…… 格式高めな扱いされてる感がある…… いや、看病も手厚かったか…… これはどういう意図で助けられたのか……? 不思議な服装だったからかな? あーもう文章が引き込まれすぎる……!
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